パチャクティ
増田朋美
第一章 刃物を持った女
秋も終わりに近づいているというのに、ちょっと動くと暑い日々が続いている。しかも季節がおかしくなってきているのは、日本だけではない。アジアの南の方では、大規模なハリケーンが起きて、大変な被害が出たとか、また別の方では大地震があったとか、そういうおかしな現象が起きているのだ。おかしくなっているのは季節ばかりでははない。人間も少しづつだけど、変な人が出始めている。
そんな中、杉ちゃんとジョチさんは、三島駅から用事があって、富士駅へ帰るために、東海道本線の普通列車、静岡行に乗った。まあ、いつも通り、電車は空いていた。まあ何もなく、30分すれば、富士へ帰れると思っていたのであるが。
電車は空いていた。三島駅の次の沼津駅では、御殿場線に乗るために、何人かの人が降りていった程度で、乗客は増えていない。杉ちゃんとジョチさんは、いつもどおり、車椅子の人が座るための、電車の端にある座席に座っていた。杉ちゃんの目の前に、一人の女性が座っている。青色のジャージ上下を身に着けているが、顔も手もなんとなく浅黒く、日本人という感じがしない。髪は長くて、肩よりしたまで伸びていた。髪色は、黒であったが、日本人という感じの黒ではなかった。
杉ちゃんが、水を取り出そうと、風呂敷を解こうとしたところ、その女性の手が動く。彼女は持っていたトートバックの中に手を突っ込んだ。杉ちゃんの目には、彼女の手が、刃渡りの大きな刃物を握ったのが見えた。
「おい、待て!」
杉ちゃんが言っても、彼女は答えようとしなかった。
「お前さんが、なんの目的かは知らないが、人に危害を与えるのはまずいんじゃないの?」
そう言っても彼女は返事をしなかった。でも自分の事をいわれているということはわかっているみたいで、目が動いている。ということは、日本語も少しわかっていると思われる。
「おい、そんな危ないことはやめたほうがいいぜ!」
杉ちゃんがそう言うと、女性はひとこと小さい声でなにか言った。
「ああ、スペイン語を話すんですね。」
と、ジョチさんがそういうと、女性はもうだめかという顔をした。電車の中なので、飛んで逃げることもできなかった。それと同時に、
「まもなく、富士、富士に到着いたします。お降りのお客様は、お支度をお願いいたします。」
と、車内アナウンスがあって、電車は富士駅にとまった。女性は、富士駅で逃げようと思っていたらしいが、電車のドアの前に、杉ちゃんを下ろすため、二人の駅員が待機していたため、それはできなかった。ジョチさんがいつの間にか、彼女の腕を掴んでいたため、再度刃物をつかもうということはできなかった。駅員が、車椅子の杉ちゃんを、電車の外に下ろしてしまうのを見届けてから、ジョチさんは、女性と一緒に、電車を降りた。
「よし、じゃあ、食事でもするか。駅ナカのカフェの、カレーライスがすごくうまいのよ。食べようぜ。」
杉ちゃんは、どんどんエレベーターに乗って、カフェの方へ行ってしまうのであった。ジョチさんは悪いようにはしませんよと言って、彼女を杉ちゃんの行く方へ行かせた。
三人はカフェに入ると、一番奥の目立たない席に座った。ウエイトレスが、飲み物を持ってくると、杉ちゃんはとりあえず、カレーライスを3つくれとお願いした。
「で、お前さんは、なんで刃物でお客さんをなにかしようと思ったの?」
杉ちゃんがその女性にそうきくと、女性はボロボロと涙をこぼしながら、なにか言おうとしたのだった。
「日本語少しわかるのは、わかってんだぜ。何かいえばいいじゃないかよ。まあ、言いにくい理由であることはわかってるんだけどさ。でも、やっぱり、なにかあったことは確かだろうし、お前さん、外国人だろ?見かけたこと無い顔だけど、どこの国から来た?」
と、杉ちゃんが言うと、彼女は一言、
「ペルーのクスコです。」
とだけ答えた。
「ああ、あの、インカ帝国の首都があったところですね。今は、有名な観光地になっているとか。」
ジョチさんがそう言うと、彼女は、
「わかるんですか?」
と言った。
「はい。知ってますよ。かなり前ですが、一度クスコへ旅行したことありましたから。あの辺りは、犯罪が多いと聞きましたが、たしかにそうでした。」
と、ジョチさんは、彼女にわざと明るく言った。
「なるほど、そういう訳だったのか。で、お前さんは、なんのために日本に来たんだ?出稼ぎか?それとも別の目的か?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「いえ、単に、お金が欲しかっただけのことで、何もしてません。」
