あなたはわたしが好きだけど
六条菜々子
第1章 虚数
第1話 ありふれた恋じゃなく
深夜の海岸沿い。ドライブに出かけませんかと誘われて、俺は近藤さんの運転する車に乗っていた。
「答えを、聞きたい」
「……はい」
男の人と仲良くなると、最終的にこうなる。中には、
「ごめんなさい。やっぱり……」
「どうしても?」
他人から好意をもたれることに対して、俺はずっと違和感を覚えていた。なぜ俺なのだ、と。俺以外にも女なんていっぱいいるだろう、と。
「どうしても、近藤さんにはなにも思えないんです」
ひどい話だと思う。好きだと言われた相手に対して、なにも思えないなんて。嫌いとか好きではない。この人に対して、関心が持てない。
このことを以前友人に相談したところ、別にそれは普通のことだと言われた。普通ってなんだろう。そう思ったけれど、無理に関心を持つ必要もないなとも思えた。
昔から、俺は変な生活を送っていた。男だろうが女だろうが分け隔てなく関わることができたし、親密な関係を築くことだってできた。女の子からは男の子っぽいところがあるよねと言われ、男の子からは女っぽいよなお前と言われた。
どちらとも捉えられる自分自身に、どこかで優越感すら覚えていたかもしれない。そんな俺が明らかに変わってしまったのは、高校生のときに体が女っぽくなってしまってからだった。それ以来、自分が男だというふうに思えなくなり、自信を失っていた。
そんな俺のことを、男たちは勝手に好きだとか言ってくるのだ。受け入れられるはずがないだろう。そんなふうに心の中で考えているなんてこと、絶対に周囲の人たちには言えないけれど。
俺はあくまでも女で、男の人が好きだけども、相手はまだいない。その設定を守ることでしか、俺は自分のことを守れなかった。
「ありがとう。考えてくれて」
違う、違うのだ。俺は近藤さんを傷つけたくなくて、回答を先延ばししていただけなのだ。でも、気づいてほしい。俺は一言も、男の人が恋愛対象だとは言っていないということを。女なのだから、男の人のことが好きだなんて、そんな幻想は早く捨ててほしい。わがままな感情なので、言葉にすることはないけれど。
当然ながら、俺と近藤さんのやり取りに心は通っていない。俺の抱く近藤さんのイメージと近藤さんから見る俺では、前提条件が違う。そんなこと、ごく当たり前なのだけれど、それでも俺はその状態を受け入れることができなかった。
「ありがとうございました」
見送られていることは分かっていたけれど、振り返る気にはならなかった。きっと今振り返ると、俺がこの人に気があると思われてしまうと考えたからだ。どんなに思われても、俺はきっと男の人を好きになることはできないだろう。
後ろからの視線を感じつつも、俺は逃げるように改札を通り抜けた。
この会社に入社して半年、いろいろあったけれど、順調に仕事を続けることができていた。ある一点を除いて。
「
「ちょっと奈々さん、酔いすぎですよ」
その日は、急に決まった会社の人との飲み会だった。コミュニケーションを深めるためなんて奈々さんは言っていたけれど、そんなのはこじつけにすぎない。奈々さんは自分のことになると、途端に理屈が通らなくなる。自覚があるのかどうかは分からない。結局のところ、ただみんなで盛り上がりたいだけなのだ。
「いないですよ。奈々さんこそ、どうなんですか」
奈々さんは俺にとって、職場での先輩にあたる人である。仕事を教えてもらったり、社会人としての基本を叩き込んでくれたのは、奈々さんだった。そういうことも影響しているのか、俺はいつのまにか奈々さんに少しずつ心を開き始めていた。
「いるよー。ここにはいないけど」
「立花さん、いつのまにそんな人ができたのよ」
びっくりした拍子に、テーブルの上に音を立ててグラスを置いたのは、
正直なところ、富士宮さんに合う人なんているのだろうか。これは偏見だが、かなり男の人に対する理想が高そうなのである。
「聞いてくださいよ、
この話のくだり、もう何度聞いたか分からない。正確にいうと、聞かされた、だけれど。同じ話をループさせるのは、いつもの奈々さんらしい行動だった。
ちなみに、紫織さんというのは富士宮さんのことである。
「へえ。今度はその人を狙うのね」
「狙う、とか言わないでくださいよ。まるでわたしが男をたぶらかしてるみたいに聞こえちゃうじゃないですか」
「違うの?」
