第9話 あなただけを見つめる
仕事終わりの電話。どちらかが会いたくなったときに、電話をかける決まりだった。
「じゃあ、いつもの改札前で待ち合わせね」
『分かった』
電話口から聞こえる紫織さんの声は、心なしか疲れているようだった。
今の俺と紫織さんの関係性を表す言葉はなんだろうと考えたとき、疑似恋愛という表現が一番適していると思った。付き合ってはいないけれど、付き合っているように見せかける。そして、お互いが恋人のように振る舞う。誤解を生む表現になるかもしれないが、直接的に言うならこれは『恋愛ごっこ』である。
いつも通りの場所に、紫織さんは突っ立っていた。人通りが多いこの場所でも、紫織さんの格好良さがあれば目を
「お待たせ、紫織さん」
「飛鳥、おつかれ」
こうして会社から離れた場所で待ち合わせをするのが、二人の中での暗黙の了解だった。そうしないと、誰かに見つかったときやなにをしているのかと聞かれたときの返答に困ってしまうからだ。
「どこかで食べてから行く?」
紫織さんと会ったあとの最終目的地は、ほぼ紫織さんの家だった。特段決まりを作ったわけではなく、何度か通っているうちに習慣化してしまっていた。
「今日はお昼ご飯食べるのが遅くてね、まだお腹空いてない」
「そっか」
「紫織さんのお腹が空いてるなら、付き合うよ」
この頃になると、俺も紫織さんも分かっていたのだ。恋人という関係でお互いを縛るよりも、こうして薄っぺらい恋人同士を演じたほうが楽だということを。だからこそ、俺は紫織さんにとっての“都合のいい相手”を演じることに徹していた。もちろん、ずっとそうしていては疲れてしまうので、場面と状況によって変えてはいたけれど。
紫織さんはどうなのだろう。
「いや、大丈夫。帰りにスーパーに寄って帰ろう」
電車に揺られ、数分で紫織さんの家の最寄り駅に着く。窓ガラスに反射する俺たちの姿を見ていると、不思議な感覚があった。俺自身がいつからこの感覚を抱いているかは分からないが、隣にいることを許されている感覚がどこまでも居心地のいいものだった。隣にいるという、ただそれだけで俺は心に羽が生えたような気持ちになっていたのである。
一人じゃないということが、こんなにも安心するものだとは知らなかった。
駅の近くに深夜まで営業しているスーパーがあった。住んでいるわけではないので昼間はまた変わるのかもしれないが、夜間は人がほとんどいない。
「半分出すね。悪いし」
「いいよ、これくらい。気にするな」
紫織さんと一緒にいるときの会計は、ほとんど俺はお金を出していなかった。正確にいうなら、出させてくれなかった。ホテル代くらい大きな額だと割り勘にすることがあったけれど、こうした細かい支払いのときは断られることが大半だった。俺の先輩にあたる人ではあるが、奢られてもあまり嬉しくなかった。どちらかといえば、それに対する対価を求められるんじゃないかと怖かった。
俺は基本的に、貸し借りという概念自体が好きではないのである。
家に着くと、ビニール袋からスーパーで買ったビールと酎ハイの缶を取り出した。
「紫織さん、テーブルにビール置いておくね」
「ありがと」
ふと窓のほうを見てみると、タイトスカートが干されていた。
あの一件以来、俺は裏路地でのことについて触れられずにいた。実際、その話を蒸し返したところでどうこうなる話でもないと分かっているからこそ、触れる必要がないと判断しているのである。もう一つ、理由がある。それは、紫織さんに嫌われたくないということである。嫌われてしまえば、きっとこのぬるい関係も終わりを迎えてしまう。それだけは、なんとしても避けたかった。
もっといえば、俺が紫織さんに対して彼女ヅラするなんてことは、決してできないのである。
「どうかした?」
顔に出てしまっていたのか、紫織さんがベッドに腰掛けてこちらを不思議そうに見つめていた。
「ううん。なんでもない」
この気持ちは口からこぼれてはいけないもので、押しとどめるべきもので。例え紫織さんがそれを受け入れたとしても、俺自身がそれを認めないだろう。
彼女の開けたビールの飲み口からは、白い泡が溢れ出そうになっていた。
「それじゃ、乾杯」
「はーい」
いつもと変わらない、家での静かな飲み会。特になにをするというわけではなく、つまみはお互いの話だけ。基本的に食べ物はなかった。これも、いつも通り。何回かに一度くらいの頻度で、紫織さんがスーパーの惣菜を買ってくることがあったが、その日はなかった。
やがてどこから始まったか、話の流れでお互いの恋愛事情について話すことになった。
「好きなタイプ?」
「そう。お互いの好みは把握しておいたほうが、なにかといいでしょ」
