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 リクが死んでから、半月ほど経過した。

 あの日から、僕と鈴子さんは付き合っていた。

 携帯電話を持ってしばらく何も操作せずに、待受画面を見つめていたが、それも飽きてきたので観念して電話をかけることにした。

 二回ほどコールすると、声が響いた。

「文人! あんた、大丈夫やった?」

「うん、元気だよ」

 叔母に電話するなんて、自分から話がしたいなんて思ったのは何年ぶりだろう、考えても思い出せないので、多分初めてなのだろう。

「文人から電話とは珍しいこともあるわ」

 叔母の声を聞いてもイラつかなかった。自然な対応をしている自分が、どこか不自然だった。

「ニュースでやってるわよ、あんたの学校どうなってるの?」

「あの死んだ二人、あ、校長先生、以外の二人ね、友達だったんだ」

「そう」叔母はしばらく間を置いた。「それは大変やったね」

 叔母はそれに関して触れなかった。気を使ってくれたのだろう。叔母はこういう時に気が利く人間だったのか。初めて叔母の人格が見えた気がした。

「ありがとう」

「何か言いたいことがあったら言いなさい。お金出すから」

 何かとは、転校のことを言っているのだろう。金銭的な余裕はないはずなのに。そのことを考えると、ふと一人暮らしをしている自分が申し訳なくなった。

「大丈夫だよ。僕は転校せずに、もうちょっとこっちでやってみようと思ってるんだ。最近ずっと学校休んでたんだけど、明日からまた登校するつもり」

「それがええわ」

「ありがとう」

「ありがとうって、あんた何言うてるの? 変やなあ?」

 叔母は泣いていた。

「叔母さん、なんで泣くの?」

「あんたが、ありがとうなんか言うから……」叔母はしばらく泣いていた。僕は馬鹿だ。今更になって叔母のことを知ったのだ、僕がどれだけ叔母に迷惑をかけてきたのか、叔母にどれだけ嫌がらせをしてきたのか知った。「今日はあんた変よ?」

「ごめん。ちょっとナイーブになってるかも、今度帰るから」

 このは、今までのことに対する謝罪だった。

「ううん、構わん。今日電話してくれただけで来週はがんばって生きていけるわ」

「そうなの?」

「うん」

 本気で肯定していることが良く分かる、コンピュータに言葉を認識でもさせるかのような、聞き取りやすい日本語だった。

「あのさ、叔母さん、僕のこと好き?」

「当たり前やろ、何を今更」

「そう」僕は過去を思い出した。「そうだよね」

「そうや」

「ねえ、なんで僕のこと好きなの? 昔はその、僕のことをいじめてたよね……」

 叔母さんはしばらく時間を置いて、だけどちゃんと答えてくれた。

「うーん、そうやね、最初は嫌いやった。なんで私がこんな知りもせんやつの面倒を見んといかんかと、納得いかんかった。けど、ある日突然好きになった。なんでやろうね」

「不思議に思わない?」

「不思議、うん、そうやね不思議やね。でもそれだけやね」

「それだけ?」

「そう、不思議なだけ。好きになってから、あんたが成長するたびに幸せになった。たとえ理由が不思議でも本当に幸せやった。今も幸せやね。あんたの事が嫌いなままやったらこんなに幸せにならん。その不思議なのも、気が利く不思議やね」

「気が利く不思議ね……」

「そう、理由なんて無い。あるほうが邪魔なくらいやね」

「叔母さん良い人だね」

 僕の本心だった。過去は過去、今は今。叔母さんにありがとうと言えるように、こんなに簡単になるなんて。

「もう」叔母さんは笑いながら怒った。「あんたまたからかって、今日はどうしたの?」

「なんでもない、また電話するね、次帰ったら、おばさんのハンバーグ食べたいななんて」

 

 

 

 昔のことを思い出した。

 叔母が僕を殺そうとした夜のことだ。

 僕が小学校一・二年の頃だと思う。何かにかけて叔母は僕に難癖をつけていた。だから僕は家に帰るのが嫌だった。

 理由なんてどうでもよかったのだろう。僕の行動すべてが、叔母が僕をいじめる理由だったのだ。腹を立てる理由を、叔母はきちんと述べていたがそれを口にするたび、理不尽になるのだろう。

 僕はついに家を飛び出した。

 しかし、小学生だった僕にどこかあてがあるわけではない、結局のところいつかは家に戻らなくてはいけない。だけどそれをなるべく引き伸ばすため、公園のブランコに座っていた。

 夏だというのにやたら寒く感じたのを覚えている。

 ブランコだったのがまずかったのか、ブランコの音が夜には住宅街に響き渡り、それが間接的な原因となって、警察の方にお世話になることになった。

 あの時、「帰りたくない! イジメられる!」とでも言っていれば、また今と違う現状があるのかもしれないが、僕はおとなしく警察に説教され、家まで連れていってもらえることになった。

 叔母は警察との対応はしっかりしたものだったが、警察がいなくなると、当然態度を変えた。おそろしい言葉を僕に浴びせた。

 具体的な内容を覚えているわけではないが、二文字に要約すると「殺す」と言った。

 それが冗談ではないことがすぐに分かった。そもそも冗談と思う瞬間なんて無かった。すぐに叔母は僕の首元に手をやった。

 置換された。

「こんな夜に、どこをほっつき歩いていたの?」

 叔母は僕を抱きしめた。

 見たことも無い笑顔だった。

 初めて見た、叔母の笑顔に僕は憎しみを抱いた。

 置換された。

 ”殺す”は”愛す”に。

 それ以降、叔母を憎んでいた。

 叔母は言ってくれた、今は幸せだと。

 

 

 

