04


 男子トイレを出る。

 女子トイレと、男子トイレの間の壁に女の子が立っていて。

 心君が「あ、乾ちゃん」と声をかけると、床を見つめていた顔を上げた。

 

「1か月も会えないの地獄だったよ~」

「同じ学校だったんだ」


 心君はやけになれなれしく乾に声を掛けていた。二人が中学校時代に知り合いだったことは心君から知っていたので、特に驚きはしなかったが、自分の存在を二人に無視されたような阻害感を瞬時に感じて、俺は黙り込んでしまった。


 乾の顔を初めて見るなと思いながら、二人の会話を聞いていると、心君が俺の両肩を掴んだ。


「あーごめんね。坂グッチ。乾ちゃんおっかけてきたの君なのに」

「あ、いや。二人って友達だったの?」


 俺は心君と乾に問いかける。


「俺は乾ちゃんのおっかけだよ。おっかけ以上になりたかった男」


 心君は俺の両肩を掴むと、「トイレの中で友達になった、乾ちゃんより先にね。いいでしょ」と言った。


「…えーと、誰君だっけ?」


 乾が俺の事を難しい顔で身ながら、名前を尋ねてきたので、「健太郎、坂口健太郎」と若干どもりながら答える。

 ああ、どこかの有名人みたいな名前で、でもどこでもありふれていそうな名前を口に出してしまった。からかっているのとか言われないか、急に心配になる。

 マジで健太郎って名前は多くて、小学校に同じ奴が3人もいた。

 中学に上がると5人に増えてたので余計にたちが悪かった。

 名前被りは苗字被りよりも大変だった。健太郎のあだ名はそこまで多くない。というか「健ちゃん」しかないので、結果的に「坂口」とそのまま呼ばれたり、「坂ちゃん」とどこかの幕末志士みたいに呼ばれる事が多かったなと思った。


 乾に自己紹介をしただけで、余計な事を何度も考えてしまった。


「…心君と一緒にいない方がいいよ。本当にしつこいし、私は諦めてほしくて志望校のランクをあげたんだけど、それでもついてきたから」

「えっ。乾ちゃんひどくない? せっかくここまでついてきたんですけど! 苦手な勉強して、スポーツ推薦蹴ってまでさ~」


 乾は心君をにらみつけた。されど、心君の饒舌は全然止まる気配がなく、俺は二人のかみ合わない会話を聞きながら、俺の自己紹介(名前)は無視されたのか、一体なんなのか、分からないでいた。

 俺に還ってきた返答は心君に対する警告で、なんで警告されたのか、それをなぜ心君は無視するのかよくわからないままでいた。


「だから、心君は教室に戻って」


 心君から俺を引き剥がすように、急に乾は俺のブレザーの裾を急に引っ張った。

 俺はその場で前かがみになるように態勢を崩され、前に足を一歩出す事もできないまま、床に顔を打ち付けそうになった。


 …そうになったという事は、実際に打ち付けた訳ではないという事で、別の何かが受け止めたという事だが、その正体は乾の腹だった。自分の腹で俺の身体を受け止めたのだ。

 乾がなぜそういう行動を起こしたのか、俺には理解できなかった。ただ、乾の制服越しの肉体の感触だけが顔に残っていて、俺は男子高校生なのだと思った。童貞には何もかも初めての感触だ。

 乾は俺の手首をつかむと、1-7と1-8の間にある階段へ俺を引っ張っていった。

 

 乾の冷たい手の感触と、その細い腕に見合わない程の力の強さに引きずられて、あっという間に心君から俺は引き合がされ、気が付いたら屋上前の踊り場についていた。


「心君。あなたを人質にして、私と話そうとしていたから引きはがしたの。」


 乾はそう一言いうと、階段の手すりにもたれかかってため息をついた。

 