と、彼女は言った。
「はあ、一体何をしてたんだ?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「はい、日本の歓楽街で、遊女として働いてました。初めは、ただの下働きで、その後は、本格的に遊女として、何人かのお客さんを相手にして。」
と、彼女は答えた。
「はあ、そういうことなんだね。まあ確かに、外国から来た女が、売春婦として働く例はあるよねえ。」
と、杉ちゃんが呆れた顔でそう言うと、
「いえ、そうすればするほど。日本人は冷たいなと思って。昨日、勤め先のソープランドで、お客さんの財布がなくなるという事件がありましてね。それであたしが、真っ先に疑われたんです。なんだか、日本人って、日本人ではない人のせいにしておけば良いと思ってしまうみたいですね。日本人は、そういうところが冷たいんですよ。だから私、仕方なく店をやめさせられることになりまして。」
と、女性はところどころつかえながらそういう事を言った。
「はあ、なるほどで、それで腹いせに、刃物を持ち出したわけか。」
「はい、もう何もかも嫌になって、もう幸せそうにしている人を、みんなさしてやると思ってしまいました。ゴメンなさい、本当はやってはいけないことだったのに。」
杉ちゃんがそう言うと、女性は正直に言った。
「はあ、すぐに白状するのも、日本人には無いところだな。」
「はい、私達に伝わる、標語みたいなものに、嘘を付くな、盗むな、怠けるなと言うのがありまして。」
「なるほど、その言葉を知っているということは、あなたは今で言うところの、南米人ではありませんね、それよりも、もっと前に居た民族、いわゆる、インカ帝国を構成していた、つまるところのケチュア人でしょう。背が低いのとその顔の色から見てもわかりますよ。それでは、日本で生活するのも大変だったのでは?」
ジョチさんがそう言うと、女性は、もうだめかという感じでしたを向いた。
「まずはじめに、お前さんの名前を教えてもらおうかな。」
と、杉ちゃんがいうと、
「ミチと申します。ミチ・エイという単純素朴な名前です。」
と、彼女は答えた。
「はあ、なるほどね。それなら馬鹿な僕でも覚えやすい名前だな。で、お前さんは、これから、どこにも行くところが無いんだろ?国へ帰っても、どうせ馬鹿にされるだけだわな。それならさ、ちょっと考えがあるんだけどさ。悪いようにはしないから。」
と、ミチと名乗った女性に、杉ちゃんは、提案するように言い始めた。
「ええ、何もありません。私の家族は、反乱に巻き込まれてなくなりました。日本と違って、あまり安定した社会じゃないから。」
「そうなんだね。まあ、たしかに、あちらの方は、政治混乱が多いって聞くしな。大統領がコロコロ変わったり、テロ事件が起きたりしているんだろう。それでは、確かに犠牲になるやつが出る。」
杉ちゃんは、一人頷いた。
「それでお前さんは、日本でずっと暮らそうと思ったの?」
「ええ、そのつもりだったんですけど、こんな事件が起きてからは、なんだか日本も冷たいところだと、思いましたからね。もう、私は、死ぬしか、無いのかな。」
そう答えるミチさんは、もうだめなのかと思っているのだと言うことがよくわかった。
「それはいけないよ。どんな国家だって、自殺を肯定する国家は無いからな。どこにも行く場所が無いんだったら、ここで僕達に出会ったのも、何かの縁だと思ってさ、それで、ちょっと僕達と一緒に暮らさない?あの事件を起こそうとしたのは、だれにもいわないでおくからさ。その代わり、体で払ってもらう。」
杉ちゃんは、親切で言っているのか、それともバカにしているのかわからない言い方で言った。
「体で払ってもらう?愛人になれとか、そういうことですか?」
ミチさんは急いでそう言うと、
「ぜんぜん違うよ。ただ、女郎じゃなくて、女中がほしいと思ったんで、そこで働いてもらうだけだよ。もし、僕の話だけじゃ信じられない?だったら、今から連れて行ってあげる。ジョチさん、製鉄所へよろしく頼む!」
ジョチさんは、杉ちゃんの言っていることを、はあなるほど、と理解したが、
「でも、外国人に、できますかね。それも、治る見込みなんて、まったくないんですよ。」
と、小さい声で言った。
「いいじゃないかよ。病院だって、外国人の看護師雇ったり、外国人が家政婦さんとして雇われる例は色々あるじゃないか。それとおんなじだと考えればいいのさ。だって、事実、人が居なくて、困ってるじゃないか。もう何十回も手伝い人を募集しているけどさ、みんな、水穂さんに音をあげてやめている。そういうことなら、日本人では無いやつのほうがかえってうまくやってくれるんじゃないの?」
