いてはいけない人『うちに夫がいる』

N(えぬ)

夫の手はロボットの手より冷たくなったか?

 仕事帰りに足が重いヨシダ・ミサエは30才。1人暮らしを始めて半年になる。以前はマンションに夫と二人で暮らしていた。

最初の一年は実に楽しい、幸せな生活だったと記憶している。


 半年前のこと、結婚4年目に夫の不倫をミサエは知った。

夫はミサエが不倫が不倫を指摘すると、話し合いも何も無く不倫相手の女のところに行って、そのまま向こうに居ついてしまい、帰って来なかった。


 それ以来、ミサエは1人暮らし。


 夫リョウイチは某メーカーの営業マン。

その浮気の相手はミサエより3つ年下でタドコロ・ケイコと言う実業家らしかった。


 ケイコという女は、親に資金を出してもらって始めた商売が順調で、遊ぶ金にも事欠かない。

 リョウイチにも、


「どうせなら仕事を辞めて、私の仕事を手伝って」と言っているらしかった。


 それで、リョウイチはその気になったらしくケイコの所へ飛び込んで行って帰って来なくなったのだが、それでも営業の仕事は辞めずに勤めているようだった。


 このマンションは、去年購入したばかりで、ローンはまだ25年は残っている。

 今のところリョウイチは以前のとおりにローンの支払いは続けているし、生活費も銀行口座に入っている。

 ミサエも仕事をしているが、彼女一人の収入でマンションのローンを払い続けることは難しい。

 この状況をミサエは、まだ誰にも打ち明けていなかった。


「とにかく、悪いのは向こうなんだから、リョウイチも相手の女も、弁護士に相談して、こてんぱんにしてもらうワ」

 ミサエは最近しばしば独り言でそんなこと口にしていた。


 ミサエは仕事の帰りにコンビニに寄ると、弁当にサラダ、缶のチューハイを2本買った。前は1本飲めば満足だったが、最近はずっと2本かそれ以上飲んでいる。大した量じゃないかもしれないが、少なくとも量は倍になった。


