第三章 パチャクティの弱点

由紀子は、製鉄所に行くのが怖くなった。

本当は、水穂さんとずっと一緒にいたいのに、あのパチャクティと呼ばれている女性が、水穂さんの邪魔をしているような、そんな気がしてしまうのであった。水穂さんの傍らに居る、娼婦のような女。彼女は、料理もうまいし、裁縫もうまい。自分には全く敵わない。自分が彼女に勝てることといえば、車の運転ができることだけだ。

その日も、製鉄所にいこうか迷ったが、水穂三に会いに行きたいという気持ちが勝ったので、つらい気持ちをこらえながら車を走らせて、製鉄所へ言った。

玄関を開けると、杉ちゃんが出て、例の水穂さんに着せる民族衣装が完成したから見てやってくれというので、由紀子は、四畳半に行った。

「おう、連れてきたぜ。それじゃあ着てみるか。無理しなくていいから、ちょっとたってみな。」

水穂さんは、杉ちゃんにいわれて、布団からたった。

「じゃあこれをですね、頭からスポンと被ってみてくれますか。本当にただ、かぶるだけでいいですから。」

と、ミチさんは水穂さんに、民族衣装を渡した。水穂さんは、そのとおり、中心にある穴から頭を入れた。ミチさんは、すぐにそれをきれいに整えた。銘仙の着物に、格子柄のポンチョはよく合った。

「ほう、なかなかいいじゃないか。こっちで言うところの二重回しみたいだね。すごい素敵だよ。暖かそうでいいね。」

と、杉ちゃんが言うと、

「ありがとう。急いで縫ったから、あまり上手くできなかったんだけど、喜んでもらえて良かったわ。」

ミチさんは嬉しそうに行った。

「水穂さんが着ている、銘仙という着物は、人種差別されてた人たちが着ていて着物なんですってね。それなら、こういうものとあわせて、別な方向へ利用してしまえばいいわよね。こういう外国のものを取り入れれば、銘仙もおしゃれになるし、おしゃれとして捉えてくれる人も居るんじゃないかな。」

「はあ、よく調べたね。インターネットで調べたの?」

「いいえ、本で調べたわ。本のほうが、そういうものより、正確に載っていることだってあるわ。」

杉ちゃんとミチさんはそう言い合っているが、由紀子はとても喜べない気持ちがした。なんだか知らないけれど、ミチさんに自分の役目を取られてしまったような。それがなくなってしまったらどうしたらいいか。そう考えると、由紀子は目の前が真っ暗になってしまうのであった。

「水穂さん、もう疲れているようだから、横になりましょう。無理をしないほうがいいわよ。ほら、それ脱いで、横になって。」

由紀子は、急いでそんな事を言った。

「脱ぐときは、ここについている、ボタンをとれば脱げるから。肩をあげなくてもいいように作ってあるからね。」

ミチさんは、急いで説明してその部分を見せたが、そこについているのはボタンというものではなく、スナップと言うものである。どうやらミチさんはそのあたり、ちゃんと覚えていないらしい。まあ、外国人だから仕方ないといえばそれまでであるけれど、由紀子は、そういう言い方をするミチさんを、なにか、嫌な人だと思ってしまったのであった。

「ミチさん、これはボタンとはいわないで、スナップと言うのよ。」

由紀子は、嫌な顔をして、そう言ってしまう。

「ああ、すみません。日本語の名詞って言うのかしら、それは種類が多くて、覚えるのが大変です。」

ミチさんは、外国人らしくそういうのであるが、

「まあ、それはそうでしょうね。それは、仕方ありません。ご自身のペースで結構ですから、ゆっくり覚えてください。」

と、水穂さんがそう言いながら、布団に横になった。由紀子は、すぐに掛け布団を変えてやった。

「それでは、少し、眠りましょうか。多分お疲れになったと思いますから。」

と、由紀子はできるだけ平静を装って、そういう事を言った。

「ああそうですね。水穂さんは、疲れてしまってますからね。じゃあ、よく休んでくださいね。」

ミチさんがそう言ってくれたので、由紀子は今日は良かったと思った。できるだけ、ミチさんを水穂さんに引き合わせない様にすることが、由紀子の思惑であった。

「そろそろお昼を、用意しておかないといけないわ。」

ミチさんは、壁にかかっている時計を見て、そういった。そして、

「ゴメンなさい、ちょっと台所に行ってきます。」

と言って四畳半を出ていった。こういう食事の時間は、時計より正確に厳守するのがミチさんだった。

「じゃあ、水穂さんが休めるように、僕達も食堂へ行っているか。眠るときは静かにしたほうがいいでしょうからね。」

と、杉ちゃんが言って、四畳半を出ていくのだった。まさか、由紀子だけこっちに残りたいというような雰囲気ではなく、仕方なく由紀子も、部屋の外へ出た。これをさせられてしまうというのは、由紀子はちょっとガックリした。

