第6話 恋が止まらない

 俺に全体重を預けていた千鳥足の奈々さんをベッドに運び終えると、携帯電話の着信音が鳴った。

『今夜はお楽しみだそうで』

 紫織さんの第一声がそれだった。なんというか、あまりにも露骨な質問に驚く暇もなかった。

「そんなことないですよ」

『もしかして、隣にいたりするの』

 その通りである。言い逃れはできない。ここで誤魔化してしまうと、事態が拡大解釈されかねないのでありのままを伝えることにした。

「…います。でも、本当に寝ているだけですよ?」

 我ながら恥ずかしい。動揺を隠しきれずに、少し舌を甘噛みしてしまった。舌が痛むという久々の感覚に、少し涙が出ていた。

『浮気?』

「いや、あの」

『付き合い始めてから、まだ日も浅いわ。それとも、飛鳥はそういうのが好み?』

 俺のことをからかうような言い方だった。本人はこの場を落ち着かせるつもりかもしれないが、俺は背後をまとわりつく冷たい空気に押しつぶされそうだった。いや、そもそもこれは好みの問題なのだろうか。

「いえ、まったく!」

『そう』

 紫織さんが黙り込んでしまった。面白くないと思われただろうか。

『なら、私がそちらへ行っても問題ないよね』

 とんでもないことを耳にすると、人間は自分を守るために思考が停止する生き物である。

「えっと、紫織さんわたしの家の場所、知らないですよね」

『あら、私の役職を忘れてるのね』

 なんのことを言っているのか分からなかったが、紫織さんが考えていることはなんとなく伝わっていた。要は、隠し事をすることはできませんよとでも言いたいのだろう。なんてひどい彼女だ。職権濫用にもほどがある。

 言い方からすると冗談として受け止めていいだろう。なにを考えているのか分からなかった紫織さんが、こうして冗談を言ってくれるという事実に、俺は嬉しく思った。

「不正利用ですよね? 完全にそれ」

『はは。あなたの社員名簿を見たことはあるけれど、さすがに覚えてはいないから教えてちょうだい』

 近くにある駅からの道順を伝えると、紫織さんは『へえ』と言っていた。

『意外と今いる場所から近そうだわ。これから向かうわね』

「分かりました」

『…隠すことがあるなら、今のうちにね?』

「ないですから!」

 そこで電話を切られてしまった。

 こちらの様子が筒抜けなのだろうかと思うほどに、紫織さんの手のひらで転がされている感覚だった。年上の彼女と付き合うのって、こういう感覚なのだろうか。

 甘え方を知っているというか、上手なやり方をっているのだ。だからこそ甘えるように見せかけて、実は主導権を握っているのは紫織さんということが常態化している。きっと俺が同じことをしても、ただ子どもが近所にいるお姉ちゃんに甘えるようなものになってしまうだろう。


 インターホンが鳴り玄関の扉を開けると、紫織さんがなぜか私服のスカートではなくパンツスーツ姿で立っていた。

「こんばんは」

「いらっしゃいませ。スーツなんて珍しいですね。狭い家ですが、どうぞ」

 奥に進んでいくと、ベッドの上で奈々さんが静かに寝ている。時々生きているかが心配になり、紫織さんが来るまでは呼吸しているかを確かめるために耳を澄ませていた。

「寝たの?」

「えっと、ああ……」

 紫織さんが言っている『寝たの』は、きっと一般的な、就寝を確かめる意味での『寝た』ではないのは明らかだった。そんなに疑われると、いよいよ冗談として受け止められなくなりますよ、紫織さん。

「ここに来てから、ずっとこの調子です。起きてくれませんでした」

「そうなの」

 なぜか残念そうにしていた。


 泊まっていくと言い始めた紫織さんは、お風呂に向かっていった。彼女が来る予定は想定していなかったので、お湯は張っていなかった。

 十分ほど経った頃に戻ってきた紫織さんは、ある意味で不健全な格好をしていた。

「あの、半裸で部屋をうろつくのやめてください」

「別にいいじゃないの、減るものじゃないし。それよりも、なんでもいいから服貸してくれない? さすがに白シャツでは寝たくないわ」

 紫織さん、そのセリフは見る側が言うものなんですよ。そんなツッコミを心の中でして、俺はスウェットを渡した。


 疲れ切っていたため、もう寝ようということになったが、ここである問題が浮上していた。

「あの、布団が一つしかないんですよね」

「そうなのね。どうしましょうか」

 考えても布団が増える、なんてことは起こり得ない。しかし、この状況をどうにかできる気はしなかった。少なくとも、紫織さんからとんでもない提案をされるまではそう思っていた。

「ねえ、私が立花さんと一緒に寝ても良いかしら」

 そうなるだろうという気はしていた。どちらかがベッドで寝なければ、三人目は床で寝ることになるのだ。

「浮気ですか? そうですね?」

 これは小さな反撃である。俺に攻撃を幾度となくしてきたのを、後悔するといいのだ。

「あなたも同じようなこと、さっきしてるんでしょう? どこまでしたの」

「どこまでもなにもないです。奈々さんとは、そもそもそういう雰囲気になったことがないです」

 後ろめたいことがないということを、淡々と伝える。これが俺のやり方だ。

「本当に? 口づけも交わしたことないの?」

「ええ。奈々さんとはしたことがないです」

 ちょっと待て、これは嘘だ。真っ赤ではないが、濃い赤だ。

 不可抗力ではあったが、奈々さんから水を口移しで飲まされているではないか。それは、はたから見ればキスという扱いになるだろう。

「あれ、もしかして"キスは"したことがあるんですか」

「キスというのかは分かりませんが、したことはあります」

「なるほど」

 あれ、おかしいな。いつのまにか、俺が悪いことをした子どもみたいな扱いをされているじゃないか。

「ということは、そのまま体も重ねたんですか?」

「いや、それはないです」

「どうだか、怪しいですね。先輩を家で寝かせるなんて、そうなればすることは決まってるじゃないですか」

 おかしい。紫織さんって、こういう感じの方だっただろうか。発想がすぐにしもの方向へ進んでいくのが、本来の紫織さんだったのか。もしや、仕事中に表情が崩れないようにしていたのは、それが理由だったとすると、かなり面白い。しかし、根拠のない事実を述べられることが、俺はどうしても見過ごせなかった。

