第二章 パチャクティのプレゼント
ある日のことだった。由紀子は、仕事が休みだったので、いつもの習慣で製鉄所にポンコツの車を走らせる。製鉄所に到着すると、ちょうどミチさんが中庭の掃除をしていた。ミチさんは、食事の世話ばかりではなく、中庭掃除とか、風呂掃除とかも任されるようになっていた。庭を掃除しているのを、水穂さんが、申し訳なさそうに眺めていた。
「庭の掃除が終わったら、立花さんに私から電話しておきますね。立花さんに、イタリアカサマツの診察をしてもらいますから。」
と、ミチさんはテキパキといった。そういえば、庭のイタリアカサマツが、なかなか元気がないのは由紀子も知っていたが、まさかミチさんが、診察をお願いしてしまうとは、由紀子も驚きだった。
「イタリアカサマツ、診察してもらうんですか?」
由紀子が、思わずそう言うと、
「ええ。水穂さんがお願いしたいと言うものですから。人間ばかり贅沢していては行けないって。」
そういうミチさんに、由紀子は本当はあなたが申し込んだのではないの?と言いたかったけど、やめておいた。
「あの、由紀子さん、ちょっとお願いがあるんですけど。」
いきなりミチさんは由紀子に言った。
「このあたりで、一番大きな布屋はないかしら。あの、着物にする布じゃなくていいのよ。強いて言えば、なんて言ったらいいのかな、和裁じゃなくて。」
「洋裁屋さんですね。それなら、吉原駅近くにありますよ。」
水穂さんがにこやかに笑っていった。
「ありがとうございます、水穂さん。それで、由紀子さんにお願いしたい事があるんですけど?」
と、ミチさんは言った。
「お願いしたいことって。」
由紀子は思わず言ってしまう。この人に、なにか頼まれごとをされるのは、なにか嫌な気がする。
「私、運転免状が無いので、洋裁屋さんまで、送ってもらえませんか?お礼はいくらでもしますから。お願いしたいんですけど。」
ミチさんのそういわれて、由紀子ははあという気持ちになった。なんでこの人を、送って行かなければならないのだろうか。嫌な顔をして、彼女を見た。
「それを言うなら、運転免許よ。日本語、ちゃんと覚えてね。」
とりあえずそれだけ言っておく。
「洋裁屋さんって、なにか作るんですか?」
水穂さんに聞かれて、ミチさんは、
「いえ、ちょっと、興味がありまして。」
とだけしかいわなかった。
「営業時間は、いつなんでしょうか?私、そういうの調べる道具を使いこなせないんです。なんとかフォンと言うそうだけど、なんだか、画面の変なところを押してしまって、うまく操作できないので、諦めました。」
はああなるほど。ミチさんは、スマートフォンがつかえないのか。由紀子は、そう思った。それは、今の日本で暮らしていくのには、かなり不利なところもあるだろう。
「由紀子さん、洋裁屋、レーヨンマートの営業時間を調べてあげてくれませんか。」
と、水穂さんにいわれて、由紀子は、はいはいわかりましたよと言いながら、スマートフォンを出して、レーヨンマートの営業時間を調べてみた。まあ、大体予測はついたけど、もう営業はとっくに開始している。
「もう始まってるわ。営業終了は、七時までよ。」
由紀子はぶっきらぼうにそう答えた。
「じゃあ、今から行って来られたらいかがですか?立花さんのお相手は僕がしますから。お二人で、布選びを楽しんでくるといいですよ。」
と、水穂さんにいわれて、由紀子はどうしてこうなってしまうんだろうかと思いながら、それでも、水穂さんの言うことだから、断れないと思って、じゃあ、行きましょうかと言った。
「ありがとうございます。本当にすみません。わざわざ、乗せていただけるなんて。」
と、ミチさんがそう言うと、由紀子はすぐに部屋を出て、外に出て、ポンコツの車に乗り込み、エンジンをかけた。ミチさんは、よろしくおねがいしますと言って、急いで車に乗り込む。由紀子は、もうどうでもいいという気持ちで、車を吉原駅近くまで走らせた。吉原駅の駅前商店街を通ってみると、大量に布を売っている店があった。ミチさんは、ああ、あそこですねといった。由紀子は、駐車場を探してといったが、ミチさんは駐車場とはなにかわからなかったようで、結局由紀子が探さなければならなかった。由紀子が、近くにあった有料駐車場に車を停めると、ミチさんは、ありがとうと言って、布を売っている店まで歩いていった。そして、大量においてある布を一枚一枚手触りとか、柄などを調べ始めた。