とりあえず、杉ちゃんと由紀子、ミチさんは、食堂へ言った。ミチさんは、栗の渋皮煮を作ろうと言って、先日利用者が持ってきた栗の鬼皮を向き始める。ミチさんは、鬼皮を向くのは、包丁でむくとなると、大変な労力を必要とするものであるが、ミチさんは、何もいわずに、包丁で鬼皮をむいた。よくこんな面倒くさい作業をこなせるものだと由紀子は、嫌味を言いたくなった。ミチさんは、忍耐強く鬼皮を向いていると、

「あら、降ってきたみたい。」

と、由紀子は言った。

「降ってきたって雨が?」

と、杉ちゃんがいうと、

「ええ、今日は大気の状態が不安定で、にわか雨が降るって言っていたわ。」

と、由紀子が言った。

「そう。クスコでは、こんな大雨になるのなんて、年に数えるほどしか無いから、珍しいわ。」

と、ミチさんは面白そうに言った。確かに、高山街のクスコでは、こんな土砂降りの雨は珍しいかもしれない。時々、雷もなっていて、由紀子は、ちょっと怖いわねというが、ミチさんは、面白そうな様子だった。もしかしたら、停電するかもしれないのに、と思った由紀子だったが、ミチさんは、そんなことは全く平気で鬼皮を剥く作業を続けた。

「日本では、こんな大雨のせいで、死んだ人だって出ちゃうほどの大雨になるのよ。その当たり、ちゃんと知っておかないとね。」

由紀子は、ミチさんに嫌味っぽく言ったが、ミチさんは、何もいわなかった。

と、同時に、誰かが咳き込んでいる声がした。

「あ!またやったな!畳の張替え代がたまんないよ!」

と、杉ちゃんがそう言うと、由紀子は立ち上がり、鉄砲玉の様に四畳半へ直行した。ふすまを開けると、水穂さんが、横向きに寝たまま咳き込んでいて、畳がまた汚れていた。いくらミチさんでも畳の張替えはできないだろうなと由紀子は思った。

「水穂さん、水穂さん大丈夫?」

と由紀子は急いで、水穂さんの背中を擦って、口元にちり紙をあてがって、吐き出しやすくしてやったのであるが、咳き込むのは収まらなかった。薬飲みましょうかと言って、急いで、薬を口元へ持っていくが、咳き込むのが激しすぎて入らない。水穂さんの出るべきものは、止まることが無いらしい。いつまでも咳き込み続けている。

「困ったな。影浦先生でも呼んでくるか?」

と、杉ちゃんが言うと、

「だ、だけど待っている間に、血が詰まって、大変な事になったら?」

と、由紀子は反発する。

「そうだねえ。医者に取ってもらうのが一番だと思うけど、医者を呼んでも、後回しにされちまうから、直談判するのが一番いいと思う。」

と、杉ちゃんが言った。

「救急車を呼ぶのだって、どうせいろんな病院たらい回しにされて、その間に出すもんが詰まって、イチコロになっちまうよ。そういうもんだからな。」

「そうなのね。わかったわ。私達もそうだった。だったら私が連れていきます!」

いきなりミチさんがそういう事を言った。ミチさんは、水穂さんの布団を剥ぎ取ると、よいしょと背中に背負った。

「じゃあ、私行ってくるわ。雨も雷も私は平気だから大丈夫。」

と言って、どんどん玄関先に言ってしまおうとするミチさんに、

「ちょっと待て!こういうときは、乗用車を使ったほうがいい。由紀子さん運転してやってくれ!」

と、杉ちゃんが言った。こういうときは、ミチさんのことを嫌なヤツともいえず、由紀子はこっちよ、と言って、ミチさんを車の方まで連れて行く。急いで由紀子は、水穂さんを後部座席に寝かせてやり、ミチさんを助手席に座らせて、自分は運転席に座った。そして、制限速度を超えて車を飛ばし、影浦医院まで、直行した。ミチさんは、なぜ精神科にとか、そういう文句のようなものを一切いわなかったので、そこは良かった。影浦医院に到着すると、ミチさんと由紀子は、ずぶ濡れになって建物に飛び込み、水穂さんを見てくれと言った。影浦先生は、わかりましたよと言ってくれて、水穂産を、処置室のベッドに寝かせて、まずたまりすぎている血液を吸引してとり、そして、薬を、点滴して打ってやると、水穂さんは、咳き込むのをやめてくれて、静かに眠りだしてくれた。