 次の日、叔母に言ったように僕は登校した。

 事件のことを考慮してくれるようで、単位はなんとかしてくれると担任の先生は言ってくれていた。

 気遣ってくれているのもあるだろうが、学校側も転校が相次いだせいで、これ以上生徒を減らしたくないというのが本音だろう。

 担任はどうやら、僕が殺したとは思っていないようだった。

 男子だけのクラスも、二人転校していた。クラスメイトは誰もその件に関して何も言わなかった。山田でさえ、事件のことに関して聞いてこなかった。

「うぇーい、女ほしー」

 みたいな意味不明な言動をほふく前進しながら言っていたので、僕に配慮してくれているのかは怪しかった。

 夕部は心配してくれていた。僕が休んでいるノートを取ってくれていたようで、ノートを一冊渡された。そこには休んでいる間の、全ての授業の内容がノートにまとめられていた。元々ノートなんて取らないので、本当にありがたかったが、このノートを使ってどうやって勉強をするのかを知らなかったので、あまり意味が無いのは申し訳ない。

「あの文芸部の女の子はどんな感じ?」

 昼休みになると、夕部が聞いてきた。

「鈴子さんのこと?」

「そうそう、答えたくなかったら別に良いんだけど」

「うーん、どうだろう、今は落ち着いているみたいだよ」

「そうなんだ、大変なんだね」

 それ以降、その話題は打ち切られた。

「ところで、珍しくお弁当もってきたと思ったら、なんでハンバーグしか入ってないんだ?」

「今日の朝、おばさんから大量に送られてきたからだよ……」

「なんだそれ……」

 鈴子さんとの関係については何も言わなかった。僕らが付き合うことを人に言うのは、良くないような気がした体

 山田は相変わらず、やたら靴下が臭いと叫んでいた。

 これがまた、排水口の裏の汚れみたいな匂いがした。

 

 

 

 放課後、久しぶりに文芸部室に顔をだした。

 鈴子さんはもう座って本を読んでいたが、僕が席に入ると近づいてきて抱きついた。抱きついた背後の手で、ドアをそっと閉めると、そのまま唇を重ねた。

「やっと来てくれたんですね」

 唇を重ねるまでの動きには無駄がなかった。彼女が目を閉じていることに気がつき、僕はやっと目を閉じた。

 それを終えると、それぞれ席についた。

 一つだけ誰も座っていない席があったが、花を飾られていたりはしなかった。写真も無かった。第三者が見れば、椅子が一個多いなくらいの感想しか抱かないだろう。

 彼女は小説ではなく新書を読んでいた。タイトルを見ても内容の見当もつかない、新書である意味を自ら消し去ってしまったようなタイトルだった」

 僕も適当に本を選んだ。

「ねえ、先輩」

 鈴子さんが本を置く。

「はい」

「文芸部、今学期末までになるらしいです」

「そうなんだ」

「二人になっちゃいましたからね」

 もうこの文芸部にはリクはいない。鈴子さんと二人なら、別にこの教室でなくてもいい。部活動は三人未満になったら即廃部という校則があったはずだが、さすがに先生達もそれなりに考慮してくれたようだ。

「そっか」

 別に未練は無かった。

 読書の時間が減ってしまうのも悲しいが、それは家でもできることだ。家で読書をしないのは、僕の問題である。他にめぼしい活動があったわけでもない。

「別に私も、先輩も一人暮らしですし、ここじゃなくても良いですよね」

「ああ、うん、そうだね。文芸部室じゃなくても、どこでも会える」

 彼女は嬉しそうに頷いた。

「先輩、今度の日曜日暇ですか?」

「うん、暇だよ」

「じゃあ、デートしましょう!」

 彼女は名案を思いついたとばかりに提案したが、実際はだいぶ前から考えていて、口に出せなかったのだろうと、態度から読み取ることができた。

「いいよ」

 付き合っているのだからデートくらいしてもおかしくないだろう。別にやましいことでは無い。

「えへへ……何せ私、彼女ですからね……」

 うれしそうだった。

「ああ、でも、できることならば人と接さないような場所がいいかな、理由は言わなくても分かると思うけど、さらに言えば女性が少ない場所ならいいけど」

「そうですね」鈴子さんは少し考えた。「それなら、商店街でウィンドウショッピングとかどうでしょうか?」

「商店街は良いかもね」

 人と接したくない為に商店街をデートに選ぶというのは、一般的には変なのかもしれないが、住んでいる商店街は、他の地方都市の商店街の例に漏れず、訪れる人が減り続けていた。

 それを、商店街の人たちは、近所にできた大型スーパーのせいにしているらしい。

 排他的な空気を醸し出す店や、衛生面において明らかに問題がありそうな店などがあるのをなんとかしてから考えたほうがいいと思うけれど。

「でもなあ」

「何かダメですか? 一応私も、先輩がなるべく人と接さなくてすむように誘導するつもりですよ」

「いや、それはうれしいけど、ウィンドウショッピングってなんだろうって思って」

「何でしょうね。買い物をかっこよく言っただけじゃないです?」

「ウィンドウってなんだろ」

「窓じゃないですか?」

「え、窓買うの?」

「買いませんよ?」

 

 

 

 デート当日になった。

 待ち合わせ場所は公園は、以前鈴子さんとリクとで待ち合わせした公園だった。鈴子さんは、すでに時計台の前に立ち、雛鳥のようにあたりを見渡していた。携帯電話の時計を見ると、待ち合わせの十時よりもまだ十五分ほど早かった。

「あ、先輩」

 鈴子さんがこちらに気がつく。相変わらずの黒尽くめで、黒いシャツに、黒いスカート、そして赤と黒のストライプのニーソックス。それに赤いネクタイをしていた。黒と赤以外の布が肌に合わないのかもしれない。