「できる限り、日本的な柄では無いほうがいいわ。花柄もいけない。かといって無地は地味すぎる。」
そういうミチさんは、一番端においてある、格子模様の布に目をやった。
「これは、どういう柄何でしょうか?」
そういわれても、由紀子はよくわからなかった。ただ、チェックという柄であるとだけ言った。
「それでは、この柄に悪い意味など無いのね。それなら、これでお願いしようかな。一メートルカットでお願いできるかしら?」
と、ミチさんは、店員に言った。店員は、珍しい客だなと思ったのか、はいわかりましたと言って、布を切ってくれた。お値段は、680円ですというと、ミチさんは、1000円札を店員に渡した。どうやらミチさんは、計算が苦手らしい。彼女は、1000円札を渡すと、お釣りの額も勘定しないで受け取り、
「ついでに、この巾着も一つください。」
と言った。店員が、180円ですというと、ミチさんはまた千円を渡した。店員は、そうじゃなくて、200円出してくれればそれでいいよ、と言って、先程のお釣りから、200円を抜き取って、20円を彼女に渡した。
「ありがとうございます。本当に、どうもありがとうございました。おかげで、助かりました。」
と、ミチさんは店員さんに丁寧に礼をいい、店を出ていった。由紀子は、自分には礼をしないのかと思いながら、ミチさんの後をついていった。駐車場に帰る道順はよく覚えているのに、お金の計算をしたり、車の運転免許を持っていないなど、ミチさんは変なところがある女性だなと思った。由紀子は、じゃあ乗ってくださいと車にミチさんを乗せると、自分は運転席に座って、製鉄所に向かって車を走らせる。
「由紀子さん今日はありがとうございました。クスコでは、こんなにたくさん車があったわけではないので、日本はすごいなと思いました。」
ミチさんは、そんな事を言っていた。
「クスコは、高山街ですから、車よりも歩いていくほうが多いんですよ。」
「はあ、そうなのね。」
由紀子は、ミチさんに小さい声で言った。
「ええ、急な坂道ばかりで。住んでいれば慣れるんですけど。こんなにたくさん車は走ってないです。でも、頭が痛くなったり、めまいがしたりするところもありますけど。」
「そうなんですか。」
由紀子は、それだけ言った。
「そんなところでよく人が住めますね。」
「ええ、ここで言ったら、富士山のてっぺんと同じくらいの標高の、高山街です。」
と、ミチさんは明るく言う。どうしてそうなんだろうと思いながら、由紀子は、大きなため息を付いた。そうこうしている間に、車は、製鉄所についた。
「はい、到着よ。無事に買うことができて良かったわね。」
由紀子はそう言って車を止めた。
「ありがとう、由紀子さん。お礼にこれ、差し上げるわ。お値段をいわれてしまってちょっとまずいかなと思ったんだけど、ああしていわれたら仕方ないわ。なにかに使ってちょうだいね。」
ミチさんは、由紀子に先程購入した巾着を渡した。
「え、私にくれるつもりだったの?」
由紀子がいうと、
「ええ。そのつもりだったわよ。クスコでの習慣なの。お礼になにかあげるのは。」
と、ミチさんは答えるのだ。それを言うなら、現金のほうがよほどありがたいなと思うのであるが、ミチさんは、そういう考えは無いらしい。ミチさんは、にこやかに笑って、由紀子に巾着を渡した。
「ありがとうございます。」
それだけとりあえず言っておく。そして、由紀子とミチさんは、車を出て、製鉄所に戻った。玄関を開けると、男性の靴が一足あった。由紀子はすぐに中にはいった。中では、水穂さんが、縁側に座って、立花さんの話を聞いていた。イタリアカサマツの状態は、良さそうである。確かに、イタリアに生えているものなので、日本の気候に順応するのは難しいだろう。でも、ここに植わっているのだから、順応するように促すのも必要ですよね、と立花さんと水穂さんはそう言い合っていた。
「水穂さん大丈夫?」
由紀子はそう聞いたが、水穂さんはハイとだけ言った。その顔がもう疲れているようであったから、水穂さん横になりましょうか、と由紀子は聞くが、水穂さんは、いえ大丈夫ですとだけ言った。
「じゃあ、水穂さん、また二週間したら来ますので、イタリアカサマツが葉を落としたりしたら、すぐに連絡ください。」
