第8話 元カノに似てるだけ、なんだけど

「隣、いいかしら?」

 社員食堂で声をかけてきたのは、奈々さんだった。そして、その後ろをついてきたのは七海ちゃんと紫織さん。七海ちゃんは俺の顔を見るなりパッと明るくなっていたが、それに反するように紫織さんはしまったと言わんばかりな顔をしていた。そんなにあからさまな反応をされると、こちらもどうすればいいのか困るのだけれど。

「どうぞ、お疲れ様です。珍しい組み合わせね」

 俺がいないときに、この三人が一緒にいるところを見たことがなかった。いつのまにか交流していたのだろうか。

「まあ偶然会ったから、一緒に来たの」


 同じテーブルで昼食をとるのはいつぶりか思い出せないくらいに、前のことだった。それゆえに、話は盛り上がって飲み会の話になっていた。

「久しぶりにさ、みんなで会わない?」

「例の女子会みたいな感じ?」

「そう。私たち、最近あんまり集まれてないじゃない?」

 女子会とは言っているが、中身はいつもの飲み会だ。それが心地よくて、それ以外のものなんてないのだけれど。

 きっと今紫織さんと二人きりになってしまうと、気まずさでなにも話せない。それならばいっそ、こうして雑音にまみれた環境で会ったほうが、気持ちが楽なのである。


 恋愛について考えたときに、学生時代は告白されるするという概念があったということに気づいた。ただ、相手から告白されることなんて、片手で数えるくらいしかなかった。そもそも、社会人になってからきちんと境界を定めてお付き合いしたことなんて、あっただろうか。


 いつもとは違う飲み屋にしようということになったが、入るなりビールビールと奈々さんは言い始める始末。こっちが恥ずかしくなるなんて考えていたが、運ばれてきたビールの先の女の人を見て、俺は静止してしまった。

「お待たせしました。生ビールです」

「はーい。ありがとうございま……え」

 人は極度に混乱していると、言葉が本当に詰まってしまう生き物だ。相手からすると、なんで固まっているんだと言いたくなると思うが、こうなるともうどうしようもないのである。それをすぐに解決する方法はなく、時を待つしかない。

「…? 失礼します」

 店員さんはビールを持っていっただけで見つめられてしまった、というなんともいえない感情をもっているだろう。こちらからすると、その子のことを考えている暇などない。この感情の行き先をどこにすればいいのか、ただそれだけなのだ。

 明らかに様子が変だと気づいたのか、奈々さんがこちらを心配そうな目で見ていた。

「飛鳥、大丈夫?」

「うん。ちょっとね」

 内心ちょっとどころではなかったが、こんなことを気にしていたら日常生活が送れない。さっさと忘れるべきなのだ。

「知ってる人?」

 それまで俺のほうを意識的に見ないようにしていたであろう紫織さんが、俺の顔をじっと見ていた。そんなに分かりやすかったのか。

「さっきの店員さん、もと……知り合いに似てた」

 ごめんなさい、紫織さん。嘘とも受け取れてしまう発言をしました。知り合いに似ているだけなら、こんなふうに動揺することはないくらい、普通なら分かる。普通では無かったからこそ、俺は時間が止まってしまった。苦し紛れの言い訳であることくらい、紫織さんならすぐ見抜いているだろう。

 それはつまり、より気まずい状況を助長させてしまったということだ。

「……そう」

 嘘をあえて嘘として伝える。そこに罪はないが、わだかまりが生まれる。熱が当たり見た目が変わったものは、二度と同じ形には戻らないのである。人生とは常に一方通行であり、不可逆な存在でしかない。


 元彼女、いわゆる元カノ。今考えると、とても幼稚な別れかたをしたと思うが、所詮過去は過去なのだ。覆すことはできないし、きっと忘れることなんてできない。

 あなたとの未来があればいいのに、と俺は何度も考えた。考えた結果、どうにもならなかった。まあ、初恋はだいたい実らないし、思い出は年々美化されていくものなのだ。

 自分のことを好きだと言ってくれた彼女はもういないし、あの時間も帰ってこない。彼女も最後は男を選んだのだ。

 いつまでもただの思い出にすがっている自分が、どうしようもなく気持ち悪いと感じる。そんなことは分かりきっていることで、やめたいと思っている。だがもう、これはどうしようもない。

 忘れようとするほどに、脳裏に浮かぶ姿があった。そして俺はいつのまにか、元カノに似ている人を見かけると、動悸がするようになってしまった。恥ずかしいことだと認識しているが、自分でもなんでこんなに彼女にこだわれるのかと考えていた。そこから、俺は恋愛というものが分からなくなった。結局、人を信用できなくなったのはそれからだ。付け加えるなら、俺は嘘をついている自分の姿が一番信用できなかった。


