「第4章 夏夜のアスファルト」(3-1)
(3-1)
美結の“心読み”を救う最大のチャンスを自らふいにしてしまった。
その事実は家に帰ってから、どうしようもないくらい直哉を後悔させた。
やはり、嘘でも協力すると言えば……いや、バレた時のリスクを考慮すると、あの選択は間違っていない。そんな事を考え続けた。
一晩、ぐっすりと眠ってようやくその気持ちが少し落ち着いたところだった。
翌朝になって直哉はいつものホームで美結を待っていた。大丈夫、これまで通り、上手くやれる。自分自身にそう言い聞かせて、美結の到着を待つ。
「おはよう、佐伯くん」
「ああ、おはよう。新藤さん」
美結はいつもと同じ時間に来てくれた。彼女の顔を見ると、安心と後悔が両方押し寄せてきた。彼女は直哉の顔を見るなり眉を潜めて、首を傾げる。
「どうしたの?」
「え? 何が?」
直哉が尋ねると、美結は「……ううん。何でもない」と笑って首を横に振った。そして、彼女がいつものように右手を伸ばす。それに彼も手を伸ばした。
“心読み”の確認作業をしている間は、今朝の朝食の事だけを考えていればいい。余計な感情は心の深い所に鍵をかけておく。直哉はそう意識した。
手を繋ぎ数秒、時間を置く。
「うん、大丈夫」
“心読み”が機能している事を確認した美結が直哉から手を離した。
「良かった。ところで小説の方は順調?」
「うん。そっちも大丈夫だよ」
司にちらつかされた解決法よりも自分達で掴んだ手掛かりを大事にしたい。
「きっと小説が完成すれば、“心読み”も元に戻る」
「ありがとう。必ず完成させる」
美結と約束を交わして直哉は彼女から離れて改札へ向かった。
その後も美結との確認作業をしていく日々は過ぎていく。危惧していた彼女の友人達からは何も言われなくなった。上手い事言ってくれたのだろう。毎日、朝と放課後に握手をする。朝の時には必ず小説の進捗を確認して、彼女もそれに順調だと答えた。
きっと小説が完成さえすれば、何もかも解決する。
直哉は勝手にそう信じていた。
――季節は巡り、梅雨が過ぎて夏がやって来た。
ジメジメとした空気が一変して猛烈な暑さに襲われる。半袖に衣替えをして、ずっとワイシャツをパタパタと扇ぐ。気温は三十度を超えていた。
そんな夏が始まってからの、とある朝。
いつもように直哉がホームで美結を待っていると、彼女からLINEが届いた。
【ゴメン。寝坊しちゃった。間に合わないから先に学校に行って。本当にゴメン】
【了解。じゃあ、また放課後に】
直哉がメッセージを返して、人の流れに戻る。美結が遅刻? 今まで一回だって、遅刻した事なんてなかった。直哉が一回、風邪で休んだ事はあったが、それぐらいだ。珍しい事もある。
しかしまあ、本人が遅刻だと言っているのなら、あのまま待っていたら、自分も遅刻してしまう。直哉は学校へと向かった。
「あれ?」
教室のドアを開けて、そこに映った光景に直哉は思わず、声を漏らした。彼の視線の先には、椅子に座って友人達と仲良く談笑してる美結の姿があったのだ。
遅刻と言っていた彼女が自分よりも早いなんてあり得ない。狐につままれたような気分で自分の席へと向かう。
「よう。どうした?」
「あ、いや。何でもない」
隣の席の真島に聞かれて、何でもないと答えて席に座る。けれども、まだ納得出来ず彼に尋ねる。
「あのさ、今日新藤さんって。真島より早く来てた?」
「新藤さん? えっと。……ああ。俺が来た時にはもう、来てたと思う。一人で席に座ってたよ」
「一人?」
直哉が聞き返すと、真島は何て事ないように「ああ」と頷いた。
「あの二人は、お前が来るちょっと前に来たんだよ。何でそんな事を聞くわけ?」
「えっ? あー、何となく?」
理由を上手く用意していないまま尋ねてしまったので言葉を濁しながら返す。直哉の言い方に「はぁ?」と首を傾げた真島。
「まあ、とにかく教えてくれてありがとう」
「……おう」
半ば強引に会話を終わらされて若干腑に落ちない表情をしつつも真島は納得する。いつもなら、もうちょっと彼のフォローをするのだが、あいにくと今の直哉には、そこまでの余裕はなかった。
遅刻すると言っていた美結が、自分よりも早く来ていた。それもいつもの友人達を置いて一人で。朝のホームで生まれた謎が段々と大きくなっていく。
可能なら今すぐ美結の席に行って事情を聞きたいが、それは出来ない。ここは放課後まで我慢するしかない。
そう自分に言い聞かせて、直哉は今日一日の準備を始めた。
一日の授業が過ぎて、放課後になる。
いつものように階段前の踊り場に向かっていると、珍しく美結が先に到着していた。彼女はiPhoneを触っていたが、直哉が来た事が分かると、「あっ、」と言ってスカートにしまった。そして、手を合わせて彼に向かって頭を下げる。
「佐伯くん、朝はゴメンね」
「全然大丈夫。でも、俺が教室に行った時は、もういなかった?」
向こうから出した謝罪を受け入れてから、疑問を口にする。一体、どういう経緯で今朝の状況になったのか、知りたかったのだ。
聞き終えてから、自分が変に緊張しているなと自覚する。直哉の質問を聞いた美結はケロッとした顔で答えた。
「そうなんだよねぇ。絶対に間に合わないと思ってたのに」
「……そ、そっか。結果的に遅刻していないなら、いっか」
「うん。いいんだよ。さあ、始めちゃおう」
美結は笑顔でそう言い切って、右手を前に出した。彼女が何をどこまで考えているのか。直哉には何も分からなかった。互いに右手を繋いで、数秒。そして、「うん」と満足そうに頷いて彼女は手を離した。
「今日も大丈夫。それじゃあね。佐伯くん、明日こそ朝からやろうね」
「ああ」
直哉の返事を微笑んで返してから美結は階段を駆け降りていく。その様子はどこにも不自然がない。むしろない方がおかしいと思えてしまうくらい。
今朝の一件は本当に遅刻するかもと思ったからで、深い意味はない? そう思わせてしまうくらいの力が彼女の雰囲気からは知っていた。
翌朝も美結は待ち合わせ場所に来なかった。
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