第4話 恋人も濡れる改札口
恋愛感情。もし付き合うなら女の人がいいと考えていた。それは、今までの俺自身のことを振り返っての結論だった。
まだ男として生活していたときに、俺は少しだけ彼女がいた期間がある。そのときの俺は男として生活していた。その人とは別れて、大学生のときに男の人と付き合った。大学で所属していたサークルの先輩で、頼り甲斐があるし話しやすい人だった。何度かそういう雰囲気になったことはあったけれど、二人の距離が最も近づいたのは、手を繋いだときだけだった。
恋人同士ではなく親しい友人といったほうが合っていることがお互いに理解していたのか、たいして長続きはしなかった。
そのあとも何度か男の人と付き合うまではいかないものの、良好な関係を築くことができたこともある。しかし、どうしても俺は男とはそういう関係にはなれなかった。
とある喫茶店に来ていた。いつもは気分転換のために来ることが多いが、今日はある人と一緒だ。いわゆる、行きつけの喫茶店である。
「富士宮さんは、気になる人とかいないんですか?」
かけていた丸いレンズの眼鏡を調整し、富士宮さんはこちらをしっかりと見つめていた。だがどこか不安なのか、時折下を向いていた。
「いるにはいるのですが……これがそういう意味での気になるなのかが分からないんです」
言葉の裏に見え隠れする感情に、俺は動揺していた。富士宮さんは、しっかりと恋愛が分かる人なのだろうと、そう思ったのだ。
「つまり、その相手は誰なんですか?」
「言ってもいいんですかね」
「別にここでわたしに好きな人が誰かってことを明かしても、本人に伝わるわけじゃないですから」
正直なところ、ここで俺に言うことを
「それもそうね…。飛鳥さんが言わなければ伝わらないはずだものね」
重たい息を漏らしたあと、富士宮さんは言葉を続けた。
「今気になっている相手は、立花さんなの」
どうやら、少し複雑なことになってしまっているらしい。恋愛相談をしてきた人の好きな人が、俺に告白してきた相手と同じだったということだ。これはとんでもないことになってしまったようだ。別に浮気とかそういうことをしたわけではないにもかかわらず、そわそわしてしまう。
「立花さんって、もしかして奈々さんのことですか?」
「すぐにその名前が出てくるところが、さすがね」
彼女は不気味な微笑みを浮かべて、ふふっと独り言を漏らしていた。
「立花さんと聞いてすぐに思いつくのが、奈々さんくらいだったんですよ。そもそも、それ以外の立花さんが思いつきませんし」
「……そうよね」
笑顔になったり、泣きそうな顔をしたり、今日の富士宮さんは気分の上下が激しいようだ。彼女の感情の変化による影響を受けてしまったのか、俺の感情も揺さぶられていた。
俺のことが好きだと言ってくれた奈々さん。そして、奈々さんのことが好きな富士宮さん。俺が一方的に気になっていた富士宮さん。だが、俺も富士宮さんもその感情自体が恋愛的なものなのかが明確ではなかった。
「飛鳥さんは、好きな人いないの?」
好きな人。その言葉に、俺は惑わされ続けていた。特別な感情を持てる相手がいたことはなく、分からないまま今日まで生きてきた。ただなんとなく、その場の雰囲気にのまれるままに過ごしていたのである。
「わたし、好きな人いたことがないんです」
「あら。どういうこと?」
「今の富士宮さんの話を聞いていて、わたし思ったんです。やっぱり、わたしにはそういう誰かのことを特別だって思えたことはないなって」
物語で知る恋愛の意味を、頭では理解していた。そこに対して嫌悪感があるわけでもない。しかし、それが分かるのは第三者の話を聞いているときだけだった。
「あなたは……」
彼女の言葉は、そこで途切れた。元々用意していた言葉を口から出すことに、抵抗を感じたのだろうか。それとも、俺に気を遣ったのだろうか。どちらにせよ、明らかに不自然だった。
「そしたらね、こうしましょう」
「はい?」
「私たち、案外気が合うと思うの。飛鳥さんはそう思わない?」
「思う思わないというか、どういう質問ですか」
そのときの俺には、富士宮さんがなにを言っているのかが全く分かっていなかった。というよりも、意図が掴めなかったのである。しかしその直後、彼女は思わぬ言葉を口にした。
「お試しで私と付き合わない?」
「なに言ってるんですか? 酔ってますか?」
俺たちがいるのは、いたって普通の喫茶店である。実はアルコールがコーヒーの中に入っているとか、そういったサービスは特にない。カウンターの奥でグラスを拭いているのも、気前のいい白髪のおじさんである。
いや、そういうことではなく。目の前でホットコーヒーを飲んでいる、黒髪のお姉さんは先ほどなんと申しましたか。とても聞き捨てならないことを言っていたと思うのだが。
「酔ってないよ」
酔ってないよ。言葉通り受け取るなら、さっき聞いたことは聞き間違えじゃなかったのか。そういうことなのだろうか。
「冗談はやめてくださいよ。ちょっとだけ信じちゃったじゃないですか」
