第5話 まだあなたに恋してる

「それじゃあ、ね」

 それ以上の接触は避けた。単純に俺がそうしたくないということもあったが、これがただの恋人ごっこであるという意識がずっと根底にあったのだ。

 紫織さんがどう思っているのかは知らないけれど、少なくとも俺は今まで通りの態度で接するつもりだった。もし恋人の範疇はんちゅうで求められることがあるなら、それを受け入れていこうと思っている。


 次の日の昼休憩。俺はこれまで通り、奈々さんと二人で食事をとっていた。その日は気分を変えようと、会社近くのカフェに来ていた。

「難しい顔して、どしたの?」

「……いや、ね」

 言えないよなあ、こんなこと。伝えたからといって、どうにかなるものでもない。彼女が本当に好きな相手と、こうして過ごしていることなんて、言えるはずがない。

 特に関係性が変わったわけではないので、今でもこうして奈々さんとお昼を二人で過ごすことはある。奈々さんがどういう気持ちで俺のことを誘ってくるのかは分からないけれど、今は紫織さんと付き合っているのだから、今更ながらこういうこともやめたほうがいいのだろうか。

 それとも、俺がここから抜けて、紫織さんにバトンを渡したほうがいいのだろうか。

「奈々さんって、今まで付き合ったことあるのは女の人とだけなんですか?」

「あったとも言えるし、なかったとも言える」

「どっちなんですか」

「両方付き合ったことあるよ」

 驚きはなかった。ただなんとなく、そんな気がしていたからだ。

「これ以上聞かれても、面白い話は出てこないよ」

「ん、まあ。そうですよね」

 水滴のついたコップをとり、奈々さんは入っていた水を飲み干した。

「飛鳥は、なにか悩みとかある? 最近、そういう話できてないから」

 仕事の悩み事があれば、奈々さんにいつも相談していた。どんな些細なことでも包み隠さず話していたが、最近はそれができていない気がする。コミュニケーション不足な気がしてならない。

「いや……特にこれといった悩みはないですね」

 悩み。そんなもの、いろいろある。例えば、最近あまり奈々さんと話せていないことが悩みです、とか。告白されてそれを断っておきながら、こんなことを思うのはとても失礼だとは思うが許してほしい。俺は、奈々さんとの関係をこれ以上近づけたくないし、遠ざけたくもないのだ。もっというなら、奈々さんとこうしてご飯を食べに行ったりすることは、今後も続けていきたい。そう思っている。

「奈々さんは、最近悩みとかないんですか?」

 そう聞いてみると、奈々さんは途端に目を細めた。そして、いつもより低めの声でこんなことを言い始めた。

「……後輩の前で、そんなこと言えるはずないじゃん。今は飛鳥の話をしてるの」

 俺は、拒否したのだ。一番越えたいと思っていた先輩後輩の関係に終止符を打たず、継続させることを望んでしまったのだ。そして今でも、奈々さんが俺に好意を持っていることを知りながら、こうして二人で過ごしている。

 俺はいったい、奈々さんとどうなりたいのだろうか。

「今は、そういうのなしにしましょうよ。会社の中じゃないですし」

「飛鳥、こういうときだけそういうこと言うよね。ずるいね」

「そんなことないですよ。いつも通りです」

 いつも通り、俺はごまかし続ける。そして奈々さんは、見て見ぬふりをする。いつでも、その繰り返しだった。だからこそ、俺は奈々さんが諦めてくれることを期待していたのだ。俺に恋愛感情をもったとしても、何の意味もないということに気づいてほしかった。しかし、そんな俺にとって都合のいい希望は叶うはずがなく、彼女への裏切りは表面化したのである。

「じゃあ、こうしよう。今日の夜、都合よければ飲みに行こう」

 そう言った奈々さんの顔は、なぜか寂しそうだった。


 夕方になり、珍しく残業なしで仕事を終えた俺は、給湯室にいた。お試しとはいいつつ、今日の夜の集まりに後ろめたさを感じていたので、事前に紫織さんには今日の夜のことを伝えておくことにしようと思ったのである。

「もしもし、紫織さん?」

『はーい。どうしたの』

「今日の夜、奈々さんと飲みに行ってもいい?」

 電話の向こうからは、キーボードを打つ音が聞こえてきた。定時は過ぎているけれど、残業中なのだろうか。

『それ、私が嫌と言ったら困るでしょう』

「……ちょっと困ります。でも、いえなんでもないです」

 紫織さんの感情が出るタイミングが、なんとなく掴めてきていた。それが分かってきていたからこそ、この電話が重く感じていた。俺は仮ながらも彼女相手に、少しひどいことをしているかもしれない。