 鈴子さんは全身をジャンプしてこちらを向いた。スカートがふわりと浮いた。ああ、そこは黒でも赤でもないんだ、とかいう下品なことは言わなかった。思いはしたけれども。

「先輩、まだ十五分前じゃないですか」

「お互い様だよ」

「それもそうですね」

 鈴子さんが微笑んだ。

 貧乏な高校生同士のデートにふさわしく、徒歩で商店街に移動した。

「あ、先輩見てくださいこれ」

「なにこれ?」

「何って、どう見てもカブト虫じゃないですか」

 鈴子さんが指さした方向には、小さな虫かごがあった。その中には、カブト虫が平然と木の切れ端に張り付いていた。

「こういうが好きなの?」

「どうでしょう、カブト虫が好きか嫌いかなんて考えたことも無かったですけど、でも嫌いではないですね」

「ふーん、そういうものなんだ」

「そういうものです」

「じゃあゴキブリとかも好きなの?」

 鈴子さんは綿菓子みたいな溜息を付いた。

「先輩とのデートって、なんか違いますよね。デートって感じがしないっていいますか……」

「他の人とのデートは?」

「したことないんで分かりませんけど……」

「じゃあ、違うかどうかなんて分からないよ」

「デート中にゴキブリの話題を出すのが一般的なんでしょうか……?」

 ウィンドウショッピングと呼称した買い物は終わった。二人とも何も買わなかった。当然窓も買わなかった。

 ようするに結果だけ言うと、今日は無駄な一日だったというわけだ。

 最後にどうしても寄りたい場所があると言うので、そこに向かうため、並んで歩く。

「先輩、今日は楽しかったですか?」

「うん、楽しかったよ」

 無駄な一日だったが、それでも楽しかった。

 無駄に終わったからといっても虚無感があるわけでもない、一回目のデートで分かったことは、デートというのは無駄を楽しむものだということだ。この楽しみを無駄と思わなくなると、二人がもっと進展したということになるのだろう。

 進展。

 僕らは進展するのだろうか。

 鈴子さんの感情はどこまでが作られたものなのだろうか、置換によって作られても楽しいものは楽しい、そう叔母から聞いたとき、嬉しかった。

 叔母も鈴子さんも僕を殺そうとした。

 本来の結果とは、ほぼ真逆の結果になっているのだから……

 僕はそこで思考が途絶えた。

「先輩!」

「どうしたの?」

「もう、聞いてくださいよ」彼女は僕を小突く。「先輩は、ここに来るの初めてですか?」

「うん、そうだね」

「そうですか、私は何度も来ました」

「ごめん」

 謝ってみたものの、ここに来るのが正解とはとても思えなかった。彼女は持っていた小さいバッグから、せんべいを取り出した。

「これ、リクが好きでも嫌いでもなかったせんべいです」

「じゃあなんで、それを選んだの?」

「リクと初めて出会った時、これをもらったんです。好きでも嫌いでもないからあげるって、その時、言ってたんですよ」

「それは、変だね」

「私も思いました。けどリクは言ったんです。好きなもの人に渡すくらいなら食べるし、嫌いなものを人に渡すほど性格が悪くないつもりって」

 変なエピソードだと思った。エピソード自体変だったし、学校にせんべいを持って来てた点も変ではあるが、一番変なのはリクという人間自体だと言える。

 しかし、それはリクが魅力的な人間という意味ですらある。

「あ、先輩やっと笑いましたね」

「そうかな?」

「そうですよ、今日なんてずっと、しなびたA4用紙みたいな顔してましたよ」

「とりあえずお母さんとお父さんに謝ってほしいレベルの罵倒をもらった気がするけど」

 とりあえずそれを持ってきた理由はなんとなく理解できた。鈴子さんはせんべいを置くと目を閉じた。

 このような時の決まりごとというものを知らなかった。

 だから目を閉じて、リクに一番伝えたかったことを言った。

 別に伝えたからと言ってどうにかなるわけでもない、それどころか実際に伝わるはずなんてないのに、それでも、どうしても言いたかった。

「ごめん」

 リクの墓は何も言わなかった。

 

 

 

「先輩、聞いて欲しい話があるんです」

 広い墓地には僕らしかいない。夕暮れが徐々に迫りつつあるが、まだ墓場を怖いと感じるような時間帯にはなっていなかった。

 墓には和泉陸空と書かれてはいなかったが、ここに彼女が形を変えて、物質的にこの中に入っているのは間違いないはずだ。

「なに?」

 鈴子さんの目を見た。直線上に鈴子さんの後ろから、墓を見ていた為、ちょうど真正面に鈴子さんが立っている状態になった。会話をするには少し距離が短すぎる気がしたが、動かなかった。

「先輩はリクのこと好きですか?」

 唐突だったが、これはもう実際に質問されたこともあるし、誤魔化しようもなかった。

「うん」

「今でも、ですか?」

 これも少し考える。考えたのは今でもリクが好きかどうかではなく、どう答えるのが一番正しいのかについてだった。

「正直に答えてくださいね」

 鈴子さんの注釈をうけて、正直に答えることにした。

「うん、好きだ」

「よかった」

 嬉しそうだった。リップクリームのように薄く、透明な笑顔だった。

「よかったの?」

「はい! 今はもう好きじゃないとか答えたらどうしようかと思いましたよ」

「どうしようと思ったの?」

「それはまだ考えて無いですけどね」

「考える手間が省けたね」

「先輩」鈴子さんは眉間を小突いてきた。「私は、リクの次でいいです」

「リクの次? ああ、そういうことか」

「私にとってもリクの次です。二番目です」

「優先順位の話ね。ピョーだったっけ?」

 鈴子さんは呆れたように、整った眉を八の字にした。

「もしかしてキューのことですか?」

「あれ、そうだっけ?」

「そうですよ。だから先輩も二番、私も二番お互いそれでいいんじゃないかなって思うんですよ」

「お互いが二番ならバランスが取れているのかもね」

 確かに男女で付き合うというのは、バランスさえしっかりしていれば成功するのかもしれない、お互いに一番でなくても良いだろう。現にお互いが妥協してできたカップルなんてたくさんいるだろう。きっとそれはバランスが良かったからなのかもしれない。

