第3話 わたしの先輩

 嘘で塗り固めた自分のことを好きだと言われる。そのことがどんなに辛いことなのかを、目の前のお姉さんには言えない。もしできたとしても、一方的に彼女のことを傷つけるだけだと思う。そんなことはもうしたくないし、するつもりもない。

 隠し事の無い人間なんて、この世の中にいるのだろうか。

 俺自身の話をするなら、例えば戸籍特例修正法で生まれたときの性別とは違う性別で生活してるんですと言ったら、快く思わない人だっているだろう。それが飛び火して、俺の周囲にいる人たちに良くない影響がでるかもしれない。そうならないためにも、俺は自分自身の出生から高校生までの記憶がないことにして、生活している。そうしなければ、物事や出来事の辻褄が合わなくなるからだ。

 女で生まれていない人が、過去の話で盛り上がることなんてできないだろう。だって、性別が違うのだから。隠さなければいいんじゃないかと思う人もいるだろうが、それは各々の考え方によるので、勝手にしてくださいという感じだ。


「でも、奈々さん付き合ってる人がいるんじゃないんですか?」

「そんなの嘘に決まってるじゃないの」

 嘘に決まっている。ということは、そのときに聞かれなくても答えはすでに確定していたということなのだろうか。それとも、嘘をつくという行為自体が常態化しているので、今更どうこういうことじゃないという考え方もある。だが、後者はあまり考えたくない。

 そんな奈々さんを想像したくないという意味もあるけれど、一番は俺自身がもっている奈々さんへの理想を壊してほしくない、という願いがあった。

「なに難しい顔してるの。またなんか変な想像してる?」

「またってなんですか、またって」

 奈々さんは薄く笑って、俺を見つめていた。

「いつもそうじゃない? 飛鳥って想像力抜群だから、私の知らないところで勝手に妄想を膨らませてるもの」

「それ言い方に問題ないですか」

「あなたのありのままを言ったまでよ。いろいろと面倒だから、気になってる男の人がいるとは言っていたこともあるの」

「そうなんですね…。水、おいしかった?」

 俺がそう言うと、うっすらと記憶に残っていたのか、奈々さんは数秒の時間差で苦笑していた。

「まだ覚えてるの? ごめんなさい。さっきは酔いすぎてたわ」

「…奈々さんには、付き合っている人はいないんですか?」

「今は、いないかな」

 奈々さんは、顔を下に向けて話していた。耳は真っ赤になっていて、触ると熱そうだった。

「そうですか。でも……ごめんなさい」

 きっと、明日からの彼女との距離はこの間隔を保つのだと思う。頑張って近づいて、ようやく居心地のいい場所を見つけることができたと思っていたのに。そう思っていたのは、どうやら俺だけだったようだ。

「ありがとう」


 奈々さんへの返事があれでよかったのか、今頃になってもやもやとしていた。一瞬で状況が変わる今に対して明確な正解は望めないけれど、もっといい言葉があったのではないかと思っている。

「それで僕のところに来るって、ちょっと複雑だなあ」

「だって、頼れるの高鷲たかわしさんしかいないんですよ」

 高鷲さんは、同じ会社の人ではない。別会社との合同プロジェクトと銘打って計画、実行に移すとなったときに、かなりお世話になった人なのだ。ただ、頼っていたというよりも、支えてもらっていたのほうが言葉としては正しいと思う。

 それ以来、月に一、二回ほどこうして食事をする機会があった。

「うーん。でも、それって告白じゃないの? 俺はあなたに気があると言っているようなものじゃないか」

 高鷲さんには、奈々さんのことは伏せて話した。そのため、告白してきた相手が男の人だと勝手に思っている。先入観、恐ろしい。しかし、世の中はこんなものです。

「そうなのかな。なんかね、ちょっとだけ失礼なこと思っちゃったんだよね」

「どんな?」

「わたしのこと、騙そうとしてるんじゃないかって」

 人間不信といえばそれまでなのだが、俺にはそれを心から追い出すことができる自信がなかった。どちらかといえば、自分自身に対して不信感をもっているのである。

 一生変わらない気持ちなんてあるわけないと理解しているし、絶対なんてないことも分かっている。だがそれでも、怖いという感情が心を覆い尽くしてしまうのだ。

 そういったことを考えなくてもいい関係を築けていたと俺が勝手に思っていた奈々さんとの間でも、きっとこの先はどこかが変わってしまう。先輩と後輩という関係だったからこそ、俺は絶対的な信頼と安心感を保つことができたのだ。その根本が壊れてしまうことがどんなに恐ろしいことか、考えなくとも分かる。