 それに、自炊も減って、ほとんどこうして出来合の食べもので済ませるようになった。

 仕事をすることに集中していた。仕事が終わると、体が重くなり腑抜けのような顔をしていた。


「全部放り出して、実家に帰ろうか?」


 そう思うこともあったが、そのときに親がどんな顔をするだろうかと思い浮かべると気が削がれて消極的になった。


 マンションの前の通りに差し掛かったときだった。遠くに見えて来たマンション2階の自宅に明かりが点いているように見えた。

 ミサエはビクッとして足を止めて、身近の塀に沿って身を隠した。


 確かに自宅に明かりが点いている。

 見ていると、ベランダに人が出て来て、マンション前の道を伺っているように見えた。

 それは遠目でもリョウイチだとミサエにはすぐ分かった。


「連絡も無く、何しに帰って来たのかしら」


 ミサエは少しの間、自宅の様子を遠くから伺っていたが、リョウイチが部屋に入って窓を閉めた様に見えたので、また歩き出した。


「何かあたしに話があるって言うの?もしかして、あの女と別れて戻って来た?……冗談じゃ無い」


 歩きながらミサエ思案顔でチラチラと部屋のベランダの辺りを見ながら、何度か首を振ったりした。。


「好き勝手にして、何の用があって、こんな時間にうちに来るのよ」ミサエは、そう言った後急に、


「あっ……」と声を発して足を止めた。


「もしかしたら、私を殺しに来た?」


「まだ離婚の協議もしてないのに私を殺して排除しようなんて……考えすぎよね」。


 リョウイチは、もし離婚の話を切り出せば話し合いがこじれると予想して、

「手っ取り早く殺してしまえ」と思ったかも知れない。

 ミサエは、そんな不穏な想像を巡らしてゾッとした。


「そんな、ドラマみたいなことが、自分の身に起こたら、どうしたらいいの?」と呟いてうつむいた。

 そして、一度頭にそんな物騒な考えが浮かぶと、容易に消し去ることが出来なかった。



 ミサエの想像は概ね当たっていた。

 リョウイチはミサエを亡き者にしようとマンションに来ていた。

浮気相手のタドコロ・ケイコに、


「めんどくさい人には、いなくなってもらうのが一番ね」


 そうほのめかされて、ミサエを殺すことにしたのだった。


 ミサエを殺すと言っても、マンションの部屋でいきなりやろうとは思っていなかった。

「話し合いたい」とか何とか言って穏やかな雰囲気を作る。

 そうすればきっと、お茶ぐらいはミサエが出すだろう。

 もしそうならなければ自分が茶でも入れよう。


「そしてミサエにこの薬を飲ませる……」


 リョウイチはポケットに忍ばせた錠剤二つを握りしめていた。


「そこまで行けば、後はうまくいく」



 エレベーターを降りたミサエは自分の部屋の前に来て、改めてリョウイチが部屋にいるかもしれないということが、思い過ごしなのではという気もした。

そしてそれを確かめる方法を考えて、ドアの前で逡巡しているうち、肝心なことに気づいた。


「そうよ。うちにはセキュリティシステムが入ってるんだワ」


 部屋の前でバッグからスマートフォンを取り出し、自分が契約している警備会社のシステムにアクセスした。


「ええと。『今日、この部屋に入った者がいるか』『今、部屋の中に誰かいるか』……と」


 部屋の中に入るには、セキュリティシステムを通過しなければならない。したがって、これらのことを警備会社のシステムで照会すれば、一目瞭然と言うことである。


「ううんと……本日の入室者……私以外はナシ。現在の入室者……ナシ……か」


 ミサエは、さっき見たリョウイチの姿を自分の見間違えだったのかと胸をなで下ろした。


「もしかすると、隣の部屋を見ていたのかも」

そんな風に自分を納得させた。


 ミサエは、入室セキュリティの顔認証を受けると鍵がカチッと音を立て、ドアがわずかに手前にプシュッと押し出され開いた。


 そして中の様子をうかがう。

だがこのとき、ミサエはすぐに異変に気づいた、「匂い」がしたのだ。

「これはあの男の匂い」

そう。リョウイチの匂い。すぐにそう感じた。


 だが、セキュリティシステムは、

『部屋の中には誰もいない』と言っている。

ということは、さっきまでリョウイチがこの部屋にいたが、私が帰宅するのと入れ違いに帰って行ったと言うことか?


「それにしても、へんねえ」


 ミサエはドアをそっと開けて中を覗き込むようにしながら静かに一歩踏み込み、そこで家中の明かりを一端全て点灯させて、それから廊下へ入っていった。

 人の姿は見えなかった。

 怪しげな気配もない。


「やっぱり誰もいないのね。思い過ごし……」


 ミサエは、「もしかしたら、殺されるかも」という恐怖から解放された。

だが、その代わり、

「夫は帰って来ない。来ただろうけれど、わたしの顔も見ないで帰ったの」

そんなかすかな寂しさもあった。


 ミサエは、夫がさっきいたのかも知れないリビングに入った。

やはり誰もいなかったし、誰かがいた形跡も見て取れなかった。

さっき感じたリョウイチの匂いも、もう鼻が慣れたのか感じなかった。


 バッグをソファに投げ出すとリビングの窓を大きく開け放った。

外から入ってくる空気をまた冷たく感じた。

 ベランダに出て外を右に左に見やって、別にいつもと変わりの無い風景だと思い、中に入ってガラス戸を閉めた瞬間だった。


「よぉ、ミサエ……」


 ミサエは驚いて飛び上がった。

奥の部屋からリョウイチがおずおずと現れたのだ。


「い、いたの?」

「ああ。ちょっと話があって。……話し合わなきゃいけないことが、俺たちには沢山あるだろ?」

「それはそうだけど。連絡もナシに突然来ないで欲しいわ」


 ミサエはさっき確かめたセキュリティシステムの『室内に人はいない』という答えに戸惑った。

それとも、リョウイチはセキュリティをかいくぐって部屋には入れるのだろうか?