「そんなわけないよな」

 自分で自分を誤魔化すのにも限界があった。

「先輩……」

「まだ無理かも、でもそう思える日が来るかも」

 それが僕の、精一杯な答えだった。

「そうですね、ありがとうございます」鈴子さんはどことなく寂しそうに頭を下げた。「私は妥協策でもいいんです」

「そういう意味じゃ……いや、うん、こちらこそありがとう」

 鈴子さんが僕を包みこむ。今までで一番強い抱擁だった。クレーンゲームのクレーンのように、動作と力がアンバランスな抱き方だった。

「私、素敵なアイデアを考えたんです」

「なに?」

 鈴子さんは、素敵なアイデアを説明した。

「ね、素敵なアイデアでしょう?」

 説明を終えた、鈴子さんは自信満々に言った。

 僕は頷いた。

 とても画期的で革新的で斬新で、そして最低に卑屈なアイデアだった。

 そうか、そんなこと考えもしなかった。

「でも、それは、とても実行できそうにない」

「今はそれでいいんです、でも、私は先輩といつでもその選択肢を実行できます。だから、その選択肢があることを忘れないでください」

「うん」

「次のデートでは、香苗さんのお墓に行きませんか」

「ああ、そうだね、香苗さんとも謝りたい。

「あっ……」

 鈴子さんが、口から息をもらす。視線の先には一人の女性が立っていた。

「あんた達、どういうつもり?」

 花を数本持ち、目を丸くしてこちらを見ていた。

 彼女がそんな驚いた顔をしているところを見たことが無かった。僕が知っている彼女は、縦横無尽という単語が紆余曲折して、偶然人の形に落ち着いたような、そんな人物だったからだ。

「栗野さん」

「あんた達まさか……」

 彼女は絶句した。何をそんなに動揺しているのだろうか?

 僕らの会話を聞かれたのだろうか。

 いや、それは無い。そんなに大きな声でもなかったし、距離から考えても、会話が聞こえるとは思えない。

「何を言ってるんですか? 墓参りに来ただけですよ、それが何か問題なんですか?」

「よくもそんな白々しいことが言えるわね」彼女は僕を睨んだ。今日は横に柿地さんがいないのが影響しているのか、対応が露骨だった。「あんたが殺したんでしょ」

「違います。そっちこそ、なんでこんな場所に?」

「あんたと一緒よ、墓参り。陸空さんのね」

「リクの?」

「そうよ」彼女は、睨んでいる瞳を少しだけ地面に対して水平にスライドさせた。「妹の親友だったからね、お世話になったの」

 いつの間にか、横の鈴子さんは俯いていた。

「お姉ちゃん……」

 鈴子さんは言った。

「お姉ちゃん?」理解が遅れてしまう。「お姉ちゃんって……」

「今度は、鈴子を殺す気?」

 栗野さんは少し、怯えていた。

「違うのお姉ちゃん!」

 鈴子さんは叫んだが、その言葉によって栗野さんが反応し、花を乱暴に置いてこちらに歩み寄った。

 花はバラバラになってしまった。墓に供えても結局はそうなるとは言え、少し悲しいなと思った。

 鈴子さんの目の前に来ると鈴子さんが後退りをしたが、手首をつかまれるとすぐに動くのを止めた。

「なんでこいつといるの? 説明しなさい、鈴子」

「お姉ちゃんには関係無いでしょ! 離してよ!」

「じゃあ、あんたが説明しなさいよ」

 今度は僕が標的となった。

「鈴子さんとは同じ部活なんです」

 仕方なく説明しようとしたが、それも途中でできなくなってしまった。鈴子さんは僕に口づけをしてきたからだ。

 彼女は唇を離してこう言った。

「こういう関係なんです」鈴子さんは七並べに勝ったような、無邪気な声で言った。「お姉ちゃん。私、先輩と付き合ってるんです」

 しばらく間があった。

 その間、鈴子さんが何を考えていたか分からなかったし、栗野さんがどれほど僕を憎んだかも分からなかった。

「そう」栗野さんはこちらを睨む。「あんたが何を考えているか知らないけど、鈴子を殺させはしない」

「殺さない」

 反論した。

 彼女は何も言わず立ち去った。

 立ち去る姿を眺めていたが、その姿が見えなくなると、無残な状態になった花を片付けて、帰ることにした。

 

 

 

 どんな楽しいときでも、どんなときでも、それは不意に思い出す。

 リクのこと、香苗さんのこと。

 悲しくなったり、リクとの会話を思い出して楽しくなることもあった。そして、決まってむなしくなってしまうのだ。

 それでも鈴子さんの前で、リクや香苗さんのことを話題から意図して避けるようなことはしなかった。

 リクも香苗さんも、共通の友人・知人なのだ。

 頻繁に話題に出すし、鈴子さんだってリクの話題を振ってくることが多々ある。

 鈴子さんの部屋は、あれフォークの事件以来久しぶりだった。

 部室に行く機会も少なくなっていった。今日は、彼女の部屋にお邪魔させてもらい勉強会をすることになった。と言っても、参加者は彼女と僕だけなのだけど。

 一応は勉強会というていどうせなので、山田と夕部を誘ったのだが、

「アホか、お前はやたらと黄色いフンドシか」

 と、よくわからない罵声を浴びせられてしまった。一応反論すると、僕はピンクのトランクスを愛用している。

「二人仲良く勉強会するのに、わざわざ邪魔しに行く人なんていないよ、山田は嫌味だと思っただろうね。悪いね」

 夕部もそう言って断った。

 どうやら鈴子さんの仲は、誰にも公言していないにも関わらず、広まってしまっているようだ。

 勉強会と言っても、学年も違うので教えあうようなこともないのだが。

「あのさレジ」

「はい、どこか分からないところがありましたか?」

 彼女はノートから顔を上げる。ノートには、綺麗な時で学習範囲の要点がまとまっていた。

 一応僕のほうが学年は上だけれども、教えてもらうことのほうが多く、なんだか申し訳ない気持ちになってしまう。

「いや、分からないこと、と言えば分からないことだけど、なんでこの学校選んだの?」

「もう、そんなの、先輩がいたからに決まってるじゃないですか」

「本当に?」

「本当です、先輩が来年から男子校に変わるって話を聞いたとき、初めて先輩が同じ県に住んでることをが分かりました。さすがにあそこまで急に共学化する学校って、他に無かったですからね。だから私も先輩と同じ学校に行ってみたいなって」