 女子会は終わりを迎えたが、奈々さんがいつも通りに酔っ払っていた。抑えればいいのにと思ったが、久々に集まれたので嬉しかったのだろう。そんなところが、なんとなくかわいいなと思った。

「ごめん。ちょっと前で待ってて」

「分かった」

 七海ちゃんが、奈々さんの世話をしていた。いつも通り真っ直ぐ歩けていない奈々さんだったが、その隣にいるのは俺ではない。今の俺には、奈々さんに近づく権利がきっとない。そういった背景をさりげなく七海ちゃんに伝えると、代わりは私ですと言わんばかりに張り切っていた。そういうのが好きなタイプだったか、なんて考えていると紫織さんも店から出てきた。

「ちょっと、聞いてもいいかな」

「なんですか? かしこまって」

 質問したいであろう内容は、もうあのことしかなかった。それ以外に聞きたいことなんて、きっとない。

「さっきの人、元カノだったりする?」

 やはり、この方は勘が鋭い。というか、女の人の勘の良さは恐怖すら感じる。

「いや、違うよ。あの人は全然関係ない人」

「……そっか」

 きっと会わない時間が積み重なっていくごとに、思い出の美化装置が元気よく働くのだ。時間が経てば忘れるという話は、いったいどこへと消えてしまったのだろう。

「それなら、なんでさっきあんな反応してたの? 様子おかしかったよね」

「やっぱり、そう見えた?」

 胡散臭い笑い方をしておどけてみたが、彼女はすごく神妙な顔をしたままだった。とても笑ってくれそうにない。こんなにも居心地の悪い空間はとてもじゃないが耐えられない。

「見えるもなにも……。タバコ吸っていい?」

「うん」

 付き合うまで知らなかったというか気づかなかったのだが、彼女はタバコを吸う人だ。仕事のときは隠れて吸っているそうで、あまりそういうイメージがないのはそれが原因だろう。

 誰にも言ったことはないが、俺はタバコを吸う女の人を見るのがとても好きだ。もっと前は誰でも吸っていたものだが、最近はめっきり減ってしまった。そんななかでも吸うというところと、単純にタバコを吸って煙を吐く動作が格好いい。ただ、男の人が吸っていてもなんとも思わないのだけれど。

「どしたの?」

「いや、なんでも」

 タバコ吸ってる姿に見惚れてました、なんて言ったら怒られそうだ。

 あれ、いや。ちょっと待てよ。紫織さんって、今まで俺に隠れて吸ってたんじゃないか…? 奈々さんと七海ちゃんが出てきたらさっさと火を消してしまったのが、それを裏付ける微かな証拠だ。

「まだ飛鳥はなにか隠してるなぁ?」

 考えていることが見透かされているみたいで、俺は下手なことを漏らさぬように口を閉じた。

「お待たせしました。奈々さん、完全に沈黙モードに入っちゃったので、お二人は先に帰っててください。私が家まで送ります」

 俺の役目を完全に七海ちゃんが代わろうとしているので止めようと思ったが、七海ちゃんが首を振った。

「だめですよ。飛鳥ちゃんには富士宮さんがいるんですから」

 変に気を遣われて、俺は七海ちゃんに余計なことを言うなと伝えたかった。これ以上二人でいたらと思うと、失礼ながらめまいがした。

「ありがとう。それじゃ行きましょうか、紫織さん」

「え、ええ」

 俺たちは、七海たちを置いて進んでいった。


 どのくらい経っただろうか。歩き進めて明るさがどんどんとなくなっていき、静かな空間に変わっていた。繁華街からはかなり離れた。それはつまり、お互いの息遣いさえも聞こえそうなほどに、静かだということである。

「さっきの続きなのだけれど」

 そうなりますよね。俺はそう聞かれると思って、七海たちと別れたあとから覚悟していました。

「はい」

「さっきの人は、ほんとに飛鳥のなんでもないの?」

「そうだよ。ほんとに」

 違う方向で嘘をついてしまったので、それがバレているのだろうか。

「それなら、どうしてあんなに食いついてたの?」

「これ言ったら、紫織さんに幻滅されそうなんだよねえ」

 こうなったら、おちゃらけキャラでなんとかやり過ごすしかない。そうしなければ、自分が潰れそうだ。

「いいから、言ってみな? なんとなく、察してるからさ」

 誰も歩いていない住宅街、そして等間隔に並んでいる電灯。視界にある情報は、それだけだった。

「…言いますね? あの、さっきの店員さんの雰囲気が元カノに似てたんです」

「はぁ、ほう。なるほどね」

「それだけです」

 自分のことを誰かに話すのは、とても恥ずかしい。よく考えてみると、俺も紫織さんも自分のことをあまり開示していないように感じる。深く知る必要のない関係といえば、それまでなのだけれど。

