第2話 嘘はわたしから
俺はもとからの女ではない。誤解を招くことを恐れずに言うと、性別が変わってしまったのである。付け加えると、今でも女ではない。
変化が起きたのは、高校三年生の冬だった。胸が膨らんでいき、腰の周りに脂肪が付き始めた。相談できる相手などいなかったので、しばらくのあいだは放っておいた。
それが、いけなかったのかもしれない。
大学に通い始めることとなり、一年間は順調かつ誤魔化しながら日々の生活を送っていた。自分のことを隠そうとするがあまり、俺は自分の体の異変さに気づけていなかった。
念のためと思い、大学に併設されている病院で診てもらうと、詳細な検査をするということで一週間の入院措置となった。これはいよいよ大変なことになったと心配していると、形成外科医の白鳥という医者に会うこととなった。
「君が、例の大垣さんだね?」
例の、という呼ばれ方に少しだけ違和感を覚えたが、そのまま話をすることになった。
「これから一週間、入院をしてもらうことになるわけだけども、まずは安心してほしい」
「安心?」
白鳥という医者は、なんだか胡散臭かった。少しだけ生やした黒い髭に、話終わったあとに出る不気味な笑み。この人に抱く第一印象は、信用してもいいのだろうかという不安だった。そんな人に安心してと言われても、到底無理なお願いだ。
「大垣さんには、検査をしてもらう。大丈夫、痛かったりはしない。ただ、結果に間違いがないように、丹念に診ていくつもりだから、よろしく」
「は、はあ」
胡散臭さの度合いが頂点に達していた。この男は、自分のことを鏡で見たことがあるのだろうか。まず、その不気味な前髪を切ってほしい。
「検査は明日からだから、今日はゆっくりするといい」
そう言い捨てて、白鳥は病室から出ていった。
急に決まった入院だったが、通っていた大学はちょうど春休み期間だったため、特に学業への支障はなかった。俺以外の家族が家にいることも滅多にないので、そこも問題はなかった。そのときは、ヨーロッパへの出張中だった。
検査のことを今伝えるつもりはなく、おそらく事後報告になるだろう。お互いに深く干渉しないのが、我が家のルールなのだ。きっと、あとで伝えたとしてもなにも言われない。
次の日になり検査が始まると、まず謎の薬を飲まされた。
「これでどうなるか、反応をみさせてもらう」
俺はそのときに確信した。これはもしや、俺の体を使っての実験なのではないかと。妄想が過ぎると思われるかもしれないが、薬の名前も言われず、効果もなにか教えてくれないまま飲まされる薬が、体にいいはずがない。
二時間ほど経つと、体がほてり出した。些細な変化でもあれば教えてほしいと言われていたので、白鳥を呼ぶことにした。
「やはり……そうなるか」
「これで原因が分かるんですか?」
「ああ。おおまかには分かった」
どうやら白鳥は、俺のことを患者だとは思っていないようだった。優しさというものは一つも感じられず、ただ資料を眺めるように俺の体を触れていた。同性だから何も言わないとか、そんなふうに思われているのか。もしそうならば、白鳥はとんでもないやつだ。
その後は血液、唾液、エコー、CTなどの検査が続いた。これ以上どこを調べるんだという質問をしたくなるほどに、体の隅々まで検査の項目があった。これらを考えたのも、どうせ白鳥なのだろうと思うと、無性に腹が立った。だがそれ以上に、自分の体に何が起きているのかを知りたいという欲求が勝っていた。
そして、最終日。俺は診察室に呼ばれていた。白鳥から、検査結果を聞くためである。
「結果を伝えます」
「はい」
連日の検査で、俺は疲れ切っていた。ゆえに、検査結果がどんなものであったとしても、聞いたあとにすぐ家に帰り、寝るつもりだった。少なくとも、それを聞くまではそう思っていた。
「
「せいてん…なんだって?」
「性転化……平たくいうと性別が別の状態に変化することを指す用語です」
俺には、白鳥の言っている意味が理解できずにいた。頭が回らなかったのである。それとも、気づいていないふりをしたいだけ、だろうか。薄々勘づいていたが、そんなはずはないと蓋をしていた。
「つまり、どういう状態なんだ」
「大垣さんの体は、男性型ではないといえば伝わるかな?」
「回りくどいな。あれか、性転換してるってことか」
俺がそう言うと、白鳥は首を傾げた。
「俗称でそういった言葉もあるようだが、我々はこの現象を『性転化現象』と呼んでいる」
「そう言うってことは、俺みたいな人間が結構いるってことか?」
そう聞くと、白鳥は少し唸ったあと、こう答えた。
「少なくとも、大垣さんと同じような症例は、これで十件目だ」
俺がなにかを言うと、白鳥は決まって不思議そうな顔をした。そんなに、俺と白鳥の住んでいる世界は異なっているのだろうか。それとも、白鳥がやはり特殊な人間なのだろうか。きっと、後者だ。