「あのですね、紫織さん」

「どうしました? 認めますか」

「あの、わたしはそもそもしたことないんですってば…!」

 勢いに任せてとんでもないことを口走ってしまったが、俺は未経験だ。いや、そもそも女同士でしたときはどこからが経験、未経験の境目なんだろう。ともかく、キス以上の行為をしたことがない。きっとこの場合は、未経験扱いでいいはずだ。知らないけど。

「ごめんなさい。そんなことを言わせるつもりじゃなかったのよ」

 適当に考えていた俺とは正反対に、紫織さんは深刻そうな表情でこちらを見つめていた。やめて、そんな可哀想な目でこちらを見ないでください。

「酔い潰れてるんで、いいですよ。でも、目が覚めたときに奈々さんがどう思うかは知りませんよ?」

 どうにでもなれ。


「眠れない」

 日付は変わっており、今は午前三時。奈々さんの隣で紫織さんが寝ている。そして、床に布団を敷いて寝ているのは俺だ。

 目を瞑ったまま時間を待てど、羊が柵を超えているのを想像しても、眠れる気配がまるでなかった。例えるなら、旅行に行く前の高揚感が抑えきれず、なかなか寝付けない感覚に近いだろう。しかし、これはまた性質が異なる。

 奈々さんから言われた言葉を、俺は頭の中で繰り返していたのである。

『どうしても合わないんだもん』

 男とは付き合うつもりがない奈々さん。俺のことを女だと思って告白した奈々さん。どちらも真実であり、目を背けるべきではない。だからこそ、もうそこへ目線を向けてはいけない。

 俺はきっと、恐れている。隠したままでも誰かと付き合うことはできる。実際、俺はまだ紫織さんにその事実を伝えていない。だがそれは、あくまでも“お試し”の付き合いだからと割り切っている関係だからこそ、伝えなくてもいいと思っているからだ。もし恋愛ごっこではなく、本気で向き合うなら、俺はその人に過去の話を打ち明ける必要があると考えていた。

 それをするということは、俺が男だと打ち明けるということ。そして、奈々さんとは付き合えないということ。あのときに断っておいて正解だったと、そう思い込むしかないのである。

「どうしたらいいんだよ……」

 今夜はきっと眠れない。


 眠ったのか眠っていなかったのか分からないまま、気がつくと太陽の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。布団から出ると、冷気が身を包んだ。とりあえずお茶でも淹れようと思い、やかんに水を入れていると、いつのまにか紫織さんが隣に来た。

「おはよ、飛鳥」

「紫織さん、驚かさないでください。おはようございます」

「いえ、そういうつもりじゃなかったのだけれど」

 生活音で目が覚めてしまったのか、奈々さんも台所へ来て『二日酔いをしました』と報告してきた。奈々さんには水を用意しよう。


 時計を見ると、午前七時だった。休みの日の朝であるにもかかわらず、全員が起きていた。なんと健康的な休日なのだろう。俺と紫織さんは温かいお茶、奈々さんは水を飲んでいた。三人とも頭が働き始めていないのか、しばらくのあいだはお茶をすする音だけが部屋の中に響いていた。それを終わらせたのは、紫織さんだった。

「立花さん、一つ伝えておきたいことがあるの」

 意を決した表情の紫織さんが奈々さんの方向へと体を向けて、こう続けた。

「私、飛鳥と付き合っているの」

「…ふぁい? というか、なんで富士宮さんがここにいるの?」

 奈々さんから『なに言ってるのこの人』と言いたげな顔で見られているが、事実です。なので心の中で謝ります。すみません。

「嘘じゃないわよ」

「飛鳥と富士宮さんが付き合ってる…?」

 二日酔いがなかなか抜けず、時折気持ち悪いと呟いていた奈々さんが、完全に起きた瞬間だった。

「まだ日は浅いけどね。とりあえず、立花さんには伝えておこうと思って」

 告白した相手に彼女ができたという報告を、その彼女からされるというかなり特殊な状況に、俺は紫織さんのことをひどい人だと思ってしまった。なにも、この場で言わなくてもいい。だが、紫織さんのことだ。きっとこれもなにかを考えた結果、していることなのだろう。

 そもそも、紫織さんは奈々さんのことが好きなはずだ。それなのに、なぜ。そして、俺と紫織さんの付き合いはあくまでもお試しだったはずだ。

「おめでとう、でいいのかな」


 俺から見ると、奈々さんと紫織さんは同志なのだと思う。きっと、紫織さんは俺と付き合うよりも奈々さんと付き合ったほうが幸せだ。そう思ってしまうほどに、奈々さんの隣で寝ていた紫織さんの表情は、穏やかだった。それなのになぜ、俺と付き合うことにしたのだろう。

 お試しなら、紫織さんは俺ではなく奈々さんと付き合えばよかったんじゃないか。

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