第8話

「本当に。気をつけないと」

「そうだよね・・・」

 また、悲しそうな顔をしている。話題を変えよう。

「愚痴大会って言ってましたけど、そんなに今の仕事は大変なんですか?」

「そう、ね」

 かなえの表情が一層暗くなる。わかりやすい人だ、と思った。

「仕事の愚痴ってわけじゃなさそうですね」

「どうしてわかるの?」

 かなえが驚いて僕の方を見る。

「なんとなくわかりますよ。表情に出やすいみたいだから」

「そんなことないと思うんだけど」

 そう言いながらかなえは恥ずかしそうに膝に顔を埋めた。

「彼氏とね。最近うまくいってないの。初めて会うのにこんなこと言われてもだと思うけど」

「そうなんですか」

 余計なことを聞いてしまったかもしれない。

「かなえさんはどこの学部だったんですか?」

 僕は不自然を承知で必死に話題を変えた。暗いかなえを見るのが少し嫌だった。

「私?私は経済学部だよ。キミは?」

「あ、僕は工学部です」

「確かに!工学部っぽい!」

 かなえの雰囲気が和らいだのを感じて、少しホッとした。なぜかかなえの心の機微にいちいち気を取られてしまう。

「じゃあ、二年間は同じ校舎にいたんだね」

「そうなりますね」

「じゃあ、何処かですれ違っていたのかもねえ」

 確かにその可能性は高い。かなえに見覚えはないけど。

「お昼は学食でした?」

「うん。キミも?」

「はい、時々は。あんまり美味しくなかったですけどね」

 僕がそう言うとかなえは少しムッとした表情を浮かべた。

「私は好きだったよ?おばちゃんもいい人だったし」

「あ、失礼しました」

 僕は感想を間違えたなと思いながらおどけて見せたが、かなえの表情は変わらなかった。

「学食を食べたってことはキミの体にもおばちゃんのご飯が組み込まれているんだからね!」

「ほんと、そうですよねえ」

 慌ててかなえの意見に同調して、話題をかえる。

「かなえさんは卒業する時にここから引っ越したんですよね?」

「そうだよ?」

 普通の話題に戻るとかなえは普通の表情に戻った。かなえさんは表情がころころ変わって面白い。

「遠くへ引っ越したんですか?」

「うん、割と。職場に近い方がいいと思って」

 かなえの仕事を聞くと、僕も知っているほど大手の商社だった。勝ち組。確かにそこまでならこの部屋からでは流石に遠すぎる。

「この部屋に、そんなに思い入れがあるんですか?」

 テーブルの上に置いてあるかなえのキーケースを見つめながら言った。

「うん。ここ、居心地がいいでしょ?」

「僕の前の部屋と比べたらどこだって天国ですよ」

 ふざけてそういったけど、学校や仕事以外の時間はできるだけこの部屋で過ごしていたいと感じるようになったのは、この部屋に越してきてからだった。

「だからかな。私は引っ越そうと思わなかったし、ここから職場へ行こうかとも思ったんだけど・・・」

「さすがに遠すぎた?」

 かなえは「うん」と力無く頷いた。

「引っ越すとき、この部屋とお別れ会したの。彼と」

「愛着がすごいっすね」

 独特な人だなあと思って笑ったが、かなえは悲しい顔をした。そういえば彼氏とうまくいって言ってたっけ。

「キミは、彼女いないの?」

「僕、ですか」

 大学の時にはいたけどお互い本気というわけでもなく、卒業と同時に別れを告げられた。僕は「どうせまたすぐできるさ」と秀幸たちに豪語していたけど、悲しいことにそれ以来全く音沙汰はなかった。

「もしかして・・・」

 かなえはおずおずと言った。

「彼女できたことない?」

 僕をなんだと思ってるんだと苦笑いしながら「さすがに」と否定した。

「大学を卒業する時に別れて、それ以来です」

「そっかあ」

 かなえは「なんかごめんね」と言いながら、冷めかけたコーヒーを一口飲んだ。

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