と、立花さんは、軽く頭を下げて、玄関先へ歩いていった。もう、しっかり歩いているので、うつ病は遠ざかってしまったのだろう。立花さんは、一生懸命イタリアカサマツの治療を続けている。もしかしたら、ほかの木の治療もしているかもしれない。もう、グアテマラのコーヒー園に居たときのことは、過去のことだと切り捨てることができたのだろう。由紀子は、水穂さんには、そういうことはできないだろうなと思った。
「じゃあ、水穂さん、横になりましょう。もう疲れてるみたい。早く休みましょう。」
由紀子が急いでそう言うと、
「五分だけ待ってもらえない?寸法を測りたいの。」
と、ミチさんが言うのだった。由紀子が、何をしているのというと、ミチさんは、カバンの中からメジャーを出して、水穂さんの裄丈と、胴回りを測り始めた。
「水穂さんは、男の人にしては、痩せすぎるわ。水穂さんは、いくら体が弱って居ると言っても、体を大事にしなきゃだめよね。」
ミチさんは、メモ用紙に、胴回りと、裄丈をメモしながら、そういう事を言った。由紀子は、それより早く水穂さんを横にならせてあげたいと思うのだが、ミチさんにはそのような考えはないのだろうか。
「もうちょっと体を大事にして、体力つけるようにしなきゃだめだわ。あとで、おでんでも作ってあげる。それで食べられたら食べて、元気をつけましょう。」
ミチさんは、カバンの中から、レポート用紙を取り出してなにか書き始めた。ちゃんと日本語で描いてあるようであるが、とても下手な字で、由紀子には読めなかった。
「何を作るんですか?」
と、水穂さんが言うと、ミチさんは、ええ、もうちょっとまってとだけ言って、真剣な顔をして書物をしている。水穂さんは、ミチさんが描いているのを見ているが、由紀子は早く横にならせてくれればいいのにと思って、歯がゆい思いをした。
「設計図ができたわ。ものづくりするときは、ちゃんと正確に、しっかり設計図を書かなくちゃだめよね。」
ミチさんは、そう言っているが、由紀子はそれよりも水穂さんをと思った。
「ちゃんと設計図まで作るなんて、やっぱり慎重なんですね。そういうところが、かつて巨大文明を築いた民族の名残りなんでしょうか。」
水穂さんはそう言って、疲れた顔をわざと隠して、ミチさんにそう言っている様に由紀子には見えるのだった。
「いいえ。私が単に、完璧に作らないとだめな性格であるからだと思うわ。」
と、ミチさんは言っている。
「いえ、そんな事ないですよ。散々バカにされた事が多かったとは思いますけど、インカの人たちは勤勉で、しっかりしている人が多かったと聞きました。ミチさんもそういう国民性では無いですけど、民族性というのは、今でも出ているんじゃないですか?」
水穂さんはそういった。ミチさんは、カバンの近くにあった針箱を開け、先程入手した布にものさしとチャコ鉛筆で印をつけ始めた。そして、その部分を内側に折り、縫い針でその周りを丁寧に縫い始めた。由紀子にしてみると、何を作っているのかは不詳であるが、ミチさんは、縫うスピードはさほど速く無いものの、正確に一つ一つ縫っていった。
「何か、風呂敷でも作られるんですか?」
と、水穂さんがそうきくと、
「まあ、そんなに単純なものじゃないわ。水穂さんがそう言うから、教えましょうか。これはね、クスコで、長らく着ていたものなのよ。まあ、言ってみれば、着物と似たようなものだわ。」
と、ミチさんはそう答えるのであった。
「ああ、いわゆる民族衣装ですか。なにか祝い事でもあったんでしょうかね?」
水穂さんがそう言うと、
「いいえ、水穂さんへのプレゼントです。日本の冬は寒いですし、これを被っていれば、暖かくなるかなと思って、作って見ようかと思ったのよ。」
ミチさんはにこやかな顔をしていった。
「水穂さんへのプレゼント?」
由紀子は思わずそういう。
「ああすみません。僕には、そんなものを着るようなことはできませんので。」
水穂さんがそう言うと、
「いいえ、見ればわかるわ。その着物で、出自を示していないと、落ち着かないってこと。」
と、ミチさんはそういうのだった。
「そういうことなら、もう着物を着続けるしか無いじゃない。あなたがそういう民族であるということは、よくわかったから。でも、そんなペラペラの着物では、体が冷えるわ。だったら、これを着てもらえれば、少しは寒さも防げるわ。」
「ど、どうもすみません。でも、僕には、手作りのプレゼントを受け取れる資格なんてありませんよ。」
水穂さんはそういうのであるが、ミチさんは、にこやかに笑って、こう穏やかに言った。
