第7話 身についた垢はとれない

 俺は仕事帰りに一人で飲みに行くことがあった。頻繁にというわけではなかったが、それを見たのも一人飲みの帰り道だった。

 人通りが多い大通りから離れると、居酒屋の赤提灯あかちょうちんとスナックの看板が並ぶ裏通りがある。騒がしいところを抜けていくのは疲れるので、そのときは裏通りを通って帰っていた。女の人がここを歩くことは少なく、歩いていてもお店の女の子かサラリーマンだけだった。そのためか女の人がいると、かなり目立つのである。

「あれ、どうしたんですかこんなところで」

 ここはいわゆる繁華街の裏通り。太陽の出ているうちは人のいる気がなく、夜になると店の灯りが輝いている。決して見た目が整っているわけではなく、点在しているがゆえに光と光が重なっているのである。

 スナックの前に、見覚えのある人の姿があった。いつもとは違って和服を着ていた。新鮮だなと思う反面、なんで和服姿なのだろうという疑問が湧いていた。

「…飛鳥?」

 状況が飲み込めていないのか、紫織さんはしばらく固まっていた。

 思わず声をかけてしまった俺がいけないのだろうか。だが、仕方ないと思う。お試しで付き合っている彼女の横に、見知らぬ男がいた。そして、腕まで組んでいた。まるで、恋人同士みたいに見せつけてくれました。

「……すみません、お邪魔でしたよね。それじゃあまた」

 衝撃的な光景に、俺はその場から逃げる選択肢を選んだ。きっと本来ならここで『どういう関係なんですか?』とでも聞いておくべきなのだ。だが俺に、それをいう資格はないだろう。これがお試しの関係ゆえの、危うさなのだ。そんなことは、ずっと理解していた。いつかは終わるだろうし、それを止めるような真似は決してできない。

 それでも俺は、考えずにいられなかった。いったい、どの部分に苛立ってしまったのだろう。お試し期間中に、ほかの男と付き合ったから? それとも一瞬だけ、紫織さんが俺のことを無視しようとしたから? どちらにせよ、俺はもう紫織さんとまともに話せる自信がない。けれど、大丈夫だ。なぜなら、俺たちの関係はあくまでもお試しの恋人同士。勝手にこれを無かったことにすることだって、できるはずなのだ。初めから、なにも始まっていないのだから。

 やはり、最終的に女は男を選ぶのだろうか。つまるところ、俺は紫織さんに女扱いされてるんだ。今まで抱えていた疑問が、確信へと変わっていた。そんなのって、ひどいよ。


 途中の記憶はほとんどなく、気がつくと俺は家にいた。なんとかたどり着いたらしい。目が覚めたときには、ベッドの上に寝転がるような体勢になっていた。


『飛鳥、話がしたい。』

 それから約二時間後。俺は紫織さんから届いたメールを眺めていた。返信する気力はなく、だらだらと時間だけが過ぎている。

 なぜだろうという思考だけが、頭の中を支配していたのである。どのみち、彼女から言い訳されてこの関係は終わりを迎えるのだ。決まりきっている出来事をできるだけ引き伸ばそうとしているだけのようで、俺は自分がずるい人間だと思った。きっと俺は事実を真実として認めたくないだけなのだ。嘘だ、幻だと思い、現実から逃げようとしていた。

「もう遅いよ」

 本当に俺のことを止めるなら、さっきそうすればよかったはずなのだ。『この人はただの知り合いです、そういう関係じゃないのよ』と言って欲しかっただけなのに。

 俺って本当に面倒くさい。


 それからしばらくのあいだ、夢とうつつを繰り返していた。現実に帰ってきたのは、マナーモードにして置いていた携帯電話から振動を感じたときだった。手に取ってみると、着信が二件とメールが一通届いていた。どうやら、どれも紫織さんからの連絡らしい。

『今、家にいる?』

 何がしたいんだろう、この人は。俺から返信と折り返しが来ないことが、そんなに心配なの。

 思考が巡りめぐっているうちに、玄関のほうから外の明かりが差し込んでいた。俺としたことが、玄関の鍵をかけ忘れていたようだ。

「あれ、鍵開いてるじゃん」

 離れたところから聞こえる声が、なんとも懐かしく感じてしまった。このまま会わないつもりでいたのだが、どうやらそうしてくれない雰囲気だった。

「飛鳥…?」

 携帯電話を右手に持ったまま静止している俺を見て、紫織さんも少しのあいだ固まっていた。

「何しに来たの」

 抑えきれなかった怒りが、言葉に乗ってしまっていた。微かに震えている声は、きっと紫織さんに届いてしまっただろう。感情というのは恐ろしいもので、一度飛び出ると伝搬してしまうのだ。それは自分の中を回るだけではなく、伝える相手にも同じ作用をもたらす。