杉ちゃんはカラカラと笑った。
「まあ、とりあえず、来てもらって、こいつが、製鉄所で働いてもいいかどうか、聞いてみようぜ。」
「わかりました。それだけ言うんだったら、そうしてみましょう。ちょっとお待ち下さいね。」
ジョチさんはスマートフォンを出して、小薗さんに、迎えに来てくれるように頼んだ。一人、保護した女性がいるので、彼女もよろしく頼むと、言っておいた。それと同時に、ウエイトレスがカレーを持ってきたので、杉ちゃんは、いつもどおりに食べた。ジョチさんは別の意味で心配で、またミチさんにいたっては、これから何が始まるのか不安だったようで、カレーを全部食べきることはできなかった。
カフェにお金を払って、三人は駅前に止めてあった、小薗さんの車で製鉄所に帰った。ミチさんは、製鉄所というのだから、工場のような場所なのかと思ったといったが、杉ちゃんが、勉強したり、仕事したりする場所を貸しているだけだと言った。ミチさんは、日本でそういう場所があるというのに驚いていた。杉ちゃんたちは、車を降りると、ミチさんに建物の中に入れといった。ミチさんは、靴を脱いで入るということは、知っていた。ちゃんと靴を揃えて入れる習慣もあるようである。南米の人としては、珍しいとジョチさんは思った。
杉ちゃんは、ミチさんを、四畳半の中に連れて行った。ちょうど、由紀子が、水穂さんにご飯を食べさせているところだった。杉ちゃんは、勢いよくふすまを開けて、ミチさんを、布団に寝たままになっている、水穂さんの顔を見せた。
「こいつは、えーと、なんて名前だったっけ。確か、ミチさんというが、姓を忘れてしまった。まあいいや。名前を覚えるのは苦手だからさ、パチャクティということにしておこう。」
と、杉ちゃんは、笑いながらそういう事を言った。
「そのパチャクティが、水穂さんの世話係として、ここで働いてもらうことになった。まあ、多少日本語の不自由さもあるだろうけどさ。そこらへんは、上手にフォローして、うまくやってもらおうぜ。」
由紀子は、その女性を眺めた。確かに、外国人であることは、見て取れた。ミチさんは、由紀子に、
「ミチ・エイと申します。よろしくおねがいします。」
と、日本式の挨拶をしてくれたのであるが、由紀子は、挨拶を返すことは苦手のようであった。
「よろしくおねがいします。磯野水穂です。」
と、水穂さんのほうが、代わりに挨拶するくらいだ。
「由紀子さんも、なにか言ったほうがいいのでは無いの?名前くらい名乗ったら?」
杉ちゃんがそう言うと、
「あ、ごめんなさい。それよりも随分と、美しい方なんだなと思いまして。」
由紀子は、そんな事を言ってしまった。
「いえ、そんな事ありません。」
と、ミチさんはそういう事を言うが、由紀子は、よろしくという気にはなれなかった。何故か、自分の立場というか、そういうものを取られてしまったような、そんな気がするのである。
「こんな、きれいな人に、来てもらうことができるなんて、水穂さんは幸せね。」
由紀子は、急いでそういう事を言った。
「由紀子さんそれは言うな。だって、事実、人が居なくて困っているじゃないか。由紀子さんだって、そういうことは、カバーしきれないだろう?だったら、こうやって誰かに来てもらったほうがいいんだよ。由紀子さんが妬んでもしょうがないことだろうが。」
と、杉ちゃんにいわれても、由紀子は納得が行かないのであった。そんなこと、なんで私が。水穂さんには、私が居るのに、どうしてこんな人を連れてくるのよ、と言おうとしたのと同時に、水穂さんが咳き込んだ。由紀子が急いで、薬を探そうとするが、その前にミチさんが、水穂さんの前に駆け寄った。そして、急いで水穂さんを横向きに寝かせ、背中を擦って出すものを出しやすくしてやる、処理をしているのだった。その手際が実に良かった。ミチさんは、水穂さんが指さした、水のみをすぐ取って、中身をその場で飲ませた。
「へえ、お前さんは、医療従事者とか、そういう人だったの?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「いえ、そういうわけじゃないんですけど、クスコで、こういう病気の人を見たことあるから、知識だけはあるんです。」
とミチさんは答えた。
「大丈夫です。私やります。私、こういう病気の人を、何度か見たことあるから、大丈夫です。」
ということは、自分の立場とかそういうものを受け入れてくれたらしい。そう思ってくれたなら、良かったと杉ちゃんは呟いた。
