第7話
僕たち二人の間には再び沈黙が流れたが、さっきまでの重苦しいものではなく、どこか優しげな雰囲気を帯びていた。
「かなえさんは、どうしてこの部屋を選んだんですか?」
僕は切り出した。かなえに対して口を開くのはもう苦ではなくなっていた。
「大学から近かったからかな。それに安いでしょ?」
かなえはさっきまでより少しくだけた雰囲気になった。僕にはむしろそれがありがたかった。
「ほんと、この間取りにしちゃ安いですよね」
事実、この近辺で1LDKでこの値段は奇跡みたいなものだった。金を貸してくれたヒデが「事故物件じゃねーか?」と言うほどに。
「キミはどうして?」
「僕も同じ。大学に近いから・・・」
「もしかして、すぐそこの大学?」
かなえは驚いた顔をしている。
「はい。もしかしてかなえさんも?」
そう聞くと、かなえは笑顔で頷いた。
「なあんだ。後輩だったのか」
かなえがまとっていた空気がさらに緩んだ。
「どうして三年生になって引っ越したの?」
かなえが不思議そうに首を傾げて尋ねてきた。仕草がかわいい。
「最初のアパートがボロいし、狭いしで」
「そんなに?」
「はい」
僕は以前住んでいたアパートの惨状を思い出していた。殺しても殺しても出現するゴキブリ。隣人が何をしているかが手に取るように分かるほど薄い壁。床は軋むし、建て付けが悪いのかドアもいちいち不快な音を立てて閉まる。駅からの立地は悪いし、周囲にスーパーやコンビニはない。僕がオーバーに力説するとかなえはクスクスと笑った。
「それは嫌だねえ。じゃ、更新を機に引っ越したのか」
「はい。賃貸情報サイトでここを見つけたっていうのも大きくて」
大げさに肩を竦めた。
「それにしても、かなえさんはどうしてまたこの部屋に来たんですか?」
僕がそう尋ねると、かなえは少し暗い顔をした。
「あ。まだ誰も入ってないと思ったとか!」
気を遣って明るく言ったが、かなえの表情は変わらなかった。
「それがね、覚えてないの」
「覚えてない?」
そう尋ねると、かなえは力無く頷いた。
「昨日の私、相当酔っ払ってたでしょ?」
昨日の出来事を思い出した。僕も相当酔っ払っていたが、かなえも相当酔っていたと思う。力強く揺さぶっても全く起きる気配がなかったし、声かけにも反応していなかった。と同時に自分が昨夜かなえにしたことを思い出して、焦り始めた。
「確かに!」
必要以上に声が大きくなってしまい、かなえは首をかしげた。バレたか、とヒヤヒヤしたが、かなえは何事もなく続けた。
「昨日、大学の時のゼミのみんなで久しぶりに飲み会があったの。みんな社会人になってたから、職場とか恋愛とかの愚痴大会になって。すごく盛り上がってお酒が進んだっていうのは覚えているんだけど、そこから先の記憶が・・・」
かなえは申し訳なさそうに口をつぐんだ。
「記憶がなくなることなら僕もありますから!」
やましい気持ちからか、声がうわずってしまった。
「ほんと。じゃ、一緒だね」
かなえはどこかホッとした表情をしていた。かなえ以上にホッとしていたのは確実に僕の方だったけど。
「昔を思い出して、ここまで来ちゃったんですかね」
僕はそう尋ねた。
「多分、そうかな。それか気持ちが学生時代に戻っちゃったのかも」
かなえは困惑したような表情を浮かべながらそう答えた。
「鍵が開かなかったらどうしてたんでしょうね」
「どうだろう。こんなに酔っ払ったことないから」
「じゃ、開かなかったら、その辺で野宿してたこともありうるってことですか?」
「なくはないかも。勝手な話だけど、キミでよかったよ。知らない人に変なことされずに済んだから」
昨晩自分がしたことをまた思い出して、居たたまれない気持ちになった。
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