第9話泉の水

「シズ、良かった戻ってきたか」


シズが加見かみノ森を出たところに、宮司が立っていた。心配して見に来てくれたらしい。

「宮司さん、心配かけました。これ、この通り」

シズは泉の水が入った手桶をかかげて見せた。


「これが、変若水をちみずが溶けた水」

「はい」

シズはうなずいた。


 宮司の姿を見たことで安心して、張りつめていた気持ちが緩んだ。泣くつもりなんてなかったのに、勝手に涙が流れて頬を伝った。


「まずは、私の住まいへ、疲れたろう、何か用意させるので、食事をして少し休みなさい」

宮司はシズの肩を抱いて促した。


「ありがとうございます」

「ああ、シズの家へは、寝てしまったから泊まらせると連絡してあるよ」

 宮司はシズから桶を受け取ると、大切そうに掲げ持ち、先に立って歩き出した。



シズは宮司の家で軽い食事をご馳走になり、仮眠をとった後、宮司に付き添われて家に帰った。


「太平さんの具合はどうですか」

宮司が、寝ているシズの父親をのぞきこんだ。


 太平はまだ重篤には至っていないが、寝たきりで物が食べられないので、痩せ細った状態で布団に寝かされていた。

意識はあるのか、宮司の声に反応して薄く目を開けたが、言葉は出なかった。


「父さん、良い物持って来たのよ」

シズが桶から木の匙で水をすくって、父親の口元へ近づけた。

このままでは飲めないとあきらめた時、宮司が太平の体をそっと起こして支えてくれた。


「ひと口でいいから、口に含んでみるんだ」

宮司が言い聞かせるように言うと、うっすらと太平の口が開いた。

「飲んで」

シズは父の口に泉の水を流し込む。ほんのひとくち、口のなかを湿らせるくらいなので、なんとか飲み込めたようだ。


「これはね、加見ノ森の泉で汲んできた水なの。病気がよくなるわ。きっとよ」

シズが説明した。


「す、まな…… い……」

聞き取れないような弱い声ではあったが、確かに聞こえた。

「父さん?」


「あんた!」

シズの母親、トヨが思わず叫んで身を乗り出した。もう長いこと薄く目を開くだけで何の反応もなかった夫が、声を発したのだ。


「かならず良くなる」

宮司は確信したように言った。


 それから、シズは宮司に連れられて病人のいる家々をまわった。

加見ノ森の水だと聞くと、藁をもつかむ思いでいた家族は感謝してくれた。


一方で、胡散臭いと考えた者もいたのだが、万が一も良くなるのならと考えて、飲ませるのを拒否はされなかった。


 すべての家を回った後で、シズは森守かみもり神社の拝殿の前にいた。

「とおかみえみため、加見の森の神様、ありがとうごさいました」

ていねいに拝礼して柏手を打った。

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