「あ、そっか。じゃあリクと香苗さんは誘ったの?」

「誘ったわけじゃないんですけど……、二人に気になる人がいるからその学校を選ぶって言ったら、二人がついてくるって言ったんですよ。香苗はちょうど学力が良い感じだったんですけど、リクはちょっと……」

「ああ」

 リクの行動や言動をいろいろと思い出す。

 確かに成績優秀という感じでは無かった。

「でも、リクは本番に強いタイプだから、なんとかなりました」

「なるほどね」

「先輩とリクがキスした時、まさかこの人が先輩とは思わなかったんですよ」

「いつ分かったの?」

「それは先輩がチャットで、ぶつかったって話をしたじゃないですか」

「ああ。そうか、じゃあ文芸部に入ったのは、僕を?」

「それは偶然でした。名前も知らなかったから。リクと文芸部の先輩を呼びに行った時、初めて気がつきました」

「あー、だからリクは背後に立ってたんだ。え、あれ、やっぱおかしい? なんで背後に立ってたの?」

「打ち合わせだと、謝る予定だったらしいですよ。キスした次の日とか、私は欲求不満だったのかもしれないわ、滝に打たれてくる。とか言ってましたよ」

 堪えきれず笑った。リクの万華鏡のような性格なら、そんな発言も納得してしまう。鈴子さんも笑った。

「先輩、私なんであの時泣いてたかわかりますか?」

 あの時というのは、リクに自分の置換を打ち明けた時のことだろう。その日のチャットで、彼女は泣いていたと言っていたし、次の日、目を腫らしていた。

 少し考えたが、これも分からなかった。人の感情の理由なんて分かれば、普通の人ならば人間関係で苦労しないだろうな、と思った。

「分からない」

「それは、先輩がリクを泣かしたからですよ。私、先輩を諦めてたんですよ。髪を切った時のこと覚えてますか? 優先順位の一番と二番がお互い幸せになれる。そう思って身をひいたのに、なんだか悔しくなって……」

「ごめん。あとさ、次で最後なんだけど」

「最後って、何がですが?」

「いやその、休憩中の会話」

「あ。そうでしたね、勉強しなくちゃいけませんよね。じゃあ次が最後の話題ってことですか?」

「うん」

 深呼吸をした。胸が高鳴るのが分かる。

「あのさ、僕を殺そうとしたこと覚えてる?」

 鈴子さんはこちらを向く。彼女は表情を変えずに、首を横に振った。

「明確には覚えてません。けど、知ってます」

「知ってる?」

「はい」

 彼女は立ち上がると、勉強机の棚からノートパソコンを取り出し、僕が座っているテーブルまで戻ってくると、電源を立ち上げた。

「これです」

 彼女はディスクトップのアイコンをクリックした。テキストファイルのようで、そこには「私は今日、先輩を、瀬村文人を殺しにいきます」書いてあった。

「なにこれ」と聞いたが、少し考えるとすぐに分かった。「ああ、なるほど」

「そうです。あの日、帰ってパソコンを開いたら、これを書いたことを思い出したんです。何がどうなってるんだろうって思いましたよ。殺しに行こうって思ってたのに、帰ったらその人と付き合うことになってるなんて、でもすぐ分かりました。先輩が置換したんだなって。ナイフも無くなってましたし」

「うん、ごめん」

「もうー」鈴子さんはめずらしく唸った。「なんで、すぐ謝るんですか?」

「なんだろうね、癖かも」

「じゃあ直してください」

 口調が、少しだけ、リクに似ているなと思った。

「僕に対する気持ちが、不本意なものって分かった時、どう思った?」

「不本意じゃ無いですよ。私は先輩に対する気持ちは変わっていません。先輩を殺そうと思ったのは間違いだったとは思っていますけど」

 鈴子さんは、しっかりと答えた。

 でもそれは置換されたからではないのか、そう思っている気持ちも不本意なものなのではないのか?

 叔母が言ってくれたように鈴子さんも今が幸せだと言ってくれるだろう。

「先輩、私のアイデア覚えてくれてますか?」

 

 

 

 試験は無事終えた。

 期間だけの意味ではなく、成績に関しても問題が無く終了した。クラスで三九人中二十位という成績だったのだ。これは一年次のクラス順位の平均を大きく上回る結果となった。卒業さえできたら良いと考えていた僕も、今回の順位は嬉しかった。

 学生としては健全な忙しさが終えたので、久しぶりに携帯から見たワンセグを見てみたが、魅力的なもの番組は無かった。ワイドショーをつけてみても、リクのことも香苗さんのことも、校長のことも何一つ触れなかった。つまり水道高校に関しての話題はもう旬を過ぎてしまった。風化してしまったのだ。

 他者から見れば、奇怪な事件だっただろう。しかし、何一つ発展を見せない事件でもあった。警察による捜査が進むはずが無い事件なのだ。

 こうなってしまうと、報道することもなくなるだろう。

 報道しなければ、人々の記憶からは風化されてしまう。

「忘れる、か……」

 いつかリクのことを、忘れてしまうのだろうか。

 携帯電話が鳴り響く、知らない番号だった

「もしもし」

「こんにちは、柿地です」

 

