第3話 路面電車

 携帯の時計を見る。午後九時半を過ぎていた。向かってくる風は冷たく、街灯に照らされる人の表情も必ずしも楽しげな人ばかりではない。

 僕は路面電車で西の方へ向かうことにした。そうすればAの近くまで行くバスに乗り継げるはずだ。停留所で六分程待っていると電車はやってきた。普段乗る電車と比べてこぢんまりとしているが、電気を取り込むパンタグラフが木の幹のように電線まで伸びている。

 バスに比べるとかなり明るく感じる車内には僕を含めて十人程が乗っていたが、外から見ると小柄に感じた車体には、この人数を乗せても十分な余裕があった。沿線の質屋や病院、墓園の広告などが網棚の上に貼られている。大きな片側扉が閉められた後、二度甲高いベルを鳴らし、低い唸り声を上げながら動き出した。

 電車はすぐに左の急カーブをゆっくりと曲信号待ちのため停車した。窓の向こうには、さっき立ち寄ったK公園の入り口が薄っすらと映っていた。信号が青になると、次は坂道を登り出す。乗用車に追い抜かれながら、僕がさっき息を切らしながら登ってきた高さまで、力強く、ゆっくりと登り切った。

 公園側の停留所で二人乗客を乗せた後、電車は乗用車などと並走しない専用線に入った。窓の側で家の塀、マンションの壁が続き、灯りをつけた窓が目の前を流れる。それらがどんな形の建物で、どんな人が生活しているかわからない。僕は知らない。知らない場所、知らない世界を路面電車で走っているのだ。ただ、知らないものがあまりにも自分と近づき過ぎていた場合、知らない分だけ困惑してしまうものだ。あるいは反発してしまうかもしれない。暗闇の中に電灯とアスファルトの道、たまに見える呑み屋の光。

 電車はIに着くと客を四人下ろし出発した。ここまで来たら終点はもうすぐだ。横長の座席もまばらになってきたので僕も座席に座ることにした。

 僕は一息吐こうと、バッグの中にあったミントタブレットを一粒噛んだ。僕はよくこのタブレットを噛んだ後に清涼感が鼻に通ってクシャミをすることがあったが、この時も思わずクシャミが出てしまい、隣の席にいた人が僕の方を見た。もちろん口を押さえてはいたのだが、クシャミの声が思いのほか大きく出てしまったのだ。その時に電車はカーブに入り、レールと車輪が悲鳴というよりは不平不満を叫ぶような摩擦音を外から撒き散らし、窓越しに入り込んできたため、先程のクシャミのことなど我々の中でどうでも良くなってしまった。

 向かいの窓には流れる光を背景に僕が映っている。進んで自分から見たいとも思わない顔がくたびれた表情をして揺られている。何度も聞いたベルの音が二度鳴る。

「次は、R駅前、R駅前終点です」

ビルを着飾るネオン看板が主張すれば、オフィスビルがすました顔でどっしりと構え、この街の灯台のような役割で人が集まる駅ターミナル。先程とは打って変わって喧騒が喧騒を呼び、車も人も飲み込み、路面電車もその濁流の入り口で僕たちを降ろした。

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