「第4章 夏夜のアスファルト」(2-1)

(2-1)


 緊張している直哉は、自然と背筋が伸びて座っていた。その緊張が彼女にも伝わっていたらしく、運転席からクスクスと笑い声が聞こえた。


「そんなに緊張しなくても大丈夫。楽にしてちょうだい」


「はい。ありがとうございます」


 口でそう言ってもすぐに緊張は解けない。直哉はそれらを維持したままシートに背中を預けた。高級そうな皮張りのシートは、彼の体を優しく包み込む。


「そうやってリラックスしてくれると私も助かるかな」


「あはは」


 彼女の言葉に下手くそな愛想笑いで返した。


 美結の母親らしく二人で話すと、彼女を纏う空気の性質が似ているのが分かった。しかし、似ているだけ同一ではない。直哉が自分に言い聞かせていると、彼女が謝罪する。


「ゴメンね。待ち伏せなんてしちゃって。佐伯くんとお話がしたかったの」


「どこかで話すんですか、喫茶店とか?」


 直哉がそう尋ねると、「いーや」と否定する声が聞こえてきた。そんな細かい言い方まで美結に似ていた。


「あまり人前したい話じゃない。だから悪いけど車内でいい?」


「いいですよ」


 人前でしたくない話。そこから連想される話は、直哉の中では一つしかない。自然と目線が彼女の手元、革手袋へと向かってしまう。


「ありがとう。あらためて挨拶させて下さい。新藤司です」


「佐伯直哉です」


「直哉くんカッコいい名前だね」


「ありがとうございます」


「でも、私の司って名前もカッコいいでしょ?」


「はい。カッコいいです」


 司の言い方に直哉はつい、笑ってしまう。そのせいでせっかく維持していた緊張が殆ど解けてしまった。


「そうでしょう。さて、お互いに自己紹介も終わったところで、本題に入りましょうか」


「はい」


 緩められた緊張が他ならぬ、司自身の手で戻されていく。その高低差が直哉には辛く感じた。


「佐伯くんは、美結の“心読み”について知っているの?」


「……はい。知っています」


 “心読み”の件は隠していてもいずれバレてしまうだろう。直哉が言わなくても美結から話すかも知れないし、たとえ二人が言わなかったとしても司に見抜かれてしまいそうだ。 


「そっか。知ってるんだ」


 そう言う司の口調は、道端に黒猫が歩いているのと同じような感覚だった。


「どうして知っているかは――」


 直哉が答えようとすると、司が「いいよ」と言葉を遮った。


「どういう経緯があって、佐伯くんが“心読み”を知ったのかは聞かないでおく」


「ありがとうございます」


 司からの優しさを受けた直哉は、今日一番の心がこもった礼を言った。


そして同時に司は、美結の事を心配しているのだと分かった。


「あの子の“心読み”が私達家族にどんな影響を与えたのかも知ってる?」


「いえ、そこまでは」


 先週の土曜日にその話をすると名目で集まったが、最終的には聞けなかった。


 直哉の返しに司は浅く息を吐く。


「まあ、当然か。聞きたい?」


「はい。お願いします」


「分かった。でもあんまり聞いていて、気持ちの良い話じゃないから。そこは覚悟してね」


「はい」


 直哉が了承すると、司は説明を始めた。


「美結に“心読み”があると分かったのは小学校四年生の頃、彼女は手を繋いだ人間の心の中を青い文字として読む事が出来た。その力であの子は、夫の浮気を見抜いたのよ」


「……っ」


 上手く返せずに吐息だけが口から漏れる。それに対して司は「変に相槌とかしなくて大丈夫。そのまま聞いてくれたらいいから」と言って、説明を続けた。


「家族でリビングで寛いでいる時にお父さんの一番好きな人ってだあれ? 


美結がそう聞くと、夫はお母さんだよって答えた。でも、“心読みに嘘は通じない。


すぐに嘘だって見抜いて、三崎さんでしょ? って言った。


その時のあの子の顔は、自慢気だったなー。隠してる秘密を暴いて、得意気になったのよ。実に子供らしい」


 そう言って、一拍置き、「だけど」と続ける。


「夫は、まさかそんな事を言われるなんて夢にも思っていないから。


信じられないって顔で固まっていた。そりゃそうよね。バレる訳ないって思ってたんだから。そして、その矛先はまず私に向けられた。


子供をだしに使って聞くなんて! 恥を知れ! って怒鳴られた。私はそんな事、知ってる訳ないから、はあ? って答える。


そこからはもう怒鳴り合い。結婚した時は、子供の前では絶対に喧嘩しないようにしようって言ってたのに全部パー」


 司からの話を聞いている直哉は当時を想像して、息苦しさを感じた。美結の何気ない告白から始まった展開。


高校生の美結はどう受け止めているのだろうか。


「そこからは割とトントン拍子に進んでいった。夫と離婚が決定して私は結婚前の仕事に復帰。苗字は新藤になり、二人で暮らしていたの。


でも、私はあの子の手と繋ぐ事が出来なくなってしまった。あの子と手を繋ぐと、自分でも分からない心の中を覗かれてしまう気がして、怖いの。親なのに情けないでしょう」


「いえ……」


「ううん、情けないのは本当だから。結局私は、あの子と素手で握手が出来なくなってしまって、お互いに暮らせなくなった」


 そう言って、車は交差点を左折して、大きな幹線道路に出た。少しスピードが上がる。それは司自身が忘れたい何かを吐き出しているようにも見えた。


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