 

 

 柿地さんの要件は警察に来いというものだった。

「明日は月曜日なんですけど」

 無駄な反発をしてみたが、学校側には説明しているということで呼び出された。

 せめて休日だったら良かったにと思ったが、休日を警察で潰すとなると、さらに理不尽な気分になるだろう。要するにいつであろうと警察に行くのが嫌だった。

 取調室はドラマなんかで見る部屋とだいぶ雰囲気が違って、明るい部屋だった。小奇麗な机があったが、電気スタンドは置かれていなかった。ドラマで見るような汚らしくて小さい部屋では、何かダメな理由でもあるのだろうか。

「で、なんですか?」

 柿地さんと会ったことはあるものの、会話をしたことが無い。柿地さんは何も言わないし、こちらも柿地さんにわざわざ話しかける理由も無かった。

「事件の整理で呼ばせてもらいました」

 柿地さんは低い声で答えた。なんともアバウトな理由である。そんな理由で警察に学生を呼んで良いのか。

「森川さんは、今別の部屋にいます」

 柿地さんは、質問に先回りするように答えた。

「そうですか。今更何も話すことなんてありませんよ」

「分かっている。すまない」

 柿地さんは深々と頭を下げる。栗野さんとは異なるベクトルにやりにくい人だ。柿地さんにとって、僕みたいな高校生相手に丁寧に対応するメリットなんてほとんど無いはずなのに。

 基本的には、何度も聞かれたことを、また聞かれただけだった。

 人間関係に関しては、少しばかり込み入った話も聞かれたが、結局のところ僕とリクが実際に付き合っていたわけでもないので、答えようの無いものばかりだった。

 香苗さんに関しても聞かれた。これは、正直に鈴子さんにチャットで呼び出されたと正直に答えた。ただ、香苗さんが急に呼び出してほしいと鈴子さんに頼んだ、と口裏をあわせている。

 結局、学校に行くことなく夕方になった。

 一応早く終わった時の為に、制服で来るように言われていたのだが、結局無駄に終わってしまった。僕が終わると、鈴子さんが待っていた。

「カツ丼くらいでるかと思ったんですけどね」

 鈴子さんが冗談を言うと、自分の冗談が面白かったのか、笑いを堪えるように口元を抑えた。

 

 

 

 次の日。

「お前は三連休という名の稲妻か?」

「なにそれ」

 意味不明な質問文からスタートした。まさか稲妻かどうか質問される日がくるとは思わなかったが、基本的に山田の質問文は三回に三回くらいのペースで意味不明なので気にしないことにした。

 今更、一日休んだくらいでは授業は何一つ変わらなかった。

「三連休羨ましいなー、なんで休みだったの?」

「ああ、ちょっと体調が悪くて」

「そうなんだ、はい昨日のノート」

 夕部からノートを渡される。どうやら今回も律儀にノートをとってくれていたらしい。

「ありがとう」

「あ、そういえばさ、今日も部活行くの?」

「行くつもりだけど、どうして?」

「ううん別に、ちょっと気になっただけ」

 放課後になると、僕は部室に向かった。もうすぐ部室が使えなくなってしまうので、今のうちに堪能しようと二人で決めていた。

 鈴子さんはすでに文庫本を読んでいた。外国のファンタジー小説のようだったが、タイトルは主人公の名前だけというシンプルさの為に、内容はまったく分からなかった。

「原点回帰ですよ」

 ファンタジー小説は、彼女にとっては原点らしい。僕も家から持ってきた文庫本を読みだすが、集中力が続かず、ぼんやりと文庫本を眺めていた。

「先輩はファンタジーを読んだことありますか?」

「指輪を捨てにいくやつくらいなら」

「あれって、いいですよね」鈴子さんは目を瞑った。「特に、火山に捨てに行くって発想が好きでした」

「発想?」

「そうですよ。なんか夢がありませんか? 私も家にある恥ずかしい本とかを、火山に捨てに行こうかなって思う時ありませんか?」

「うーん、無いなぁ……そんな発想が無いというより、恥ずかしい本が無いから……」

「ずいぶんと不健全ですね」

「どっちかというと健全だと思うけど……」

「でも、きっとファンタジーみたいな世界は、いつ開けるか分かりませんよ。今日から新しい生活が始まるかもしれませんね」

「だとしたら嫌だね……」

 僕はため息をついた。

 リクにも香苗さんにも悪いけれども、僕はなるべく静かにすごしていきたい。鈴子さんが僕を理解してくれるというのなら、二人でずっと、ゆったりと過ごしていきたい。

「先輩、そろそろ帰りますか?」

「あ、うん帰ろうか」

 時計を見るともう七時になっていた。文化部はそろそろ帰宅しなければいけない時間帯だ。

「ん?」僕は違和感を覚えた。「なんか変じゃない?」

「変、ですか?」彼女は手鏡を取りだし、自分の顔をまじまじと見つめた。「えっと、すみません、何が変ですか?」

「いや、レジに違和感があるわけじゃないけど」

 ここでやっと違和感の正体が分かった。静かすぎるのだ。いや静かなんてもんじゃない、無音とすら言っていいかもしれない。

 聞こえるのは耳鳴りと、鈴子さんの声だけだった。

「静かってことですか?」

 鈴子さんも気がついたようだ。耳を澄ませている。確かに微かな音は聞こえる。蛍光灯の音、隙間風の音もはっきりと聞きとれる。だが、それらの音がはっきりと聞き取れるほどに、校舎は静まり返っていた。

