第2話 冒険というにはあまりにも小さすぎる外出
電子レンジのチーンという音が鳴り、僕はスーパーで買った冷凍のパスタを取り出そうとするのだが、パスタの入った皿とレンジ内に充満する湯気で火傷しそうになるため、なかなか取り出すことができない。二、三分経ってやっと手に触れても大丈夫なくらいの温度になったので、恐る恐る未だ冷めない皿を手に取り火傷でこぼさないようにと、慎重にパスタの皿を机へ運んだ。口の中が火傷しない程度に冷めたカルボナーラをパソコンのディスプレイから流れる動画を観ながら頬張る。ディスプレイからは外国の一人キャンプの模様を延々と流している。僕はそれをたまに手を止めてじっくり観ることもあれば、カルボナーラのソースの中に残った刻みベーコンをフォークで刺して口に運びながら観る。画面の向こうではヨーロッパのどこかの湖畔で肉の塊を焼いている。こんな日々が続いてそう短くない時間が経つ。たまに旅行に行くのが趣味だが、ついこの間、近くの国へ散策しに行ったため、今は次の旅行のためにお金を貯める時期となっている。とはいえ衝動的に旅行がしたくなる瞬間があるのも事実で、そんな時が訪れると僕はどうしてもヤキモキする。行きたいのに行けないのが一番もどかしい。画面に映る動画では、鉄のフライパンで微塵切りにした紫の玉ねぎを炒め始めた。バターが溶けてフライパンから跳ねる音、紫玉ねぎをヘラで混ぜながら炒める音、そこに調味料や赤ワインなどを加え、さっきの塊肉のソースを作っているのだ。最終的にあらかじめ皿にのせた塊肉の上にグツグツ煮立ったソースをかける。ソースをかけられた塊肉はそれに音という形で応えるのだ。食べ終えたカルボナーラの皿をチラッと見た後、画面では調理をしていたおじさんが満足そうな表情をしながら塊肉を食らう。これはもう生殺しである。こちらとしては、食べ終わった皿の中から残ったベーコンの切れ端がないか探す賤しい行為をしながらこれを観ている。
この際食べ物はいい。知らない所へ行って散策がしたい。この気持ちが強まった。その時僕は、こんな考えがよぎった。
「今から近くで行ったことのない街へ向かってはみないか」
その行為からすれば悪魔の囁きにも似たアイデアであるが、予定も立てず、日付が変わらないくらいに帰ってこられるくらいの距離を条件に、バスなどで散策してみようということになったのが事の発端である。
ネットで調べてみると意外な場所へ行く路線を見つけた。しかも自宅から一番近いバス停からである。午後八時過ぎ、最低限の身支度を整え、僕は家を出た。
僕の住んでいるAは閑静な住宅街である。最寄りのバス停からは南北のターミナル駅への路線が走っている。時刻表を調べると夕方以降の恐らく仕事から帰る客を狙った別の路線があることがわかった。こちらも鉄道沿線の住宅街としては近年注目を集めていて、Dといった。数分程待つと、目的のバスがヘッドライトでこちらを照らしながらやってきた。まだ移動すらしていないのに、バスに乗った瞬間、もう足を踏み入れたことのない場所へ訪れた気分になった。車内の席は先客で埋まっており、僕は立たざるを経なかったが、外の景色を見るにはこちらの方が好都合なのだ。
バスが動き出すと普段歩くスピードで流れる景色があまりにも速く流れていく。前を通るだけで、中に入ったことのない八百屋。半年前に牛乳とレタスを買いに行ったスーパー。こんな時にはやたらと目立つ工務店の看板。動かないと見られない光の線と共に、気付けば自分の目の前から去っていくのだ。細い道を右に曲がるとバスは幹線道路を走る。もうここからは僕の知らない世界だ。暗くて建物の形もわからない。地名の記す看板も暗く走行している状態では見えにくい。僕にはそれでよかった。壁のないトンネルをひた走り、最後に抜けられればそれでよかった。
バスは終点のDの駅前ロータリーに止まった。駅前には五階建ての駅ビル、周りにも雑居ビルが立ち並んで電灯や看板の明かりで賑やかそうに見えたが、時間が時間なのか歩く人の量は少ないようだった。家族持ちも独身者もこの時間は夕食を食べ終えてくつろいでいるのだろう。閉店時間の早い飲食店は看板の照明を既に落としていたし、高架下の連絡路の明かりがこの場所のどこよりも明るく見えた。コンビニや牛丼屋などを除けば、町は皆閉める準備をしている。僕は少し散策するため、ロータリーの橋にあったD周辺の地図を見に行った。
恐らく、今ある駅の建物が建てられる前からある地図なのだろう。シールを貼って修正されているところもある。ここから川を越えて北東へ進むとK公園と呼ばれる公園、その途中に東西をつなぐ路面電車のホームがある。
僕がK公園へ向かう途中、僕とは反対方向へ歩く人たちがちらほらといた。恐らく家へ帰る人、バスに乗り換える人達だろう。
もう、あの出来事から四年は経つのにこの時間の人出は一行に戻らない。最近になって、やっとマスクは付けなくても良くなったし、それを見つけて自発的に取り締まっていた人達は別のことに関心を向けるようになっていた。ただ、前のころに戻ろうとせず、くさびのように深く刻まれた、あの出来事から試行錯誤しながら前進しようとしている。丘の上にあるK公園入口の、城壁にも似た木々が公園の電灯や周りの街灯でよりそれの黒い影を際立たせている。僕にはまだこの木々の影のように大きな壁とその向こう側にある何かが見えるだけで、どう前進すればいいのかもわからない。過ぎるのは時間だけなのだ。
公園へ向かう階段を、息遣いを荒くしながら一歩ずつ登る。途中を照らす街灯の橙色が、こんなにも自分を歓迎しないことがあるだろうか。普段ならこんな階段など何とも思わないものだったが、ほとんど橙色しか照らさない石段を眺めながら、公園にお前は引き返せと言われているようだった。やっとの思いで着いた丘の上には僕以外誰もいなかった。昼であれば、ベンチに座る人やジョギングをしている人、散策している人も見かけただろう。道を隔てて桜の木が茂っているだけで、野良猫すら見かけなかった。
丘の上から駅の灯りを見る。公園と比べてあまりにも眩しい光を浴びながら人々は移動する。
「もう、帰ろうかな」
僕は心の中でそう呟き、丘を降りた
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