影浦先生に、目を覚ますまで、しばらく二人は外へ出ていてくれと言われて、ミチさんと由紀子は、処置室の外へ出た。そして、案内されたソファの上に座らせてもらう。由紀子は、ちょっと涙を拭きながら、

「危機一発だったわね。」

と、言いながら、ミチさんを見た。すると、ミチさんが泣いているのである。何だと思ったら、涙を拭くこともなく泣いているのである。

「ど、どうしたの?」

と、由紀子はミチさんに言った。

「ごめんなさい、、、。」

と、ミチさんは、そういうのである。

「ごめんなさいって何が?なにかいけないことでもしたの?」

由紀子は、急いでそういう事を言った。

「何をしたのよ。ごめんなさいって、あなた悪いことでもしたの?水穂さんを、連れてきてくれたじゃない。それなのになんでごめんなさいって、日本語ちゃんと理解していないにしても、この状況で言うなんて、おかしいと思うわ。」

「ごめんなさい、、、。私、クスコに居たとき、一度だけ、人を駄目にした事があるんです。やっぱりね、その子もこういう症状を出して、私、病院に連れて行こうと思ったんだけど、どこの病院でも、ケチュア人はお断りだっていわれて、十回目に病院に行ったときに。」

ミチさんは、泣きながら言った。

「十回目に行ったときにどうしたの?」

由紀子が聞くと、

「死んだわ。私が背負っていたとき、急に持っていた手がゆるんだから、すぐわかった。結局私は、彼を背負ったまま、泣きながら一人で帰ったわ。本当に、あのときは悲しかった。今回も、同じことになるんじゃないかって、私は、もう怖くて怖くてたまらなかった。だって、同じことしたら嫌だものね。2度あることは3度あるとか言うって言うけれど、私は、同じことがあったら、ほんとに、悲しくて、どうしようもないわよ。」

ミチさんは、そういうのだった。それ、本当のことなんだろうかと由紀子は思ったが、ミチさんが涙を拭くこともなく、なきつづけているのを見て、それは本当なんだなと思った。それでは、もしかしたら、この人は、悪い人では無いのかもしれないと、由紀子は思った。

「だから、怖かったのよ。今回も、あの時と同じことになるんじゃないかって。そうなったら、本当に悲しいから。私、日本では、こんなふうに人種差別をされることは無いと、思っていたんだけど、やっぱり、どこへ行っても、同じことはあるのね。きっと、日本でも、どこへ行っても、こういう最低限の扱いをされる民族というのは、居るんだわ。」

ミチさんは、そればかり言っていた。

「そうよ。」

と由紀子は言った。

「日本であれ、どこであれ、同じ民族であれ、違う民族であれ、水穂さんの様に、バカにされたり、差別されたりする人はどこにでも居るわ。ただ、それはね、消してあげることはできるってあたしは信じてる。だって、愛することができるじゃない。それをしてあげれば、その人だって、変えられる。それは、絶対できると思う。たった一人でもいいの、愛してくれる人がいれば。」

「由紀子さんは、偉いわね。それは、私よりもずっとしっかりしているわ。」

不意に、ミチさんが自分の事を見てそう言っているのが、由紀子には見えた。まさか、ミチさんが自分にそういう事を言うなんて思っても居なかった。

「いいのよ。日本人のあなたが、水穂さんの事を思ってくれているんだったら、そのまま、想い続ければいいわ。私みたいに、いくら相手を思い続けても、ケチュア人は出ていけっていわれることも無いでしょうから。」

まさかそんなセリフをいわれるとは思わなかった。ミチさんが、なんで、そんな事を言うのか。由紀子はびっくりしてしまう。

「由紀子さんはいいわね。愛する人がいれば貫き通せるわ。私にはそれはできないもの。いくら、人に良いことしたって、人を好きになったって、どうせケチュア人に好きになられても困るしか、いわれたことが無いのよ。」

「そんなに、冷たく扱われるものなの?」

由紀子はミチさんに聞いてみる。

「ええ。それで当たり前よ。クスコでは。そう思って行かないとやってはいけないわ。」

ミチさんは、静かに答えた。

「そうなんですね。」

由紀子は、そんな態度を取ってくれるミチさんに、複雑な気持ちが湧いたが、何故か。ミチさんを責めるという気にはなれなかった。ミチさんは、多分きっと、自分より何十倍も辛い思いをしたのではないか。それは、もしかして諦めるしか、方法がなかったのかもしれない。