 運動部の掛け声も、廊下を走り回る音、それらがすべて聞こえない。

「おかしいですね」

 鈴子さんは不安そうに頷いた。

 違和感は意識すれば意識するほど徐々に大きくなる、まるでこの部屋だけが世界から切り離されてしまったのではないか、そんな気さえしてくる。

「先輩……」

「ちょっと見てくるね」

 部室の扉を開ける。音がやかましく感じた。

「あんたらのせいか」

 違和感の原因とまではいかなくても、そこに違和感の正体がいた。多分こいつらのせいなのだろう。

 二人の女性のうち、一人は片手をあげた。

「や」

 最小限ここに極まり、みたいな挨拶だった。

「栗野さん……」

 そこには栗野さんと柿地さんの二人が居た。

「お姉ちゃん」

 背後から声がした。当然のことながら鈴子さんだ。僕の肩から、顔だけをだすように背伸びしていた。鈴子さんと手を繋ぐと、そのまま電気も消さずに廊下にでた。

「なんですかこれは」

「なにって、あなたを逮捕しにきたの」

 栗野さんはいつもと異なり、目を少しだけあげてその他は比較的無表情だった。デパートのマネキンのような表情だった。

「逮捕って、一体僕らが何をしたって言うんですか?」

「僕ら、ですって?」栗野さんの視線が僕に突き刺さる。「鈴子を勝手に巻き込むなよ」

 静かな校舎に、栗野さんの声が響き渡る。

 この時、静かな理由に気がついた。鈴子さんも気がついたようだ。

「誰もいない?」

 鈴子さんが、あたりを見渡す。

「そう、人が居ないの。昨日のうちプリント配布したの。これね」

 栗野さんは胸ポケットからプリントを取り出した。視力はあまり良いほうではないが、そのプリントに書いてあることはだいたい見えた。

 捜査に協力をお願いします。と書かれていた。

 下には、僕たち瀬村文人と森川鈴子に感づかれないように、静かに帰れという内容だった。

「なんですかそれ」

 ふと今日のよそよそしい夕部を思い出した。知っていたのだ。僕が今日、逮捕されるであろうことも。山田も。

 ああ、そうだったのか。

 悔しくなった。

 友達に裏切られた。

 いや、いくら友達だとはいえ、逮捕される友人を助けるなんてことはしないだろう。

 それでも悔しかった。

「なんで、今日なんですか? 昨日、警察署で逮捕すれば良かったんじゃないですか?」

「できればそうしたかったわ」栗野さんは、視線を逸らした。「でも、それじゃ証拠が無いわ」

「証拠? そんなものあるわけ無いじゃないですか! 言いがかりですよ」

 柿地さんは栗野さんに紙を渡した。複数枚の紙が、クリアファイルに詰まっていた。

「これなんだか分かる?」

 その紙に書かれている単語はすぐに理解できたが、それが何を意味しているか理解するのにしばらく時間がかかった。

「それは」横の鈴子さんが代わりに的確な単語で答えた。「チャットログ……」

 そうだ、あれは鈴子さんのチャットによるやりとりが明確に記されていた。ログとして残っていたのだ。

「どこからそれを?」

 僕は栗野さんに聞いた。自分でも驚くほど声が枯れていた。口の中で唾液がやけにまとわりつく。

「鈴子が居ない間にね」

 栗野さんは鈴子さんのほうに視線をスライドさせる。手を握っていないほうの手には、鞄を握り締めていた。

「そんな」

 彼女の綿菓子みたいに可愛く小さな声は、さらに小さくなっていた。このやけに静かな、校舎でなければ聞き取れなかっただろう。

「他にもあるわよ」栗野さんはもう一つ、クリアファイルを取り出した。「これは何か分かるかしら、鈴子」

「それは」鈴子さんは首を小さく振った。「私の日記がなんで……」

「日記?」

「そう、鈴子の日記よ。どこかに公開するわけでもないのに、ひっそりと書き連ねていたのよ、律儀なやつでしょ。まだ書いてたとは思わなかったけどね、やけに鮮明に書いてくれているわね。置換だって。ほら、結局あんたが殺したんじゃない」

「違う!」

「殺してないとでも思ってるの? あんたより愉快犯のほうが人を殺したという意識がある分まだマシね。あんたは棚から自分のポケットに商品が落ちるのを見て、万引きじゃないと平然と出ていけるの?」

「何が分かる、僕が苦しんで無いとでも思ったのか!」

「思ってないわ、ただ、苦しんだから人を殺したの許してくれ、なんて言われても、私には納得がいかないだけ」

 僕は言葉に詰まると、代わりに鈴子さんが口を開いた。

「お姉ちゃん、でもそれが証拠なの? それなら、こんな場所に呼び出す必要ないよね、それにそんなの、私の妄想かもしれないし、それにもっと言えば、そんなのどっかのホームページからコピーしたものですって言えばいいんじゃないの!」

 鈴子さんが叫んだ。語尾が強調されていたのでかろうじて叫んだと分かっただけで、声自体にパワーは感じられなかった。

「そうね」

 栗野さんは諦めたように言った。柿地さんも俯いてしまった。

「だから、あなたに人を殺せる能力があるということを証明しなくちゃいけないわね」

 栗野さんの背後から気配がした。暗いにも関わらず、服が全体的に黒がかっていたので、判断するのに時間がかかってしまったが、警察だった。三人ほどいた。

 いつの間にか背後にも三人いる。さらに目の前の二人を合わせると合計八人になる。

「先輩?」柿地さんが呟く。

 僕らだけでなく、柿地さんにとっても予想外の事態だったらしい。

 栗野さんは柿地さんのほうへ振り向くと、柿地さんの両肩を両手でつかんだ。

「あんたはよく見てなさい。あんたが逮捕するよの。あ、あと、今までありがとう」

 この状況でなぜ、そんなことを言うのか理解できず、それを見る事しかできなかった。

「柿地、そこにカメラがあるわ」

 栗野さんが、廊下の上の方を指さした。そこには昨日までは無かったであろう、いや、昨日設置したと思われる小さなカメラがあった。

「じゃあね」

「どうしたんですか、カメラがあるからなんだって言うんですか?」

 僕は強気な声をだそうと努めた、その声はとても力強いものにはならず、作り方を間違えた紙ヒコーキのように、すぐに失速して消えてしまいそうな声だった。

「決まってるじゃない」彼女は笑っていたが、口だけしか笑っていなかった。「今からあなたに告白するのよ」

「お姉ちゃん、やめて」

「構わない」栗野さんが溜息をついた。「構わないわ。これであなたが私を殺した、実行犯になるわ。例え法的な証拠にならなくても、チャットログと映像さえあれば、あなたを追い詰めるきっかけになれば。あなたは私の、私の先輩……自分の母親を殺したのよ」

