第四章 パチャクティ、着物を着る
その日、由紀子が製鉄所へ行ってみると、ちょうど、杉ちゃんが出迎えて、ちょっと来てくれというのだった。由紀子はわかったと言って四畳半に行ってみると、ミチさんが、縁側に座っていた。なんだと思ったら、
「ちょっと手伝ってもらえるかな。ミチさんに着物を着せてやりたいんだ。」
と、杉ちゃんが言ったので、由紀子はそのとおりにすることにした。
「じゃあまず、長襦袢を着ることから始めようか。正確には、半襦袢だけどね。まず、裾除けをつけよう。いいか、この布を、巻きスカートの要領で体に巻いて、紐で縛って固定してみてくれ。」
杉ちゃんはミチさんに裾除けを渡した。
「こうすればいいの?」
ミチさんは裾除けを受け取って、腰に巻き付け、その両端についている紐を体に巻いて結んだ。
「じゃあ、それができたら、次は半襦袢を着るよ。これを羽織ってみてくれ。」
ミチさんはいわれたとおり、半襦袢を羽織ってみた。
「じゃあまず、右側の方をしたにするように体に当ててみてくれ。」
ミチさんはそのとおりにした。
「次に、左側と右側についてる紐を体に回すよ。まず、右側についている紐を、袖の下にある穴に通して、後ろへ回してみてくれ。」
ミチさんは、わかりましたと言って、そのとおりにした。
「おっけおっけ。じゃあ次に左側についている紐を後ろに回して、一回結び、それを前に回して、前で蝶結びに結んでみてくれ。」
ミチさんがそうすると、
「よし、それでは半襦袢は完了だ。じゃあ、着物を着てみよう。まず、着物を羽織ってみようね。」
杉ちゃんにいわれてミチさんは、着物を羽織った。
「それではまず、右側をしたにして、左側が上になるように持ってみろ。うん、そういう感じだ。そしたら、背中部分の中心線を引っ張って、襟が肩の当たりに付くようにして。」
ミチさんは、着物の背中心を引っ張って、着物の襟の中心が肩に着くようにした。初めての人間がおはしょりをするのは難しいということで、おはしょりはすでに縫ってあり、ガウンのように紐がついている。
「よし、それなら、ガウンを着る要領で、右をした。左を上にあわせて、半襦袢をやったときと同じように、右側についている紐を袖口の穴に通し、左側の紐を背中に持っていって、一回結び、そして、二本を前に持ってきて、前で結んで見てくれ。」
ミチさんは、よくわからないという顔をしていたが、一生懸命着物の前合わせをして、紐を前で結んだ。
「よし、じゃあ、伊達締めをつけるよ。この布を、前紐のうえにかぶるように当てて、一周回して前で結ぶ。紐が解けないようにするためだから、しっかりつけて。」
ミチさんは、伊達締めをつけた。
「じゃあ、次は、作り帯を結ぶよ。まずはじめに、胴回りを結ぶからね。胴回りを、伊達締めの上に、巻くようにつけて、紐を帯の上で結んで、全部隠してしまってくれ。」
ミチさんは、胴に巻く部分を付けた。
「よし、そして、帯の背中の部分を、背中に差し込んで、紐を前へ持っていって、結んで見てくれ。」
大分着物らしくなってきた。結び方は文庫である。作り帯なので、背中に結び目を差し込むだけでいいが、これのおかげでたくさんの人が着物を楽しめるようになっている。いわゆる蝶結びに近い帯結びである。
「最後に、帯の上に、帯揚げをつけるよ、それでは、帯揚げを帯の上の部分に巻いて、結んでくれ、帯揚げなので、こま結びでいい。」
ミチさんは、そのとおりにした。
「最後に帯締めね。まず始めに一周回して、ひと結びし、そして、結び目を上にあげて、またひと結びしてみてくれ。そして、結び目を揃えて紐を二本あるようにするんだ。」
これで着物姿は完成だ。ちょっとばかり不格好なところもあるが、ちゃんと着物姿になっている。おはしょりを縫ってあるところは仕方ないとしても、そのような事を指摘する人はあまり居ないことを由紀子は知っていた。
それにしても、ミチさんは、こんなにきれいだったんだろうか?と思われるほど、きれいだった。
着物は、赤に唐草文様を細かく入れたろうけつ染めの小紋。帯は、緑色と白の、単純な市松格子の袋帯で、杉ちゃんが、文庫結びに改造した作り帯である。
「おお、素敵だなあ。初めて着物を着るにしては、上等だ。よし、これでさ、今日は、ちょうど金比羅神社のお祭りなんだ。ちょっと行って来いや。」
「金比羅神社?どこにあるんですか?」
ミチさんは、杉ちゃんに聞いた。
