「第7章 青が読めなくなっても」

「第7章 青が読めなくなっても」(1)

(1)


 暖かくなり始めた春の始まりに包まれる中、直哉は久しぶりにグリーンドアに一人で来ていた。あの日から、一人で来る事はなかった。必ず誰かと来ていたし直哉自身、今日来るのを決めたのは、今朝である。


 香夏子に「あれ? 今日は一人なんだ?」と聞かれると、「はい。こっそり来ました」と笑顔で返した直哉は、いつものソファ席へ案内された。


 いつものソファ席に贅沢に一人で座り、赤い窓枠から見える景色も独り占め。

 初めてここに来始めたのが、夏だったので春に桜が見えるとは知らなかった。今、見えているこの景色の素晴らしさを知れたのは、二年生の春からだ。


 運ばれたカフェ・ラテに口を付ける。すっかり慣れ親しんだ味が、直哉を優しく包んだ。


「ふぅ」


 息を吐くと、コーヒーの香りが二酸化炭素に混じっていた。


 先日、無事に高校も卒業して、五人はそれぞれの進路へ進んでいる。


 直哉と梅沢は県内の私大へと合格した。担任との進路面談で最初に志望した時は合格するのは、難しいと言われたが、五人で何度も勉強会をして、真島と森谷の秀才コンビのおかげで合格する事が出来た。


 通学に時間がかかる直哉は一人暮らし、梅沢は実家から通うらしい。学部は同じなので、二週間後の入学式は待ち合わせをして、一緒に行く約束をしている。


 真島と森谷は、二人とも東京のレベルの高い私大へと合格していた。こちらも大学が同じなので、もう一緒に住むマンションまで契約しているそうだ。


「次に会った時、結婚してそー」と梅沢が言っていたのを思い出して口元が緩む。


 美結に関しては、大学進学にかなりのハードルがあった。受験勉強もそうだが、まず司が関門だった。あの日から五人で相談して、時には杏も加えてどうしたら司と暮らさないで済むのかを話し合い、最終的には彼女と暮らさず済んだ。


 だが、当の司はずっと諦めていなかったらしく、受験になると一緒に住まないかと再度提案してきた。皆の説得に納得したのではなく、一旦引き下がっただけと判明した時の美結のダメージは大きく、寝込んでしまった程だ。


 それでも最終的には司は同意した。代償として、大学の学費は出せないと断言されて、奨学金を使う事になったのだが、彼女は成績上位者として合格したので、返済義務がない奨学金を使用出来た。


 春からは地元を離れて神奈川の大学へと進む。こちらも一人暮らし。東京組の二人とそこまで離れていないので、休日は遊ぼうと早くも約束をしていた。


 直哉は、進学先を神奈川の大学にした理由が知りたくて、とある日のグリーンドアからの帰り、二人なのを良い事に夜風に任せて聞いた事がある。


「新藤さん、どうして神奈川の大学に進学するの?」


「んー? 知りたい?」


 大学に合格して上機嫌な美結は、ふわっとした口ぶりで直哉に聞いてきた。


「知りたい。でも新藤さんが話したくないなら無理に話さなくてもいい」


「全然。佐伯くんに隠し事なんて、一つもないもん」


 美結が夜風と共にクスクスと笑う。信号待ちになった。大勢の人が立ち止まる中、同じように立ち止まる二人。丁度、市バスが右折してきたタイミングで、彼女がボソッと話した。


「誰も私を知らない土地で頑張りたかったの」


「それって心機一転ってみたいな?」


 美結が話した言葉を拾って丁寧に繰り返す。


「そう心機一転。正直言うとね、地元の大学でも全然良かった。それこそ、東京の大学でもいい、あの二人がいてくれるし。ただ、良い機会だから一度体を軽くしたかった」


「それってさ……、俺たちが重荷になったとか、そういう事?」


 美結の話を聞いて発生した不安要素が直哉を蝕み、思わず尋ねてしまった。


「まさか! どうしてそんな事になるの。そんな訳ないでしょう!」


「そ、そう……。それなら良かった」


 大きな声で否定した美結。周りにいた数人の視線を受けても気にしなかった。信号が青になり止まっていた人達が一斉に動き始める。


 二人もそれに沿って歩く。すると、隣の美結が「それにね、」と話を続けた。


「ん?」


「何も一生会えなくなる訳じゃない。真島くんと凛ちゃんとは、いつでも会えるけど、佐伯くんとさっちゃんにだって、会おうと思えば会える」


 どこか満足気にそう言い切る美結。確かに彼女の言う通り、外国に行く訳じゃない。ちょっとした距離だ。それを承知しているからこそ、彼女は一人で大学へ進学するのだ。


「新藤さんの言いたい事は分かったよ」


「本当? それなら良かった。佐伯くんに分かってもらえると嬉しい」


「うん。頑張って」


「ありがとう。頑張るよ、私にはこの高校時代に作れた土台があるからね」


「土台?」


「そう。“心読み”の事を一緒に考えてくれた土台。それがあるから平気。少しくらい辛くてもなんて事ない」


 “心読み”に完全に依存していたあの日の美結はもういない。直哉は彼女の言葉を聞いて、心から安心した――。

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