2017.12.1 玉音③




 いや、それも少し違うか。正確には「見た」のではなく、「聞いた」の方が相応しいかもしれない。

 とにかくハサミを振り上げるのと同時に、さっと部屋が薄闇に包まれた。冬の厚い雲が太陽を隠し、まるで宵の口のような暗さの中、何かがカランと降ってきた。アセテート盤……無造作に積まれて一番高い棚の上に置かれていたのが、通り雨のように、何枚かぽつぽつと落ちた。積もっていた埃が舞い、わずかな光を反射して、きらきら輝く。星のようだった。


 殺せと言ってるのかもしれない。


 最初はそう思った。でも、次の瞬間、どこからともなくノイズが鳴った。最初は緊張で幻聴を聞いているのかと思ったけれど、違った。ふと見ると、壁の隅にラジオがあった。でもとうの昔に壊れて、物置に仕舞われ、誰にも忘れられた、動くはずのないガラクタだ。なのに、それは、じりじりと焦げるようなノイズを撒いていた。獣の唸り声にも、苦悶の呻き声にも聞こえた。

 その音に、おじさんもようやくハッと顔を上げた。それほどまでに異様な音だったのだ。おまけに部屋は静かだったし、暗かった。だから、そこから音楽が流れてきた時には、息を飲んだ。フランス語の歌だった。知らない歌だったが、聞いた感じだと童謡のような。そしてその歌の、どこか甘く懐かしい調べを聞いているうちに、冷静になった。殺しなんて、それこそまずい。隠しようがないじゃないか。

 ハサミを下ろしながらそっとおじさんの顔を伺うと、青ざめていた。何かこの世のものではない声を聞いたように、ぶんぶんと首を振り、こう言った。「あんたは死んだ。とっくの昔に死んだだろう」


 その意味は、今もってわからない。


 だが、おじさんは俺を突き放すように離れたかと思うと、憎悪の表情で古いラジオに掴みかかり、殴り始めた。狂気だった。まさしく。小さいラジオは成人男性の拳の一、二発ですぐ潰れ、倒れればさらに靴底で踏まれ、部品が割れてひしゃげた。それでも音は鳴り続けていた。「もう俺のものだ」と呟くのが聞こえた。

「もう、俺も、俺の家も、俺のものだ。お前のものじゃない!」

 その狂乱の隙に、俺は逃げた。ロビーで上の人に電話をかけて、事情を説明すると、すぐに回収してもらえた。ラジオのことは言わないでおいた。後々面倒だと思ったから。


 事務所に戻る車の中で、俺は少し質問した。

「なんで掃除とか、介護とか、そんな変な仕事ばかり回ってくるんですか?」

「不満を言うな。仕事が貰えるだけありがたいと思え」

「でも、こういう時って、もっと汚い仕事や裏の仕事をやらされるもんじゃ」

「黙れ。他人がわからないことを逐一お前に説明してくれると思うな。家族でもないのに誰がそんなことする?」


 事務所に戻ると雅火さんがソファでパソコンを開いていた。通販で服を見ていたようで、俺の顔を見るなり「大丈夫?」と言ってくれた。なぜ家族でもないのにそんなに優しいのかと聞くと、家族にだって冷たい人もいるんだから、赤の他人に優しくするのも別にいいでしょ、と微笑まれた。


 それから明日の仕事を休ませてもらうために、上の人に相談に行った。事務所にいたのは上重さんという人だけで、要件を伝えると「シフト変更は認められない」と言われた。

「自分の置かれた立場を考えろ」

「わかってます。そこをなんとかお願いできませんか」

 二十回ほどため息を吐かれたが、なんとか仕事の日にちを1日伸ばしてもらうことができた。その条件として、来週は休みなしになったが、知ったことじゃない。何をすべきかはわからないが、とにかく、湖に行くか、先生に相談するかしなくてはいけない。この事務所をあの日の夜の実家みたいにさせてたまるものか。

 


 

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