「ばら公園の近くだよ。」
杉ちゃんがあっけなく答えると、
「そうですか、、、。」
ミチさんは、小さな声で答えた。
「いやあ、ここからそう遠くないからさ、行ってみたらどうだ?」
杉ちゃんがそう言うと、
「いえ、遠慮します。ちょっと人が多いところはあまり好きではないので。」
と、ミチさんは言うのだった。雷にも雨にも平気だった人物がそんな事を言うなんて?と由紀子はちょっと、疑問に思った。
「代わりに、駅前の、ショッピングモールに行きませんか。そこだったら、静かなカフェがありますし。人もそんなに居ないから、恥ずかしくないですよ。」
布団に寝たままの水穂さんが、そういう事をいうので、ミチさんは、わかりましたありがとうとだけ言って、じゃあ行って見ようかなと言った。
「おう、そうそう。着物は、すごく楽しいから、それで行ってみるといいよ。あそこのカフェだったら、のんびりして過ごせるよ。」
と、杉ちゃんにいわれて、由紀子は、
「じゃあ、私が車を出すわ。」
と、にこやかにわらって、急いで玄関先へ行った。ミチさんは、なれない着物に、ちょっと慎重になりながら、由紀子の運転する車に乗った。由紀子は、車のエンジンをかけて、道路を走り始めた。
「あら、どうしたのかしら?」
由紀子は、不意に、道路脇を見た。道路脇には、たくさん人が集まっていて、その周りに、警官隊が、たくさんいて、なにか言っている。そのせいで、道路はひどく渋滞してしまっているようだ。
「どうしたのかしら。なにか事件でもあったのかな。」
由紀子が思わずつぶやくと、ちょうど、富士駅近くにある金毘羅神社の境内に警察官が多数はいっていくのが見えた。なんでも、お祭りどころでは無いらしい。本日の秋祭りは中止しますという看板が張り出されていた。まあ、最近の日本では、事件が起こることはさほど珍しくはない。アメリカ並になったというけれど、まだ、銃を乱射して大量殺害という事件は起きていない。
「ミチさんごめんなさい、ちょっとこの道は封鎖されているようだから、別の道を通るわね。」
由紀子は、方向指示器を出して、その道を曲がって、別の道を取った。其時のミチさんの顔がどうなっていたかなんて、今思い出しても、思い出せなかった。それくらい、道路は、多くの野次馬と、警官隊で混乱していたのである。まあ、通り過ぎてしまえば、なんてことのない、道路なのだが。それが、日本社会というか、現代社会というものである。
いずれにしても、由紀子とミチさんは、大回りをしてショッピングモールについた。ショッピングモールの中にあるカフェとは、ショッピングモールの一番奥にある、和風のお菓子を提供してくれる、穴場的な存在のカフェである。二人は、そこへはいってみた。そこでは、カフェの従業員さんも、着物でいる人が多いから、着物で来店しても不思議なことではなかった。由紀子とミチさんは、一番奥のテーブルに座らせてもらい、二人であんみつを食した。カフェの中にはテレビが設置されていて、ちょうど午後三時のニュース番組を流していた。
「えー、次のニュースです。今日午前11時頃、富士駅近くにある、金毘羅浅間神社の境内で、男性の遺体が放置されているのを、犬の散歩をしていた通行人が発見しました。男性は、後頭部に傷があることから、階段から突き落とされて殺害されたと見られ、警察では殺人事件と見て、捜査を開始しました。現在のところ遺体の身元はわかっておりません。」
「はあ、また事件が起きたのね。最近は物騒で困るわね。いろんな事件が起きているけど、身近なところでも起きるのね。」
由紀子はあんみつを食べながら、そんな事を言った。
「この間、ほかの県で、誰かが殺されたとか言ってたけど、どうせ、また別の事件がすぐに起きて、この事件も忘れ去られてしまうんじゃないかしら。」
「そうよね、きっとそうなるわよね。」
着物を着たミチさんは、なにかそう確信したように言った。
「きっと、もっとすごい事件が起きて、この事件は忘れ去られてしまうわ。人間なんてそんなもの。テレビなんてそんなものよ。」
「そうだけど、一体どうしたの?」
由紀子は、ミチさんに聞いてみた。
「それを何回も、繰り返すなんて、ミチさんどうかした?」
「いえ、何でも無いわ。」
ミチさんは、わざとらしく笑顔を作って言った。
「そう?ならいいけど?」
由紀子はそう言ったが、あえていわないで置くことにした。