「忘れられないんだ、その子のこと」

「はい。もう何年も前の話なので、思い出しても仕方ないんですけどね」

「……飛鳥、もしよかったらさ」

「はい」

「私の家、来る?」


 電車に乗って十分くらいだろうか。初めて来たところはとても明るく、駅前には飲み屋街があった。俺の住んでいるところとは、また趣が違っていた。そこから離れるとすぐに人のいる気配はなくなり、住宅街になった。しばらく歩いていると、紫織さんの家の前に到着していた。

「寒いけど、ごめんね。暖房つけるから、少しすればあったかくなるよ」

「はい」

 紫織さんの家は、想像していたよりも生活感がなかった。本棚とベッド、そしてメイク道具。それらが真っ先に目に飛び込んできた。あまりこだわりとかはないのだろうか。

「飛鳥の家みたいに座布団はないから、ベッドに座ってていいよ」

 そう言われてベッドに座っていた俺は、自らの異変に気付けていなかった。

「え、ちょっと。いきなり泣くな」

「え?」

 なにを言ってるんだろうと思っていると、手の甲に水滴がついていることに気づいた。

「ほら、ティッシュで拭いたほうがいいよ」

 水滴の正体は、自分の目からこぼれて落ちた涙だった。なんで俺、泣いてるんだ。みっともないじゃないか、紫織さんの前で泣くなんて。

「どうしたの、飛鳥。寂しくなった?」

 質問の意図が分からなかった。なぜなら俺は今、紫織さんと一緒にいる。一人じゃないはずなのだ。それなのに寂しいなんて、どうかしてる。そしてこの感情が本当に『寂しい』なのかが、俺には判別できなかった。とにかく、涙が止まりそうにないのでどうにかしてほしい。

「飛鳥、こっち向いて」

 紫織さんに言われるがままに顔を向けてみると、彼女の顔が近づいてきた。

「んっ……」

 軽い口づけだった。初めはそれだけだったが、次第に舌が交わるようになっていた。泣き疲れていた俺は、自分がなにをしているのか、紫織さんがどういう顔をしているのか、そんなこと考える暇はなかった。ただ目の前にある快感に、身を委ねるだけだった。

「するより、されるほうが好きでしょ」

 紫織さんが、紫織さんでないという感覚。いつもとは違う、お姉さんをまとった紫織さんだった。仕事のときに見せる表情とも、タバコを吸っているときに見せてくれた表情とも違っていた。

「紫織さん……」

「んー?」

「好き」

 この『好き』という言葉は相手を縛る。そしてこういう場面で言えば、相手も自分も気分が高揚する言葉。それを分かっていて、俺は口からそれがこぼれてしまった。

「私も飛鳥のこと好きだよ」

 その瞬間だけは、なにもかもがどうでもよかった。なぜ自分がさっき泣いてしまったのかなんて、考える余裕がなかった。ただ目の前にいるお姉さんに、すべてを委ねて溺れてしまいたいだけだった。

「電気、消そうか。邪魔だよね」

 そのあとの記憶は、あまり残っていない。ただ一つだけ言えるのは、嘘だと分かっていながら好きと言い合う行為が、とんでもなく心地のよいものだと知ってしまったということだ。なぜこんなにも、好きという言葉は感情を動かしてしまうのだろう。


 しばらく経ち、俺たちはベッドの上で見つめ合うように抱き合っていた。紫織さんの胸に、俺の顔を埋めるように。勝手に流れ出ていた涙は、いつのまにか止まっていた。

「飛鳥、タバコ吸ってもいい?」

「いいよ。あ、ごめん。服に化粧ついちゃったかも」

「これくらい、大丈夫だよ」

「ありがと」

 体が離れた瞬間、それまで保たれていた暖かさが一気に消えてなくなってしまった。しかし、換気扇の下でタバコを吸っている紫織さんを見ると、これは紛れもない現実なんだと信じることができた。あまりに現実味がないので、これは夢なのではないかとさえ思っていたのである。

 俺は完全に紫織さんに甘えていた。俺ばかりが、紫織さんに塗り替えられてばかりだ。それでも、俺はこのぬるま湯から抜け出せそうになかった。

「これからは寂しくなったら、いつでも来ていいからね」

 タバコを吸ったあとにする口づけは、独特な苦味を運んでくるので、より記憶に深く残りそうだった。だが、俺が好きなのはこっちのほう。考えれば考えるほどに、紫織さんに塗り替えられていく自分がいた。もうきっと、ここからは抜け出せない。

 俺の頭を撫でながら微笑んでいるお姉さんは、俺のことをすべて受け入れているような気がしていたのだ。

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