「僕のお母さんを知っているんですか?」

 母が、警察の人だったことは知っていたが、なぜ、栗野さんが母の人柄まで知っているのだろうか。

「あの人は心中なんてするような人じゃなかった」

「お母さんを、知ってるんですか?」

「あの人は心中と言われてるけど、あなたのお父さんを殺したあと、自分の首を切って死んだのよ。そんな死に方がありえる? でもやっと結論に近づいたわ。あんたのせいだったってね」

「それは……」

 当時のことを覚えているわけでもないのに、否定できなかった。

「お姉ちゃん、お姉ちゃんの言いたいことは分かったけど……こんなことが本当に証拠になるの?」

「証拠、法的根拠は無いかもしれないわね。でもいいの。まったく見当が付かなかった事件が、やっとここまで、犯人を追い詰めることができたんだもの。言ったでしょ。例え、法的根拠がなくても、これが何かの起爆剤になればいいし、この映像があれば、例え警察が動かなかったとしても。何らかの方法で、追い詰めることができるでしょう。それをやるのは、あなたよ、柿地」

「やめてください先輩!」

 柿地さんが叫ぶ。

「やめて、お姉ちゃん!」

 鈴子さんが叫ぶ。

「ごめんなさい、勝手言って。でも、これが私の使命みたいなものだから」栗野さんは深呼吸をした。「さて、無事に告白できるでしょうかね!」

 カメラを意識しての発言だろう。

 栗野は拳銃を取り出した。

 栗野さんの瞳は泣いていた。

 置換した。

 “告白する”は、”自殺する”に。

 拳銃は頭に接すると、すぐに大きな音を立てた。

 栗野さんは死んだ。

 

 

 

 僕も鈴子さんも、警察も。

 ただただ立ち尽くしていた。

一人だけ、柿地さんだけは、栗野さんのそばで座り込んで泣いていた。

 ただ、栗野さんは死んで、無残になっていた。

「お姉ちゃん……」

「栗野先輩……栗野先輩……」

 しばらく泣いていた。柿地さんと栗野さんの関係は、いったいどんな関係だったのだろう。そして僕はそれを壊したのだ。僕が殺したのだ。

 柿地さんはこっちを振り向いた。

「無駄にしない」柿地さんは立ち上がる。

 周りの警察官が徐々に距離を詰めるのが分かる。

「そうまでして……」

 僕を逮捕したかったのか……赤く流れる彼女の血液を見て、僕は絶句した。

 彼女が正しかったのかどうかは分からないけれど……

 今更警察から逃げる気はおこらない。

「分かりました」

 もう、観念した。

「先輩」

 鈴子さんの声がかろうじて耳に届いた。

「ごめん」

「え?」

 置換した。

 ”逮捕する”は”殺す”に。

 柿地さんが僕を殺そうとする前に対応できた。動くことができた、彼女は血まみれの拳銃を僕に向けて、発砲した。

 しかし、他の人達には何が起こったか分からなかったはずだ。

 多分、柿地さんが急に錯乱したように見えたのではないだろうか。

 銃口は僕を捉えきれていなかったらしく、遠くの窓ガラスが割れる音がした。

 殺すが、愛するに置換されない。

 どうやら置換された行動を、置換されたりはしないらしい。

「柿地さん! 落ち着いてください!」

 警察官は、柿地さんのほうへと進んだ。

 僕はもう動けそうになかった。

 怖い。

 とっさに動けたのは、瞬間的だったからだろう。

 殺されると分かっていて、アグレッシブに動ける人なんて、現実にはそう居ない。

 背後にいた警察官の一人が、僕と柿地さんの線分上に入ってしまった。それは、柿地さんが発砲した瞬間だった。

 柿地さんの目は狂気に満ちていた。

 銃声とともに、時間が止まったように思えた。

 警察官の一人が、倒れこむ。

 他の警察官の動きが止まった。

 その時、僕の手が何者かに取られる。

 鈴子さんだ。

 鈴子さんはさっきまで背にしていた方向に、僕をひいて走り出す。警察官は、柿地さんを抑えこもうとしている。

 誰も僕らを追う余裕が無い。

「殺してやる!」

 柿地さんの声が響き渡る。

 僕が、あの人を変えたのか。

 彼女の引かれるように走っていたが、途中から自分の力で走っていた。

 気持ちは焦っていたにも関わらず、また逃げたのか、という背徳感だけは冷静に僕を突き刺していた。

 じゃあなんだ、僕はあそこで死ねっていうのか。

 僕は生きたがりの臆病者なんだ。

 自分で自分の心を閉じ込める。

 今は生きたい。それが本音だった。

 多分ずっと、それが本音だったのだろう。

 背後から銃声が響き渡る。

「先輩! 振り向いちゃダメです!」

 鈴子さんも走り続ける。

「殺してやる!」

 柿地さんの声が聞こえる。

 校舎を抜け出し、学校を抜け出しても、僕らはまだまだ走り出した。

 柿地さんの声が聞こえなくなっても、ただただ走った。

 何も考えなかった。

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