その後、二人は由紀子の運転する車で製鉄所へ戻った。玄関から部屋に戻ると、なんだもっとお時間かかるのかと思っていたと杉ちゃんが、カラカラと笑って言っていた。なんだか、変な事件が起きて道路が封鎖されちゃったのよ、と由紀子が理由を話している間、ミチさんはなんだか不安そうな様子だった。
「まあ、日本もアメリカ並というか、最近は変な事件多いもんね。そのせいで秋祭りが中止になってもしょうがないよ。それは、仕方ないことだから、まあ、気にしないでやるんだな。」
杉ちゃんはそんな事を言っている。
「それからね、パチャクティに大事なお知らせがあるんだって。なんでも、花まで買ってきたらしいぜ。」
杉ちゃんがそう言うと、一人の製鉄所を利用している男性が、ミチさんの前に花束を持って現れた。
「あの、俺の名前覚えていただきましたでしょうか?」
と、男性は言った。
「ええ、確か、平尾さんでしたよね?平尾博さん。西武ライオンズの選手と同じ名前だと言っていたから、覚えているわ。」
ミチさんがそう言うと、
「はあ、やっぱりパチャクティだ。記憶力がいいね。」
と、杉ちゃんが口を挟んだ。
「ありがとうございます。あの、あのですね、ミチさん、俺、うまくいえないんですけど、ミチさんが好きです。だから、お付き合いしていただけないでしょうか。ほんと、水穂さんの世話とか、そういう事をしなければならないことはわかっています。それでもいいです。俺、ミチさんのそばに居たい。」
平尾といわれた男性は、一生懸命、緊張していった。ミチさんは、どうしようという顔をした。そんな事を、してもいいのだろうかという顔だ。
「いいことじゃないの。恋愛くらい、思いっきりしたっていいじゃないかしら。それは、ミチさんが勝ち取った力だもん。私には到底できないことよ。」
由紀子はミチさんにそう言ってあげた。
「でも、私、日本人でもないし、ペルーによくいる白人でもありません。だから、色々不利な事があると思うから、お付き合いなんてとても。」
と、ミチさんは、そう言っているのであるが、
「そんな事は関係ありません。俺は、ミチさんが少数民族で可愛そうだから好きになったとか、そういうことは全く思っていないのです。ただ、ミチさんが、料理や裁縫などが上手で、人に暖かくて、優しくて、そういうミチさんが好きなんですよ。それでは、いけませんか。ミチさん、それでも日本人の俺では、面白くないですか?」
平尾さんは、一生懸命そう言っていた。その言い方は、とても軽い気持ちでは無いと言うことがわかった。きっと、純粋にミチさんを好きになってくれたのだろう。
「ミチさん、俺じゃいけませんか。ミチさん、俺みたいなだめな人間では、いけないでしょうか?」
ミチさんは、どうしようという顔をした。多分、この平尾さんは、きっと結婚を前提に付き合ってくれということだと思われた。平尾さんの顔がそう言っている。西武ライオンズの選手にあだ名されていた、チャラ男という名称はとても当てはまらない。
「残念ながら、お受けできません。私は、やっぱり日本人では無いですし、ペルーでも、まともなあつかいをされたことがありませんもの。お付き合いしたら、きっと必ずボロが出てしまうというか、そういう悪いことばかりだった事の、名残が出てしまうと思います。だから、せっかく申込みをしてくださったのはありがたいんですが、私には、無理な話なのではないかと。」
ミチさんは、申し訳無さそうに言った。
「そうなんでしょうか、俺だって、まともな扱いはされたことありませんよ。だって俺は、幼い頃に親が離婚しましてね。母に引き取られましたが、俺は、邪魔なやつだと何度もいわれたことか。そうやって、自分が居なかったことにしなければ、やっていけない時代がありました。だから、ミチさんが、クスコで、バカにされたりしたことも、少しは分かるつもりです。それでもだめでしょうか?」
平尾さんが真剣な顔つきで言うと、
「いいえ、日本の方は日本人という同じ民族内で不和になっているだけです。あたしたちが、受けた差別とは、多分というか全部違います。」
ミチさんは、そういうのだった。平尾さんは、悲しそうな顔で、ミチさんを見ていた。