「信じてもいいんですよ」
他人の言葉を信用するということが、俺はできなかった。嘘をついて生活しているからこそ、そう考えてしまうのかもしれない。だけれど、俺と富士宮さんの関係なら。
「信じられないんです。他人のことが。富士宮さんがどうのとか、そういうことじゃないんです。根本的に、どうしたらいいのかわたしにも分からないんです」
「そんなふうに考えてるんだね。私にはその感覚はないけれど、辛いでしょう」
同情されるのは嫌いだった。しかしなぜだろう。富士宮さんからのその言葉は、すんなりと受け入れることができた。
「もやもやはします。その感覚が分からないということが、どうしようもなくもどかしいんです。ありふれた恋が、わたしには遠い話みたいに聞こえて。どこまで手を伸ばしても、そこには届かないんです」
普通という言葉が嫌いだった。恋愛ができない俺には、普通になれないのかという苛立ちすら感じてしまうときもあった。どうしようもないと分かっているからこそ、それに対する改善策を見つけられずにいた。最近では、それをどうにかしようと思うことさえも放棄している。
「よし、分かりました。それなら、こうしましょう」
彼女はそう言って、少し残っていたコーヒーを飲み切り、目線を俺の目へ向けてこう続けた。
「飛鳥さんは、私のことを好きにならなくてもいいわ。だって、お試しで付き合うんですから」
好きにならなくてもいい。その言葉が、俺の心に染み渡っていた。おそらく、これは『普通』ではない。人によって普通の意味は違うと思うけれど、少なくとも俺の思っていた普通とはかけ離れている。それでも、彼女のその言葉は俺の気持ちを落ち着かせてくれた。落ち着かせてくれる力が、彼女にはあった。
「だから、私と飛鳥さんはあくまでも特別な関係じゃないのよ」
「…あの、富士宮さんがそれをする意味はなんですか?」
それを聞いたあとで、俺はしまったと思った。きっと富士宮さんは、俺のことをなんとも思っていないだろうし、ただの思いつきだろうと気づいたからだ。意味があるかないかという話、以前の問題なのである。
「さっきまでの飛鳥さんの話で、あなた自身に興味が湧いてしまったから。ということにしておいてもいいかしら」
「いいですけど……物好きな人ですね」
喫茶店を出た俺たちは、近くの駅へと向かっていた。途中でお互いの手の甲が当たって離れようと思ったが、富士宮さんから手を握ってきた。彼女の手は少し冷たかったが、握っているうちにお互いに温まっていた。手のひらにかいてしまった汗が恥ずかしくなるほどだった。
しばらく歩くと、駅の改札口前に到着した。
「着いたけれど、どうせならここで恋人っぽいことしましょうか。恋人にしか、できないこと」
「どうしたんですか、突然。例えば、どんなのですか?」
好きではない人と、お試しの恋人同士になる。お互いに好きではないけれど、はたからみれば付き合っているように見えるだろうか。女同士で手を繋いでいても腕を組んでいても、周りからは仲のいい友達にしか見えないはず。それまでは、そう思っていた。
彼女の唇が、俺の唇に触れていることを認識するまでは。
「……こういうこと」
「改札前でこんなことしますか?」
「するんじゃないかな」
少し影になっているとはいえ、人通りが多いところでする口づけは恥ずかしかった。他人と接触する行為を皆に見られているという感覚が、そうさせているのかもしれない。
「富士宮さんって、そういう人だったんですね。初めて知りました」
「ちょっと、それどういう意味ですか」
富士宮さんが、困った顔をしていた。いつもは表情を滅多に崩さないのに、今日はかなり種類が豊富な富士宮さんが見れる。もしかすると、プライベートな富士宮さんはこんな感じなのだろうか。それはつまり、七海ちゃんと奈々さんが知らない彼女を見ることができているということだった。
本当に恋人みたいだ。
「あと、そろそろ名前で呼んでほしいな」
「紫織…さん?」
さすがに年上のお姉さんのことを呼び捨てにすることは、できないと思った。さん付けで呼ぶのが、精一杯だった。
「はい。飛鳥」
「紫織さんは、さん付けしないんですね」
「だって、それだと今までと同じになるわ」
そう言っている紫織さんは、とても恥ずかしそうだった。好きでもない相手に、こんな顔できるんだ。そう考えてしまった俺は、きっとひねくれ者なのだと思う。そもそも、俺とこんな関係を結んでしまってよかったのだろうか。
そのあと、俺と紫織さんは軽く抱擁した。そして、彼女の呼吸が至近距離にあることを感じた。すごく当たり前のことであるが、彼女が生きているということを認識することで、俺は自身の内面の変化を感じていた。そのとき、口づけをしたときよりも自分の鼓動が速くなっていたのである。
あの感覚は、いったいなんだったのだろうか。
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