「じゃあ、悪いけど、水穂さんを頼むわ。よろしく頼むな。一生懸命やってくれ。食事させたり、着替えさせたり、色々やることはあると思うけど、よろしく頼むよ。」
杉ちゃんがそう言うと、ミチさんはわかりました、と答えた。
その日から、ミチさんは、水穂さんのもとで女中さんとして働き始めた。杉ちゃんが作ってくれた食事を、水穂さんに食べさせたり、体を清拭したり、真面目な顔をして、彼女はこなした。もしかしたら、医療関係だったのではないかと疑わせるほど、彼女はよく働いた。日本人で無いからこそ、こういう人が居てくれるといいのかもしれなかった。洗濯もこなしてくれるし、掃除もきちんとしてくれる。なんだかすごい女中がやってきたなと杉ちゃんも、ほかの製鉄所の利用者も感心してしまうほどであった。
その日も、水穂さんは、ミチさんに手伝ってもらいながら食事をしていた。内容は杉ちゃんの作ったおかゆである。まあ病人用としてよく知られているおかゆではあるけれど、なんだかありふれた食事にもなってしまっていた。
「水穂さんどうぞ。杉ちゃんの作ってくれたおかゆです。食べてください。」
ミチさんはそう言っておかゆを持ってきてくれたのであるが、水穂さんは受け付けようとしなかった。理由はわからないけれど、水穂さんは時々そうなってしまうのである。
「どうして食べないんですか?おかゆ、せっかく作ってくれたのに。」
と、ミチさんは、水穂さんにいうが、水穂さんはどうしても食べなかった。こういう時、由紀子であれば無理やり突っ込んでしまうとか、そうすると思うのだが、ミチさんはそれはしなかった。
「水穂さん、ご飯を食べないと、本当に体も参ってしまいますよ。事実力が出ないとか、そういうことで大変なのではないですか?食べないと、動けなくなってしまうことはよくあることではないですか。そうなったらね、いろんな人に、申し訳ないというか、迷惑をかけてしまうというか、そういうこともあるでしょう。そういうこともやっぱり考えないと、いけないのではないのかな。私は、そう思うんですけど、水穂さんはそうは思わないんですかね。」
ミチさんは、あくまでも笑顔のままでそういう事を言った。
「いえ、そういうことではありません。」
と、水穂さんは言った。
「じゃあ、私の事を、信用してくださらないとか、そういうことですか?」
ミチさんは、水穂さんに聞いた。
「いえ、そんなことありません。ただ、自分がここに居て申し訳ないだけです。」
と、水穂さんは、そう答えるのだった。もし、ここに居たのが、日本人の女性だったら、何を言っているんですかとか、そういう否定的な言葉を口にすることが多いと思うのであるが、ミチさんは、それをいわなかった。代わりに、こういう言葉を口にした。
「そうですか。それ、私もなんとなくわかりますよ。クスコに居た時そうでしたから。私もね、居るだけで随分嫌われたりしたんです。あそこに、ケチュア人が居るって言って、私が近づけば、逃げてしまうようなこと。それって、人間であれば、どこの国でも起こることですよね。人間は、そういう動物なんですよ。なにか、順位をつけて、あの家はこうだとか、この人はああだから近寄らないとか、そういうものを持ちたがるんです。その下位にいる人は、どんな気持ちなのかなんてこれっぽっちも思わないで。なんで、こうなるんだろうって思ったこと、私もたくさんありますよ。だから、私は、水穂さんがそう思うんだったら、そうなんだろうなと思うから、それを、行けないとか、悪いことだとは言いません。事実、そうやって、だれかを犠牲にしないと、人間は生きていかれないことも知っていますし、そうなった人間の思いも知ろうとしない事も知っています。日本には、そういう人たちが居たことは、知りませんでしたが、そういう事が、やっぱりあるんだって、よくわかりました。ありがとう。」
ミチさんは、静かにそういったのであった。水穂さんは、ミチさんの事情を理解したのか、それとも、ミチさんにはかなわないと感じたのか不明だが、少し表情が変わった。
「ただ、大丈夫です。水穂さんのような、居ないほうが幸せだといわれて当たり前だと思われている種族は、ほかにも居るんだって事を忘れないでください。あたしは、水穂さんにそう言ってあげたいと思います。」
ミチさんは、優しく、当たり前の様にそういう事を言った。ミチさんにいわれて、水穂さんは少し変わってくれたのだろうか。ミチさんから、おかゆのさじをありがとう、と言って受け取った。
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