「……何しにって。返信来なかったから、心配で」

「今更、彼女みたいに扱わないでほしいかな」

 空気がとんでもなく重たかった。あまりの重たさに、俺がベッドから起き上がることも寝返りを打つことも許されないほどだった。

 紫織さんがかばんを床に置いたときに、重たい空気を押しのけたためか、生じた物音が部屋中に響いた。部屋の中に残っているのは、紫織さんと俺の息遣いだけだった。

「ごめん、さっきは。本当に申し訳ないことしたって、思ってる」

 謝ってほしくないわけではない。そして、それを否定するわけでもない。しかしながら、俺はまだ紫織さんとまともに言葉を交わそうと思えなかった。謝ればどうにかなると思ってるのかなと考えてしまったのだ。

「うん。だから?」

 そもそも、なんでそんなに申し訳なさそうにしながら、俺の家に勝手に上がりこめるんだろう。俺の心にそれを指摘する余裕なんてないけれど。

「あんな姿見せてしまって」

「違う。それは違うよ、紫織さん」

 俺はきっと、そのことで怒ってるわけじゃない。もっと根本的でかつ単純な答えがほしかったのだ。

「誰、あの男」

 そう聞くと、途端に紫織さんの顔に疲れが浮かんできた。もしかしてこれは、聞いてはいけない事情が隠されていた部分だったのか。それとも、そこまでして隠したい事実なのか。

「きっと勘違いされてるから言うんだけど、あの人はお客様なの」

「どういう意味?」

「私、あの近くで働いてるの。夜だけ」

 苛立ちに疑問が重なり、俺の頭の中は思考の渋滞を起こしていた。怒ることは疲れるのだ。そこに最終目的地がなければ、なおさらである。宛のない疑問を探す旅は、終点を決めないと堂々巡りになる。

「つまり、あれは仕事だったってこと?」

「そう。あの、本当に隠すつもりじゃなかったの」

 信頼されてなかったのか、それともあのときにバレなければ伝えるつもりもなかったのだろうか。ならば、紫織さんからみた俺はどんなに優先順位が低いのだろうと思ってしまう。

「言おうと思ってたわけでもないよね」

 揚げ足取りなのは分かっている。けれど、この感情を止める術はなかった。子どもじゃないんだからと思ったが、どうやら俺は相当に感情が出てしまっているようである。

 ひょっとして、本心からあの男に対して嫉妬しているのか。お試しの関係であるにもかかわらず、いつのまに俺は本気になっていたんだろう。恥ずかしくなると同時に、馬鹿馬鹿しく思っている自分もそこにいた。

「正直に言うとね、私はあそこのスナックで働いているの。そこで、男の人と寝ているわ」

「和服だったよね」

「そう。スーツの日と和服の日があるの。一階がバーになってて、二階に行くとそういうことができる部屋になってる」

 あまりにも淡々と話す紫織さんに、俺は動揺していた。まるで他人事のように事実を述べている姿が、とても奇妙だったからだ。仕事とプライベートを分けている紫織さんならでは、なのだろうか。それとも、ただ単純に俺に伝えることが苦しいのか。どちらにしても、なぜ紫織さんはそんな仕事をしているんだ。

「そうか……だからあの日に家に来たとき、スーツだったんだね」

 実際、繁華街と俺の家は距離がそこまで離れているわけではなかった。徒歩三十分ほどだろうか。行こうと思えば、いつでも行ける距離なのだ。それであのとき、紫織さんは比較的早くここへ来れたんだ。そう思うと、なんだか複雑な気持ちだった。

「あの、話したくなければいいんだけど、なんであそこで働いてるの?」

「昼の仕事だけだと、お金が足りなかったから。それだけが、理由よ」

 嘘をついているようには見えなかった。きっと、それが本当の理由。

「私の母親は、元々病弱だった。幼い頃、母親が家にいることは少なかったわ。だいたい、入院しているか仕事しているかのどちらかだった。一緒に過ごしている時間は、本当に僅かだったと思う。そんな母が、数年前に難病を患ってね。治療費がとんでもなくかかることを説明されて、短期間で収入を増やすにはこれしかなかったの。ただ、それがどうにも体に染み付いてしまった。一度ついた垢はとれない、そう先輩に教わった。そんなわけないって思っていたけれど、その通りだった。いつのまにか、抜け出せなくなっていた」

