2017.12.1 玉音②




 俺がどれだけ焦ったか、書き表すのは難しい。



 頭が真っ白になって、さっと血の気が失せる。心臓がどきどき言い始め、喉が乾く。そんな感じか。バレたらどうなるんだろう、とも考えた。世間に何もかも知られ、暴かれ、日本中のここと同じような街で、あることないこと言われ続けることを思ったら、胃液が源泉みたいに昇ってくるようだった。


「ちが、います」


 変に区切って言葉が出た。それが余計にそれっぽくて、さらに焦りが込み上げた。必死に目線を逸らしたが、おじさんはこちらをガン見し続けていた。

「ちょっと髪とか違うけど、君、そうなんだろ。菊芦さんとこの密軌くんだろう」

「でも、確かその人、亡くなったんですよね? 俺は、そんな。違いますよ」

「ほら、その声。間違いない!」

 やめろ。やめろ。

 大声を上げながら、おっさんは俺に詰め寄ってきた。俺はあんたなんか知らない。嫌悪とパニックが先に来て、追い払うのに適切な言葉が思いつかない。

「覚えてないか? 俺だ。■■おじさんの親友だよ。2歳くらいの頃、よくうちに遊びに来てたじゃないか」

 知るか。そんな昔の話。

「急に仕事が忙しくなって、全然会えなくなってなぁ。でも、■■からよく話は聞いてたよ。高校の卒業アルバムとか、大学の入学式の動画とか、見せてくれてさぁ」

「知りません」

 気持ち悪い。勝手に人の個人情報を回すだなんて。いくら親戚でもデリカシーがなさすぎる。

「だから君の顔、ちょっと見たらぴんときたんだよ。密軌くんって、他の兄弟よりちょっと目が垂れてて、まつ毛が長くて、口が小さいだろ? 特徴的だから覚えてたんだ」

 いやマジで死ぬほど気持ち悪かった。特徴的だからって人の顔そんなに細かく覚えるか普通……しかも他人の空似という可能性もまだあったのに、よくもまああれほど馴れ馴れしく。百億歩譲って菊芦密軌という人間を好いていたのだとしても、他の兄弟と並べば確実に見劣りする容姿の俺としては、「グループの中であえて地味な者を推すことで『他とは違う自分』に酔いたいだけのファン」みたいにしか思えず、良い気分になど到底なれない。結局俺のことより自分のことなのだ。

「人違いですよ」

 俺は何度もそう言った。言いながら、一歩ずつ後ずさった。だが、全く聞いていない。おっさんは自分のことばかり喋った。

「いやぁ、それにしても、なんだってこんなとこで掃除なんてやってるの。今どこに住んでるの。というか、よく無事だったね。ほんとに良かった。生きてて良かった。ね、誰にも言わないから、あの時何があったか、俺だけに話してごらん?」


 後ずさって、後ずさって。


 しまいには、埃の積もった嵌め殺しの窓のところまで追いやられた。ガタンッ——と窓際の棚が腰に当たって、派手な音が出て、上に置いてあった本が何個か落ちた。汚いおっさんの荒々しい息がかかるくらいに詰め寄られ、震える後ろ手で、必死に棚の上を漁った。冷たい刃先に手が触れた。箱を閉じる時の円いテープ。それを切るための、銀のハサミ。


 二つの楕円に指を通しながら、何か自分でも不思議なほど覚めた意識で、男の頭を見た。


 その時になると、もはや男の顔は、俺の胸元にほとんど埋められていて、髪の薄くなりかけた後頭部がよく見えた。「無事でよかったね」、「怖かったね」、「俺が守ってあげるからね」……そんな言語にもならないくぐもった言葉、老いた豚の鳴き声みたいな音が、己の胴体に震えとなって伝わってくるのがわかった。そんな振動も、熱も、上辺だけの優しい言葉も、全てはただこの一点——堅牢な頭蓋の箱に収められた、電気纏う細胞の塊。脆く粘着く脳の天井を刺し貫けば、泡と消える。この街、この地球、この宇宙。同じ意志はもう二度と現れない。少なくとも俺と、そして俺の大切な人の前には、決して現れない。そんなことだけを、じっと考えた。冷えた意識のまま。

 それで、いよいよハサミを振り上げたその時だった。


 俺は、信じられないものを見た。

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