 それならと、ある提案を投げてみた。

「もし都合が良ければなんですけど、紫織さんも行きませんか」

『あ……ごめんね、気を遣わせて。私、今日は遅くなりそうなの。だから、行っておいで。また話、聞かせてね』

 最後のほうで声が小さくなるあたり、本当に残念がっているのだと思う。

「分かりました。それじゃあ、また明日。遅くまでお疲れ様です」

『うん。お疲れ様』

 それとも、行くことをやめたほうがよかっただろうか。

 俺に対して少しでも好意を持っている相手と飲みにいくなんてのは、きっと彼女への裏切りなのだろう。それと同時に、俺はもってはいけない感情が芽生え始めていることに気づいてしまった。お試しの関係性にもかかわらず、紫織さんのことを面倒くさいと思っている自分が確かにいた。


 一人でも生きていける。

 他人からの好意や感情を俺が素直に受け取れないという原因の根本にあるのは、自分のことを信用できないからだろう。信用できない相手のことを好きになるなんてのは、もってのほかなのだ。

 だからこそ俺は、女の存在である大垣飛鳥を作り出し、仮面を被って生活している。それが良いか悪いかではなく、そうすることでしか俺は息ができないのだ。女同士の付き合いという関係性は、大垣飛鳥を演じることでしか実現できないことである。

 もし事情を知らない紫織さんや奈々さんに俺のことを話すとしたら、それはいつやってくるのだろう。可能性としては二つある。一つ目は、過去の俺がバレてしまうこと。二つ目は、俺が耐えられなくなって自白してしまうこと。ただ、一つ目のバレてしまう可能性は、限りなくゼロに近い。なぜなら、過去の俺はすべて廃棄してしまったからだ。写真、卒業証書、大学生になるまでに使っていたありとあらゆるもの、全てを俺はてた。


 来ていたのは、俺の行きつけの居酒屋だった。だからといってどうということはないが、昭和レトロな雰囲気が好きなのだ。

「それで、今日はどこまで話してくれるんですか」

「話せる範囲で話すよ」

 若干ほろ酔いになっている奈々さんから、なんとか恋愛話に繋げることができた。素面しらふではとてもじゃないが、奈々さんの悩みを聞き出すことはできないだろう。

 ちなみに、俺も少し酔いが回り始めていた。

「それで、悩みがあるのは恋愛面ですか?」

「そうよ。最近ご無沙汰ですからね」

 この人、少し酔い過ぎではないだろうか。こちらが下手なことを言うと、とんでもないことを言い始めそうな勢いである。

「あの、単刀直入に聞きますね。奈々さんって女の子が好きなんですか?」

「急すぎない?」

 若干目が覚めたのか、崩れていた体勢がピンと伸びていた。

「そうね。自覚したのは、つい最近だけどね」

「そうなんですか。男の人とも、付き合ったことがあるんですか?」

「一応…ね? どうにも合わなくて、すぐに別れちゃったけど」

 社内では、奈々さんがイケメン若手社員と付き合っているなどという噂も流れていたが、どうやら完全に噂でしかないようだ。そもそも、告白されるまでは彼氏がいるものだと、勝手に思い込んでいた。

「ちゃんと付き合ったのは、次の元カノだけだね」

 ちゃんと、という言葉が引っかかったが、あえて触れない方向でいくことにした。爆弾発言は誘発させたくなかったのだ。

「その子から、別れるときにこう言われたの。『次に付き合うなら、男の人のほうがいいと思う』って。余計なお世話だよね」

「そんなこと言われたんですか」

 言われた当時のことを思い出したのか、奈々さんが深くため息をついた。

「なんというかね、付き合ってる間はずっとそんなことを考えながら過ごしてたのかなとか思ってね。ちょっと、辛かったかな」

 それ以来、恋人は作っていないらしい。そして、俺に向けて告白してきたというわけだ。ますます、俺に告白してきた意味が分からない。男の人と付き合おうと頑張ったこともあるのだろうか。

「男の人とは、もう付き合うつもりないんですか」

「ないね。はっきり言える。どうしても合わないんだもん」

 自ら傷を付けにいって、どうするつもりなのだろうか。女であるが女でなく、男であるが男でない、そういう人生を選んだのは間違いなく俺なのだ。生い立ちを話したところで、理解してもらえるとはこれっぽっちも考えたことはない。理解してほしいと思ったことはあるが、そんなのはただの利己的な発想なのだ。

「飛鳥が…もしあなたが男の子だったら、付き合えるかもね…」

 ここで言えていれば、楽になるのだろうかと思った。目の前で女みたいに振る舞っているだけで、元は男なのだと言いたかった。けれど、そんなことをしたところで、お互いのためにならないのだろう。

「わたしが男なわけ、ないじゃないですか」

 そう返すと、閉じかけていた奈々さんの瞼がしっかりと閉じてしまい、俺の肩にもたれかかっていた。


 そのあとに店内を流れるどんな曲もすべて、俺の耳には悲しいバラードに聴こえていた。きっとそんな夜もある。

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