好きになった人のことが好きだと言ってきた俺にとって、好みのタイプなんてものは存在していなかった。この人が好みかどうか、という質問には答えられる。俺のことを受け入れてくれる人なら、誰でもいいと思っていた。付け加えて言えば、俺はおそらく恋愛をあまり分かっていなかった。
「そんなこと考えたことがなかったよ」
そんなに明確な理想像など、俺は持ち合わせていなかった。紫織さんは、どうなのだろう。
「強いていうなら、紫織さんがタイプかも」
「えぇ?」
彼女と向き合う姿勢になって、俺はそっと顔を近づけていった。
「そんなこと言って……飛鳥ってこういうの好きだったんだね」
「どういう意味?」
紫織さんに抱かれることで、俺は自分の居場所を確立していた。別にものを入れたりするわけでもなく、はたから見ればただのじゃれあい。ふざけ合っている仲のいい知り合いとでもいえるだろうか。互いの肌に触れて温かさを感じあい、求めるときに舌を絡ませる。ただ、それだけだった。それ以上のことをしようとはほんの少しも思わなかった。目を合わせて嘘の『好き』を言ってくれれば、俺はそれで十分だった。
もはやそこに、男とか女とか、そんな概念は存在していなかったのである。
「結構、かわいいところあるなって意味」
「…はい?」
空気のような付き合いがいつまでも続いてほしいと、そう思っていた。仲のいい友達のような感覚はあるけれど、決してそれ以上にはならない。年上の先輩としか思っていなかったのに、二人でいるときは優しく接してくれるお姉さん。恋人のようなやりとりや会話をしているのに、初めからお試しでのお付き合いだと決めている関係。俺にとっては、どれもが居心地のいいものだった。
「好きだよ、飛鳥」
「わたしも好き。って、もしかしてごまかそうとしてる?」
いつからか、紫織さんに対してはかなり自然体で接するようになっていた。なにを言っても嫌な顔をせず、全てを受け入れてくれるんじゃないかと思えるほどに、俺はどんどん深みにはまっていた。それはいうなれば、紫織さん依存症である。
「そんなことないよ」
「でも、これはあくまで例えなんだけど。わたしがもし男女で一人ずつ同じくらい好きな人がいるとして、付き合っててテンションがあがるのはやっぱり、女の人のほうだなって。そう思います」
男の人が嫌いじゃなく、苦手なわけでもない。しかし、付き合うとなると俺はどうしても男の人は選択肢に入らなかった。これは俺が元男ゆえに思ってしまうことなのか。もし俺が生まれたときからの女なら、男の人のことを恋愛的に好きになれたのだろうか。
「そうなんだ」
「紫織さんは、どうなの?」
「……どうだろね」
何度か上下を変わったあとで、紫織さんがタバコを吸いながらこんなことを言い始めた。
「お腹へったね」
時計を見てみると、針は二時付近をさしていた。
「うん…コンビニでも行く? 寒いけど」
「そうだね。なにか買いに行こう」
白い息を吐きながら、コンビニに向かった。真夜中特有の真っ暗な住宅街を、紫織さんと二人で歩くという特殊な環境が、なぜか気持ちよかった。俺の隣には紫織さんだけで、周りには誰もおらず、黄色の信号が点滅しているだけ。まるで本当に、紫織さんの彼女になれたような気がした。しかしきっと、そんなことを思っているのは俺だけなのだ。
「ねえ、もっかいしよ?」
朝が来ることが分かっていても、それをなんとか回避しようと考えていた。考えても無駄だと分かっていながらも、ずっと真夜中が続けばいいのにと思っていた。明けてほしくない夜だって、きっとある。
「もう三時だよ」
「うん」
「寝なくていいの?」
笑っていた。声を出しているわけじゃなく、どちらかといえば優しく微笑んでいるといったほうが適しているかもしれない。
「だって、寒いから」
「さっきまでうどん食べてたのに、もう寒いの」
「うん」
紫織さんといると、自分の知らない自分がどんどんと溢れ出していくようだった。それを冷静に客観視している自分もいた。なにより明らかだったのは、他の人と接するときよりも喜怒哀楽がはっきり出せていたことだった。
翌日の朝、太陽がのぼり始めた頃に俺はそっとベッドから抜け出して、自分の家に帰る支度を始めた。紫織さんを起こさないよう、静かに家を出た。
紫織さんの家から直接出勤してもいいのだが、きっとそれをしてしまうと服が変わっていないとか、いろいろとおかしな部分を発見されてしまうだろう。それだけは避けたかった。
「じゃあね、紫織さん」
優しい顔をして眠っている彼女の顔を見ていると、今のこの瞬間は本当になにも考えないでこうして隣にいれるんだなと思ってしまった。罪悪感もなく、発言に気を遣うこともなく、ただこうして隣にいれることがどうしようもなく嬉しくて、悲しかった。
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