富士宮さんがそう返すと、奈々さんは顔を真っ赤にして拗ねていた。ほんと、酔うと子どもみたいになるところが可愛い。彼女のことを見ているだけで、俺は幸せだった。
「そんなこと言って。紫織さんだって、そういう相手いないくせに」
「うーん。私のことはどうだっていいのよ」
「そうやって逃げるんですか?」
酔ってふわふわ動いている奈々さんが、富士宮さんに擦り寄っていた。とても濃厚な接触に、少し気がおかしくなりそうだった。まあ、そんなはしたないことを考えているのは、きっと俺だけなのだけれど。
「違うのよ。どうしようかと思ってる人がいるの」
「ええ!?」
驚きのあまり、それまで視点がぐるぐると回っていた俺自身の酔いが、すっかり覚めてしまった。酔っているときに聞く、他人の恋愛話が好きなのに。
「また、どうですかって言ってきた男の人がいるのよ。なんか、今までとは違って、ちょっといいかもって思ったの」
誰にも崩すことができないと言われていた、富士宮の鉄壁を乗り越えてしまったのは、いったいどこの誰なのだ。とても信じ難い富士宮さんの言動に、俺は戸惑いすら感じていた。
「ちょっと、何人目ですか。……紫織さんでも、そう思える相手っているんですね」
「あなた、私のことをなんだと思ってるの」
「私、紫織さんに付き合ってる人がいるの、想像つかないです!」
「
冷徹の女王。会社内での彼女の二つ名だった。
誰にも突破されないと言い伝えられていた伝説も、そろそろ終わりを告げるのだろうか。
ちなみに、
そんなにも強い感情をもつことが、この先あるのだろうか。
飲み会という名の奈々さん酔い潰れ会も強制的に終わり、大通りまで来ていた。奈々さんは完全に酔っ払っていたので、俺が奈々さんを支えるような姿勢になっていた。
「じゃあ、奈々のことよろしくね」
「ほんとに、毎度ごめんね」
いつからか、奈々さんが酔い潰れたときに助けるのは、俺の役目になっていた。そこになんの意味もないのだけれど、本当にこの役目が俺でいいのだろうかとは常々思っていた。
「また来週、ですね。お疲れ様でした」
俺がそう言うと、富士宮さんと七海ちゃんは手を振って駅の方向へ進んでいった。そんな二人とは反対の方向へと、俺は奈々さんを連れて行く。
「ほら、奈々さんしっかりしてください」
「ふぇ」
「ふぇじゃないです。本当に困った人だな」
そこから十分ほど歩いたところに、俺の住んでいるアパートがある。もう少し先へ行くと、奈々さんの家があるが、さすがに俺が踏み入ってはいけない領域だ。
バランスを保つのに苦労しながらも、俺はなんとか鍵を開けて、奈々さんをフローリングに座らせた。
「奈々さん、着きましたよ」
「あぁ。そうね」
「ちょっと、いい加減に酔い覚ましてくださいよ」
きっと、俺が女でなければ、こんなにも無防備な姿を見せてはくれないのだろう。そう思いながら、俺は食器棚にある透明なコップに水を注いで、奈々さんに飲ませようとした。
「飲んでください」
「ん」
「自分で飲んでくださいよ」
ほんのり赤くなった頬と、いつもより速い息遣いに俺はどうかなりそうだった。男ってのは単純なんだぜ、奈々さん。それを知ってか知らずか、奈々さんは頑なにコップを手に取ろうとはしなかった。
「しょうがないなあ」
諦めた俺は奈々さんと同じ高さに目線を合わせて、コップを奈々さんの口元へと運んだ。ふふっと笑みを浮かべた奈々さんが、ようやく水を飲んでくれた。
「水飲むくらいで、こんなに手間取らせないでくださいよ」
ぼそっとそう呟くと、彼女はムスッとした表情で、俺を押し倒した。いや、押し倒された。
「奈々さん、ちょっとなにしてるんです……」
口の中に、ほんのりぬるくなった液体が入っていった。一瞬のことだったので何が起きているのかが、全く分かっていなかった。だがしかし、これだけははっきりしていた。唇がなにかに覆われていたのである。柔らかく、温かいなにかに。
「飛鳥、水おいしかった?」
「これ、絶対酔ってるよな……」
こんな漫画みたいなこと、本当にする人がいるのか。俺の上に乗っている奈々さんを見て、そんなことを考えていた。というか、こんなことどこで覚えてきたんですか。
そのあと、なんとか形勢を逆転させてベッドまで奈々さんを運んだ。きっと、朝になればさっきのことは綺麗さっぱり忘れているのだと思う。そう考えると、少し寂しい。
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