「ミチさんだって、きっと愛されると思える方法はあるわよ。それはきっと、南米から脱出して、こっちに来られたんだもの。自分が変わるためにここに来たんだと思えばそれでいいじゃない。きっとそう思っていれば、大丈夫よ。」

由紀子は、ミチさんにそういった。でもミチさんの表情は変わらなかった。相変わらず悲しそうなままだった。由紀子はそれを、異民族であるからだと勝手に思ってしまったのであるが、ミチさんは、こういうのであった。

「かわれるって本当にできることなのかしらね。こっちへ来ても、変わりたくても、かわれない要素に邪魔されて、結局何もできないままになってしまう。変わろうとすればするほど、民族が違うとか、車に乗れないとか、そういう事が重々しく乗っかってくるものなのよ。だから、やっぱり自分が変わるのは無理なんだと思うことのほうが多いわ。私は、何もできないただ、体を売るしかできやしないわよ。それしか何もすることはなかったのよ。」

何を言っているの、私にはできないことがなんでもできるじゃない。と、由紀子はいおうと思ったが、ミチさんは泣き続けるのであった。由紀子は、そうしているミチさんに、これで顔を拭いてと言って、ハンドタオルをそっと差し出した。ミチさんはごめんなさいと言ってそれを受け取って顔を拭いた。

「そういうときは、ごめんなさいと言うもんじゃないわ。」

と、由紀子は、にこやかに笑って言う。

「ありがとうというのよ。」

「ありがとう。」

ミチさんは、やっと笑顔になってくれた。そうして数分後、影浦先生が処置室から出てきて、もう連れて帰ってもいいと言った。二人は、本当にどうもありがとうございましたと言って、まだ眠っている水穂さんをミチさんがまた背負った。由紀子に比べると大変な力持ちだ。それをしているのに、重そうな顔も一つしない。

それから、数日後。由紀子はまた製鉄所に行った。今度は、ミチさんがどうのということではなく、水穂さんに会うためだ。水穂さんの事を愛しているのは自分だと思えるようになったのだ。その日、四畳半に行ってみると、水穂さんは先程、薬を飲んで眠ってしまったとミチさんが伝えた。二人は、台所に行った。水穂さんの水のみを洗っているミチさんに、

「ちょっと、提案があるの。これに参加してみない?」

と、由紀子は一枚の広告を見せた。

見ると、運転免許獲得のための、初心者講習会というものである。それが、高校生や大学生など、若い人のためのものではなく、中年や高齢者などワケアリの人を対象にした講習会だった。

「車の運転ができれば、また変わってくるんじゃないかと思うのよ。それでまた、世界が変われば、少し、人生観も変わってくるんじゃないかしら。」

由紀子はそう言って、ミチさんに広告を見せたが、ミチさんは何も嬉しそうな顔をしなかった。

「どうしたの?なにかいけないことでもあるかしら?きっと外国の方だって来ると思うけど?」

由紀子は思わずそう言うと、

「ええ、あたしは車の運転ができても、車自体をどうにかするお金もないし、第一私には、運転免許なんかとる資格ないわよ。」

と言って、ミチさんは掃除を再開してしまった。其時は、由紀子はそうとだけしかいえなかったのであるが、ミチさんがなんで、こんなに、自己評価が低いのだろうかと、不思議に思った。ミチさんは、たしかに、クスコにいた頃は、変な民族としてバカにされていたのかもしれないが、日本では、出自や言葉のなまりを明らかにしない限り、あまりうるさくいわれないはずだ。それなのに、資格がないとはどういうことだろうか?あれだけ、家事もできて、テキパキと動けるんだから決して、障害があるとかそういう事も無いはず。それとも、仕事を持っていないから?いや、だって、働ける手段はいくらでもありそうだ。手芸だってあれほどうまいのだから、それを利用して、洋裁の講師にでもなれそうなはずなのに?

由紀子は、どうしてミチさんがそんなに自己評価が低いのかわからないまま、とりあえず私、庭掃除してくるわと言って、台所を出ていった。同時に、ちょっと女性に興味を持っている年頃の利用者が、ミチさんが作業をしているのを除いているのが見えた。まあ、チャラチャラしたかわいい子に目がないというわけではなく、ミチさんの事を思ってくれている男性なんだろうなと思って、由紀子は何もいわなかった。





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