遠のいていた意識が戻ると、俺の目線の先には奈々さんがいた。思い出したくないことに限って、夢になって出てくるのは本当に参る。
「おはよ。飛鳥」
「奈々さん、おはようございます……今日は起きるの早いんですね」
奈々さんが俺の家で酔い潰れて寝たあとは、いつも俺が先に起きていた。しかしどういうわけか、その日に限っては奈々さんのほうが早く起きていた。目線の先にいる彼女は、すでに着替えや髪のセットも済んでいた。いったい、なにがあったのだろう。
「ちょっと、散歩してきた」
「どうしたんですか? 眠れなかったですか?」
返事は来ず、ただ首を振るだけの意思表示しか返ってこなかった。
「あのさ、飛鳥。聞いてもいいかな」
「はい。分かることであれば答えますよ」
いつも通りの何かの質問だろうと思ってそう返すと、彼女は頬を少し膨らませていた。あれ、怒らせるようなこと、言ったつもりはないのだけれど。
「そうじゃなくて。茶化さないでよ」
「ごめんなさい…?」
奈々さんは先輩ではあるが、少し天然っぽい人なのだ。ゆえに、抜けているところがある。なので、よく奈々さんから仕事のことを聞かれることがあるのだ。そのときも、そんなふうに質問してくるものだと思っていたが、どうやら違ったようである。
「飛鳥って、私のことどう思ってる?」
予想外、斜め上方向からの打撃に戸惑った。
「どうって…突然そんなこと言われても困ります…」
そのあとの沈黙がとても、とても長く感じた。
俺と奈々さんのあいだでは、ある決まりごとがあった。それは、お互いに無理には話さないという約束だった。二人で同じ空間にいたとして、黙っていてもそれは仲が悪いわけではない、という決まりごとだ。だがこれはそういった沈黙ではなく、今まで感じたことがなかった、気まずいほうの沈黙だった。
「質問の仕方が悪かったかな。ごめん、単刀直入に言うね」
「はい」
恥ずかしがっているのか、なんなのか、奈々さんは声にならない声でゴニョゴニョと呟いていた。何十秒かそれが続いた。待つしかない俺は、表情に出さないように小さくため息を吐いた。
「飛鳥って、女の人と付き合える?」
「どんな質問ですか、それ」
奈々さんは自分の頭を手で叩き始めた。ただ、強く叩いているわけではなく、ぽんぽんと軽く叩いていた。思考がパンクしてしまったのだろうか。
「いや、特に深い意味はないよ? いや、あるのかな。じゃあね、次の質問。男の人と女の人かどちらかと付き合うことになりそうだとして、どっちと付き合う?」
どんな質問なんだと頭を抱えながらも、なんとなく奈々さんの言いたいことが伝わってきていた。もし俺の勘違いでなければ、きっとそういうことなのだろう。
なんで、こうなっちゃうんだろう…。
「難しい質問ですね。どちらかと言えば、付き合って気分が上がるのは女の人です」
「ということは、女の子と付き合ったことあるんだ」
再びの沈黙。気まずくなったときに黙っているとよりその状況が悪化すると分かっていながらも、俺は言葉を紡ぐことができずにいた。いや、それよりもこの場を乱す行為を極力したくなかったのだ。
「どうなの」
「…あります。一応?」
「いつの話?」
「高校生の、ときです」
高校一年生のとき、仲良くなった女の子がいた。別に付き合っているわけではなかったが、よく二人で行動していたので周りからは『夫婦』なんて呼ばれ方をされていた。それが変化したのは、三年生の秋だった。この子なら信用できると思い、俺から告白したのだ。それで付き合うことになったが、一年ほどで別れた。大きな原因は、俺の体が性転化したためである。
結局のところ、あの子が好きになったのは、男の俺なのだ。
「そっか」
それは今まで聞いた中で、一番気持ちのこもった言葉だった。どんな口先だけの言葉よりも、ため息と共に重さがあった。行き場を失くしたそれは、俺が拾わないといけないのだろう。
「奈々さんは、なにを言いたいんですか」
奈々さんは耳を真っ赤にして、俺のほうをじっと見ていた。
「飛鳥は、女の人と付き合える人、だよね」
「そうです」
「……あっけないなあ」
「これ以外に答え方が思い浮かばなかったんです」
その先にある言葉を、俺は知っている。俺自身の設定を覆す存在であり、恐れている存在。まさか、その人がこんなに近くにいるなんて、思っていなかった。
そうだといえば、嘘になる。俺は、嘘つきなのだ。今もこうして、奈々さんに対して嘘をついているのだから。
「私、飛鳥のこと好きなの」
嬉しかった。俺が最も信頼していた先輩に、好意を寄せられていたと思うと気分が高揚した。だがそれと同時に、その事実を拒絶する俺がいた。
奈々さん。あなたが好きになったのは、女の子のわたしだ。
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