「大丈夫よ。あたしたちは、同じだって、ちゃんと知ったわ。あたしだって、いつも同じ格好をしていなければならなかった。もし、洋服着てたら、どういう扱いを受けたか、もうわかっているから、始めから、差別してもらったほうがいいのよ。水穂さんもそうなんでしょう。だったら、おあいこと言う意味で、私からのプレゼントよ。」
「そんな事、、、。」
由紀子は思わずそういうのである。
「あなたがしていることは、ただ、差別を助長しているような、そんなことだけよ!」
由紀子は思わず言った。
「まあ、そうかも知れないわね。でも、たった一人、水穂さんを大事に思っている人がいれば、また人生観も変わってくるのでは?」
と、ミチさんは言うのだった。
「そういう事言うんだったら、はやく横にならせて貰えないかしら!水穂さんもう疲れているのよ!」
由紀子は思わず怒りを込めていった。由紀子にしてみれば、そんなものをプレゼントするよりも、彼を休ませてあげるほうが、よほど愛情なのではないかと思うのであるが。ミチさんにはそれがなさそうであった。
「わかったわよ。由紀子さん。そんなに起こる必要もないわ。水穂さんが口に出していわなければそれでいいんじゃないの。」
外国人らしいいいわけだと由紀子は思った。
「そんな事ないわ!水穂さんは、あなたが余計な事をするのを、我慢して、辛いのに、横になれないで居るのよ!」
由紀子はミチさんに教えているような感じで、そう言った。
「そうなの?」
ミチさんはそうきくと、
「そんな事ありませんよ。」
と水穂さんがいうので、ミチさんはなんだやっぱりという顔をしたが、
「そんな顔しないでよ!あなたも、こっちに居るんだったら、ちゃんと郷にはいっては郷に従えという言葉を知るべきね!」
と、由紀子は急いで言った。ミチさんは、そんな事いわれてもという顔をしていたが、由紀子は、ほら、水穂さん、横になりましょうねと、水穂さんを無理やり布団に寝かせてあげた。由紀子にしてみれば、水穂さんが咳き込み始めるのではないかと、気が気で仕方なかった。
「ほら、休んで。眠って頂戴。もう疲れた顔をしてる。今日は立花さんも来たんだし、これ以上あなたに負担をかけてはたまらないわ。」
由紀子はそういう事を言ったのであるが、水穂さんは、ミチさんに申し訳無さそうな顔をした。
「いいのよ。あたしたちはこうなってしまうことは、よくあることなんだから。でも、寸法も図ることができたし、後は、穴を開けて、本縫いするだけよ。ちゃんと作れるから心配しないで。」
と、ミチさんは、にこやかに笑って、水穂さんに言った。
「すぐにそういう被害者的な顔をしないでよ。あなたは、民族がどうのこうのというよりも、水穂さんが休むのを邪魔しているという事に気がついてもらいたいわ。いくら、古代から続く民族とか、そういう事言われて褒められたりするんでしょうけど、そういうことじゃなくて、水穂さんに対してもうちょっと考慮してあげられることも必要なのよ!」
由紀子は、ミチさんにいうが、ミチさんは、よくわからないという顔をしているだけであった。
「日本人は、細かいことを気にし過ぎなんじゃないかしら。でもこれはちゃんと作っておきますから、安心してね。私、途中で辞めることは絶対にしないわよ。ちゃんと、物事は、最後までやり遂げないと、行けないと思うから。」
ミチさんは、そう言って、水穂さんにごめんなさいもいわず、布を縫い続けるのであった。なんで、ゴメンなさいも言わないんだろう。由紀子はただ、ミチさんが、被害者意識を持って居るだけで、何もそこから変わろうとしない、ずるい女性だとしか認識できなかった。一方、水穂さんの方は、もう完全に疲れてしまったらしく、布団の中で、静かに眠ってしまうのであった。由紀子はそれだけでもしてくれればいいと思った。
ちょうど其時、製鉄所に設置されている柱時計が、三時を告げた。ミチさん針を縫う手を休め、急いで針箱に針を仕舞い、
「そろそろおやつを用意しないと行けないわ。」
と、台所へ向かって歩いていってしまった。おやつなんて、そんなもの忘れているのではないかと思っていた由紀子は、ミチさんがそれを覚えているのと、彼女のすごい記憶力に、ちょっと怖い女性だと思ってしまったのであった。
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