 彼女の歯車は、どこで狂ってしまったのだろう。あまり話す機会がなかったのか、彼女の口から溢れ出す言葉たちは、どこまでも生々しいものだった。止まるところを知らず、終わりのないレールを進んでいた。

「母が亡くなったあと、実は膨大な借金を抱えていることが分かってね。ずっと仕事をしていた理由は、それだったのよ。母が亡くなったのは、まだあなたが入社する前の話だからきっと知らないはずよね。辛かったけれど、私は相続放棄したわ。そこで、自由になれたはずだった。生活も昼職の収入だけでまかなえるからら、夜の仕事をする必要はなくなったはずだった。ところが不思議とね、辞めようって思わなかったの。そこで、私はあることに気づいてしまった。恋愛ってなんだろうって。男の人と寝ることは、私にとって仕事だった。職場で誘われることもあったのよ。でも、これは仕事だとしか思えなくてしんどくて、いい関係にはなれなかった。そんなときに、この人となら大丈夫かもと思えたのが、まさかの女の人でね。飛鳥も知っての通り、立花さんなのだけれど」

「恋愛が分からないから、それ以上はどうすることもできなかった。そんな感じですか」

 紫織さんに心惹かれたのは、きっと無意識的に通ずるところを感じたからなのではないだろうか。

「もし紫織さんがまだわたしの彼女なら、一言伝えてもいいですか」

「うん。いいよ」

 これを伝えることは、きっと関係性が大きく変わってしまうだろうと思った。お試しの境界を超えてしまうと、戻れなくなると思うと、とんでもなく怖かった。だがしかし、紫織さんが話していたときの表情を思い出してみると、そんな自分勝手な妄想などどうでもよく感じた。身勝手で独りよがりだけれど、出来ることなら少しでも紫織さんの支えになりたい。

「もう、そんな無茶しないでください」

 ベッドから起き上がり、座布団の上で正座をしていた紫織さんに近づき、俺は彼女の唇を覆った。きっとメイク直しをお店でしてきたのだろう。ついていたリップグロスが俺の唇にべっとりと感染うつった。

「飛鳥、突然どうしたの」

 紫織さんが俺のことを女として見てくれる限り、俺は紫織さんに近づける。お試し期間が終わったら、俺は俺自身の全てを彼女に伝えようと思う。今は、紫織さんが好きになってくれた『女の子のわたし』を演じることに徹しよう。

「紫織さんが、ほかの人としたくなくなるように、しっかりわたしのこと覚えてもらうことにしました」

「えっと、つまりどういうこと? そういうこと?」

 少しだけ混乱している紫織さんをベッドの上に誘導し、柄にもなく押し倒したりした。それをしたことにより、今まで紫織さんの前に立ちはだかっていた壁を壊せた気がして、不思議な優越感を抱いていた。

「紫織さん」

「うん、どしたの」

「明日は祝日ですけど、予定入ってますか?」

 そう聞くと、バツが悪そうな顔をした。

「ほんとはね、明日もお店に出勤する予定なんだよね」

 予感的中。もう、俺が彼女の彼女であり続ける限り、行かせる気がなかった。いや、違う。行かせたくないのだ。

 彼女の指に俺の指を絡ませて、再び口づけを交わした。

「わがまま、言ってもいいですか?」

「いいよ。飛鳥は普段わがまま言わない子だもんね」

「……もう、あの店で男の人と会わないで」

 そう伝えると、彼女は俺に抱きついた。応えるように、俺は彼女の体を寄せて頭を撫でた。初めはほんの少しだけ震えていたけれど、徐々におさまっていった。よく知っている者同士であるにもかかわらず、こうしているとまるで人見知りをしているみたいだ。

「今日は、飛鳥の好きにしていいよ…?」

 俺の演じている『わたし』が偽物であるとしても、紫織さんへの感情を諦めることができそうになかった。そう思ってしまうほど、俺は紫織さんに塗り替えられてしまった。

 今度は、俺が紫織さんを塗り替える番だ。

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