「友達になりたいってどういうことですか?」


 乾が口を開いて、俺に質問を投げかけてきた。

 俺は初めて、乾の顔をまじまじとよく見た。首元まで伸びた黒髪は綺麗で前髪は目元を隠していて中の目はよく見えないはずなのに、覗く黒い瞳ははっきりと開いていて、睫毛はつけまつげをしているのかどうかわからないが長く伸びていて、強い目力を感じさせた。

 気が強いのか強引なのか分からないが、乾の性格にあった容姿だと直感的に思った。

 乾はあまり瞬きをしなかった。表情は硬いままで、何を言いたいと思っているのか顔をみただけでは分からなかった。

 体型は小柄で、160センチしかない俺よりも少し低い身長だった。

 だから、俺を見つめる目は少しだけ見上げる格好になっていて、首を上にもたげていたから、俺は、なんとなく目線を合わせる為に少しだけ腰を折った。


「いや、私の顔を見るんじゃなくて、答えてほしいんだけど」

「あ、ごめん、乾の顔を見た事がなくて」

「さっき檀上でみたじゃないですか」

「そうだね」

「うそつきですね」

「…そうかもしれない。あ、自己紹介面白かった」

「よかったです」

「あ、えーと」

「あなたもしてましたよね」

「とっさにまねてしまった」

「なんでですか?」

「あ、えーと」

「名前を言わなかったので、私と同じだなと思いました」


 …俺の名前を言わなかった所を真似られたと思われたらしい。

 俺は乾の質問攻撃になんとなく答えながら、話を続ける。


「私はあなたの名前を聞きました。さっき初めて。

 私の名前は誰にも言っていないのに、なんで乾ってわかったんですか?」 


 そんな、訳の分からない問答を何回か繰り返した。名前は配られたクラス名簿を見ればわかる事や、トイレの中で中学生の乾を知っている心君からなんとなく乾の話を聞いた事。自己紹介が終わってからクラスを見渡した時に、なぜか乾の事が目に留まって、「気が付いたら友達になろう」と言っていた事。その後、乾がトイレに行った後、おいかけないと一生友達になれない気がしたから、失礼を承知で追いかけた事。

 乾は頭の回転が速いのか、俺が何か言う前に言われる事を想定した答えを返してきて、その答えに訂正を加える事は中々できなかった。


 話す度に、乾の質問の意図がわからなくて、つまったり、なぜか謝ったりした。

 これは、会話なんだろうか。なっているんだろうかと思ってしまった。

 

 心君との会話は、若干怪しい所はあったけど、まだ会話になっていた。多分。

 

 俺自身は人と話せない人間ではないと思っているし、中学では男子女子関わらず、普通にそつなく日常会話をこなすことはできていた。いや、彼ら彼女らがどう思っていたのかは知らないが。


 なんだか、ほぼ初対面の女の子に怒られているような、でも別に本人は怒っている訳ではなく、気になった事を俺に聞いているような、言って仕舞えば「事情聴取を乾から受けている俺」みたいだなと思った。


「坂口は、話すの苦手?」


 無表情のまま乾は、スカートのポケットからスマートフォンを取り出すと、ラインのQRコードを見せてきた。


「友達になりたいんでしょ?」


 と言われて、「あ、そういうことじゃない」とか「いや、ちょっとなんとなく、興味がわいて」とか色々な事を思ったが、しかし、乾に言われた通り、俺は文章の方が心君にも邪魔されず、思った事を乾に伝えられると思ってしまった。


 ああ、友達になりたいといったのは、乾の顔がかわいいとか、声がかわいいとか、そういう話でもなく、ただ、なんとなく、流されるように、俺は乾と話がしたかったのだ。


「よろしくお願いします」


 今日初めて乾と会話が出来た気がした。

 乾が今何を思っていて、それは俺に対してどういった感情を持っているのか、なんて何も分からなかったが、喜んでLineの連絡先を交換した。

 

 生まれて初めて、自分から追加したいと思った連絡先に乾の名前が刻まれたことに、俺は自分で驚いていた。

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