「パチャクティは頑固だな。もうちょっと、こっちに来たら、羽を伸ばしてもいいと思うけどね。なんでそんなに、白人ではないことにこだわるの?そんな、全く同じ経歴のやつなんてどこにも居やしないし、多かれ少なかれ、多少の歪が出ることはだれでもあることだよ。それは、人種も民族も関係ないよ。そういうときはただ、事実があるだけだってことを考えればそれでいいじゃないか。誰か他人と比べる必要もないし善悪の判断をつける必要も無いんだ。それは、本当にどこのだれでもあることだから。それは気にしなくてもいいよ。」
杉ちゃんが、にこやかに笑ってそう言うと、
「あたしも、今日は平尾さんに軍配を上げてあげたいわ。だって、私は知ってるわよ。告白されることなんて、一生のうちに一つか2つよ。それを今得ることができたんだから。私は、嬉しいに決まってると思うけど?それに、ペルーで散々ひどい目に会って来たのだったら、そのぶん、素敵な出会いを神様がプレゼントしてくれたものだと思わない?」
由紀子も杉ちゃんの話にあわせた。
「神様って、どこに居るのかしらね。」
ミチさんは、小さな声で言った。
「それはきっと、白人とか、そういう人にいう言葉なのよ。あたしたちには、なんにも、恵みも慈悲も何もくれなかったじゃないの。みんな、私達のことを、浅黒い、野蛮人だと言って、さんざん馬鹿にして、私達には、何もしてくれなかったわ。そういうことは、学校でも習ったけど、現実は、絶望するだけのこと。だから、信じても意味がない。」
「ミチさん、それはクスコにいればでしょ?ここはそうじゃないのよ。いくら傷ついているからと言っても、相手の事を個人的な絶望感で拒絶してはいけないわよ。相手は、あなたの事を思っていってくれているんだと思うし。それが得られたんだから、その気持に感謝しなきゃ。」
由紀子はミチさんに言ったが、ミチさんは、涙をこぼして、こういうのだった。
「でも、私、まだ、こっちへ来ても、馬鹿にされるんじゃないかって言う、警戒心がとれない。私達は、人からなにかしてもらうたびに、騙されるんじゃないか、馬鹿にされるんじゃないか、っていう不安があって、そこからどうするかをいつも考えなければ生きていかれなかったわ。日本でも、同じことはあるじゃないの。水穂さんを見てればわかるわよ。そういう少数民族がどこの世界にも居るんだなって。」
「ま、まあそうなんだけどねえ。確かに、そういう人は、居るよね。でも、恋愛というのは、その壁も通り越しちまうもんだけどな。」
杉ちゃんは、つらそうに涙を浮かべているミチさんを見ていった。確かに、ミチさんの態度を見てみれば、彼女が散々な目に会って生きてきた事がわかる。それに対して、対策を講じるような態度を取らなければ生きて来れなかった少数民族ならではの事情もあるのだろうが、由紀子も杉ちゃんも、平尾さんの告白をなんとか成立させてやりたいと思った。
「ごめんなさい、やっぱり私、あなたの気持ちを受け止めることはできないわ。だって、私は、そういう事をしてきた人間でもあるし、どうしても警戒しなきゃいけないっていう気持ちがとれないのよ。ごめんなさい。あなたの気持ちは本当に嬉しいんだけど、」
「そうですか。辞退するんですか?」
と、平尾さんは大変残念そうに言った。
「辞退っていうのは?」
ミチさんがそうきくと、
「受け付けないということよ。」
と由紀子は、ミチさんに教えてあげた。それは、教えてあげなければならないと思った。
「ごめんなさい私。」
ミチさんは、やっぱり涙をこぼしながら言うのだった。
「でも、嬉しいと思って。ミチさんのためにわざわざ告白してくれた人が居るってことは、名誉なことなのよ。」
と由紀子は、ミチさんに言ったが、その言葉の裏にはある意味、羨ましいという感情があった。やっぱり美人は得というか、そういう気持ちも無いわけではないが、自分はどうしてもミチさんに敵うことは無いんだと思いながら、ミチさんが涙を拭くのを眺めていた。
流石に由紀子は、ミチさんにハンカチを渡す気にはなれなかった。
「そういえば、本物のパチャクティも、強大なタワンティンスウユを作ったけど、後継者を作らなかったというな。そういう、まあ弱いやつの味方をしなかったところがある意味、人間的だったと言えるかもね。」
杉ちゃんは、割と歴史には詳しかったが、そういう事をぼそっと言う時があった。由紀子は、インカ帝国のパチャクティがどんな人物なんて知る由もなかったが、きっと、すごい人物ではあるんだろうけど、難しい一面もあったんだろうなと思った。
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