 リビングのソファにリョウイチと向き合った。

ミサエは、お茶は出さなかった。だからリョウイチは、自分で紅茶を入れた。

そしてミサエにも紅茶を勧めた。

 ミサエは、自分の前に置かれたティーカップを見つめた。

リョウイチがお茶を入れてくれたのは初めてだった。


 わずかな葛藤がミサエにはあったが、ミサエがティーカップを手に取った瞬間だった。

 ドアが勢いよく開けられ、複数の足音が怒濤の勢いで室内に雪崩込んでくる気配がした。


「ミサエ様、その紅茶を飲んではいけません!」


 一人の、人間の顔では無い者が、人で言えば目というのであろう部分を帯状に薄赤く光らせて、口という位置であろう部分からミサエに警告を発したのだった。

 それは、黒いスーツに身を固めた、グレーの金属感が凜々しいロボットだった。


「よし、この男を取り押さえろっ!」


ドドドぅ。

 重い固い足音が響き、後続の者が入って来た。

先頭を切って入って来たスーツのロボットとは違い、黒いタイトな上下にベストを着けた映画で見る特殊部隊の隊員のような格好のロボットが大勢、部屋へ突入してきた。


「く、くそぉ。なんだおまえら!」


 リョウイチはあっという間にロボット達に背後から左右から腕を取られて、後ろに引き倒され押さえ込まれた。


「確保しました!」


 誰かが報告する声が聞こえた。

 そして、リョウイチが暴れてなにか怒鳴り散らし始めた。


「チクショー。離せっ!」


 騒ぎ立てるリョウイチを一瞥したスーツのロボットは、相手のことばに気圧されることもなく冷静に言った。


「容疑者に鎮静剤を打って黙らせておけ」


 そう言うと、部下は即座に銃型の注射器をリョウイチの首の辺りにあてがいプシュッと薬剤を注入した。

 リョウイチは一瞬でグッタリと首から頭を後ろに反らしておとなしくなった。


「お客様。お怪我はありませんか?」


 そう言われてミサエはロボットの顔を見た。紺のスーツをビシッと着ている顔も手も金属的に鈍く輝くロボット。


「我々は、警備会社の特殊介入班の者です。お客様に恐ろしい思いをさせ、申し訳ございません。ですが不法侵入者は排除いたしました。ご安心ください。私は、特殊介入班リーダーのAR―231号です。どうぞよろしくお願いいたします」


「あはぁ。よろしくお願いします」


ミサエは、倒れそうに呆気にとられていたが、リーダーロボットに抱き支えられて、ソファに移された。


「ヨシダ様宅の警備強度は最高のA+に設定されております。そこで、危険を根本から排除するため、遺憾ながらお客様のご質問に対して、『部屋の中に誰もいない』とお答えし、容疑者が犯行に及ぶ寸前に、それを阻止し確保いたしました」


「リョウイチが、容疑者だって、どうして分かったの?この家の持ち主なのに」


「はい。あの方は、正当な理由無く6ヶ月以上帰宅なさっていませんので、自動的に動向監視リストに移動させていただきました。その上で、突然のご訪問は怪しいと推測されましたので、我々、特殊介入班が急行し待ち受けていたしだいです」


「そ、そうなの……」


 ミサエの目の前でグッタリしたリョウイチが警備ロボットに両脇を抱えられて引きずって行かれた。


「先ほどあの者がミサエ様に出した紅茶には薬物が混ぜ込まれていました。飲めば大事に至っていたでしょう」


 リーダーロボットは、まだ体の力が抜けて安定しないミサエを跪いて支えていた。


 そしてそこへ一人の隊員がやって来た。


「お客様、紅茶を淹れ直しました。お飲みください。落ち着きます」


 隊員はそう言って、ミサエの前のテーブルに紅茶を置いた。


「ありがとう」


 ミサエは少し放心していたが、紅茶を見て落ち着いたようだった。


 AR―231号の説明に寄れば、リョウイチの行為は全て録画されており、これを証拠に殺人未遂で警察に引き渡されるということだった。


「これで、何もかも終わったの……ねえ……ねえ、あなたは隊長さんなの?」


 紅茶を飲んだミサエはAR―231号に目を向けた。


「はい、そうです」


「隊長さん。わたし、怖いから、今夜ここで一緒にいてくれない?」


 ミサエは、隊長ロボットのスーツの袖を引き、幾分うつろな瞳で懇願するように言った。


「ご要望であれば」


 ミサエの前に片膝立ちでいたAR―231号は、そう言うと警備本部に任務完了の報告を始めた。



おわり

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