 仕事としての関係は変わらなくとも、プライベートで会ったりとかはもうきっとできない。というか、提案されたとしても断る。俺が奈々さんに対してそんな気はなくても、奈々さんはずっとその感情を持ち合わせたままなのだ。それなら、初めからそんなことはしないほうがいい。考えすぎだろうか。

「相変わらず、飛鳥はこじらせてるなあ」

「えぇ?」

 机の上にあったお冷の氷が溶けて、カランと音が鳴った。

「恋愛的な感情が湧かないから付き合わないまでは分かる。それは僕にもあった。でもさ、騙そうとしてるは考えすぎだよ」

 普段の会話でも、俺はその言葉たちを信用していない。上辺うわべだけの付き合いで十分だと思っているし、それが真実か否かなどという話をすることは、とても不毛なやりとりなのだ。しかしその矛先が自分に向いたとき、それは恐怖に変わってしまう。そしてその瞬間、騙そうとしているのかと考えてしまう自分がいる。

 自分のことを偽っているうちに、周りを取り囲む言葉さえも偽りなのではないかと考えてしまうようになってしまったのだ。

 酷いと思う。

 なりたくてこうなったわけでもないし、治す方法が分からない。もっといえば、いつからこの状態になっているのかさえ、俺自身の頭には残っていないのである。

「そのうち、飛鳥にも分かるよ。好きな人ができたときの気持ちが。不安なんだよね、自分だけが持ってる感情の行き先が無くて、放っておくとどうかしてしまうんじゃないかって、そう思ってしまうんだよ」

 久しく見ていなかった感情的に話す高鷲さんに、俺は少し戸惑った。

「そういうもの、ですか」

「うん。そのタイミングが、きっとその日だったんじゃないかな」

 俺は、今のところ奈々さんに対して恋愛的な感情はもてないし、今後もないと思う。そう思ったからこそ、気持ちを受け止めずに返した。だからこそ、今後は今までと同じように、奈々さんと接することはないのだろう。

 そこまで考えて、ようやく俺は気づいた。奈々さんが離れていくことを想像したときに、少しだけ悲しいなと思ってしまったのだ。

「わたしがどうこうって話じゃ、ないですよね」

「どういうこと?」

「その、感情を受け入れるとかそういうことです」

 そこまで言うと、なぜか高鷲さんは笑い始めた。こちらは真剣に質問をしているのだから、早く答えてほしい。それとも、俺はそんなに変なことを言ってしまっただろうか。

「もしかしてだけどさ、飛鳥ってその人からの告白を断ったことに対してもやもやしてる?」

「はい」

「告白を断ることは、なんにも気にしなくていいと思うよ。それで関係が変わったとしても、仕方のないことだからね。大事なのは、それをどう受け止めるかなんだよ。僕が言うのも変な話なんだけど、考え方が変わるのって悪いことじゃない。むしろ、失敗したほうがいいんだよ。特に、君みたいに若いときならなおさら。相性の問題もあるからね。だから、断ったことに対して、悪いという感情は持たないほうがいい」

「でも……」

「ん?」

 嘘をついたままなのが、引っかかってるんです。それに連動するように、嘘をついたまま断ったことも気にしているんです。

 なんてことは、言えなかった。

「なんでもないです」

「……そっか。まあ、気にするなとしか言いようがない。好きなわけじゃなかったんだよね?」

「うーん」

 はっきりしない物言いに高鷲さんが呆れたのか、こんな質問を投げてきた。

「『好き』って分かる?」

「難しい質問ですね」

 好きってなんなんだろう。一緒にいて落ち着いたり、話しやすい人はいる。正確にいうと、いた。その存在が、奈々さんだった。だがしかし、それが恋愛的な好きかと聞かれると、違うと思う。なぜなら、俺は奈々さんに対して特別だという感情をもてていなかったからだ。


 明日もまた、奈々さんと顔を合わせる場面は、やってくる。来るべきそのときの対策として、俺はこのもやをどうにかしたいと考えた。その結果、応急措置としてこの感情に蓋をしておくことにした。

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