第3話

 あるはずのない光景に、僕は思わず悲鳴をあげそうになったが、慌てて両手で口を押さえた。ただでさえ強く打っていた心臓がさらに強く動き出した。女とはいえ、何をされるかわからない。何か凶器になるものを持っているかもしれない。何があるかわからない。死、というものを生まれて初めて意識した。とにかく相手を刺激するようなことはしてはいけない。しかし、目の前の女はそもそも生きているのだろうか。この女もなんらかの被害者かもしれない。とにかくこの人物の命に別条がないか、確認をした方がいいんじゃないか。僕は恐る恐る目の前の女性に手を差しのばした。

 危険がないよう念のために、ポケットに突っ込んだままだったネクタイを取り出すと、女の手首をそっと縛り上げた。ヒヤヒヤしたが、女は動くそぶりも見せない。僕自身の安全を確保してから、女に怪我がないか調べ始めることにした。頭、胴体、腰、足。不謹慎とは思いながら、胸も。関係はないけれどえらく小ぶりな胸だった。ソファーも一応見た。流血している形跡はない。呼吸もしている。少なくとも殺人事件に巻き込まれたわけではないことに安心した。僕はふうっと一息つくと女の前にしゃがみ込んだ。背後のテレビからは大げさな通販番組が始まっていた。

「カンベンしてくれよ」

そう言いながら、僕は目の前に横たわっている女性を観察した。どうやら気を失っているというよりは眠っているように感じられる。というか、すうすうと気持ちの良さそうな寝息のようなものを立てている。そして何よりも酒臭い。

 目の前の女性が華奢で、目が覚めても僕の力程度でもなんとかなりそうだと安心すると、一気に全身の力が抜けていった。ただ酔って寝ているだけなのだと確認ができた。するとむしろ今度は一気に怒りがこみ上げてきた。

 なんだこの女は。なんで僕の部屋で寝てんだ?そもそもどうやって入ってきた。不法侵入のくせして、気持ち良さそうに寝やがって。支離滅裂な思いが脳内で爆発した。

 ふとソファ前のローテーブルが視界に入った。そこには飲んだと思っていた地ビールの瓶が置いてある。栓は抜いてある。

「まさか」

 瓶を手に取ったが、明らかに軽い。瓶を振ると、かすかに残っていた水滴がチャパチャパと鳴った。

「この女・・・」

 冷蔵庫からなくなっていたのは気のせいではなかった。僕は再び女の顔を見た。相変わらず気持ち良さそうに寝息を立てて眠っている。

「おい。おい!」

 女の肩を揺さぶって見たが、全く起きる気配がない。相当深く酔っているのだろう。もう一度強く揺さぶったが、うーんと唸りながら寝返りを打って背もたれの方へと向いてしまった。ダメだ、この女。とりあえず女の足を掴んで強引にソファにスペースを作るとそこに腰掛けた。胡散臭いサプリメントをハイテンションで紹介している。僕はテレビを見るともなくぼーっと見つめながら考えた。

「鍵でも閉め忘れたかな・・・」

 自分の朝の行動を思い起こしたが、やはり鍵は閉めたはずだった。普段だったら覚えていないけれど、今朝はタンスの中の非常用の現金を取りに戻ったからはっきりと覚えている。ヒデと飲むのに財布の中身が足りなかったからだ。家を出るときに、確実にカギをかけた。

 ただ。さっきは鍵を開けた記憶がない。キーケースはカバンの中に入りっぱなしだ。外階段を上がって、一服して。そしてそのまま入ってきたのを僕は思い出した。

「ピッキング?」

 こんな酔っ払った空き巣なんて聞いたことがなかったけど、一応自分の貴重品関係を見るために寝室のクローゼットを開けた。

 今朝取り出した現金が入った封筒、大して残高のない預金通帳、印鑑、会社に押し入って来た保険屋のオバサンに無理やり入らされた生命保険の書類などは、全く手がつけられていない。

 そういえば知らない靴なんてあったか?と急に思い立って玄関に向かった。リビングの床は汚れてなかったし、女は靴を履いていなかった。フラフラと玄関につくとそこには乱雑に脱ぎ捨てられた僕の革靴、履き潰したスニーカーに混じってきちんと並べられた、見覚えのない黒い女物のパンプスがあった。

「あるんかい」

 外のドアの鍵穴も念のため見ては見たが、こじ開けられた形跡はなかった。余計謎は深まるばかりだ。

 酔っ払っていたとはいえ自宅の変化に気づかなかった自分を恥じながら、リビングへと戻った。

「夢、じゃねえよな」

 微かな希望を抱いてもう一度ソファーを見たが、相変わらず女は寝息を立てながら眠っている。

「マジかよ・・・」

 僕はソファーには座らず、ソファーを背もたれにして、ローテーブルの前へと腰掛けると、そういえば一口も飲んでいない発泡酒が視界に入った。僕は乱雑にそれを掴むと、グッと一口飲んだ。

「明日になれば、夢も醒めるかな・・・」

 半ばやけくそになりながらポケットからタバコの箱を取り出した。ソフトパッケージのラッキーストライクの箱から、くしゃくしゃになったタバコを一本取り出して口にくわえ、ローテーブルの上にいくつも転がっている百円ライターを適当に一つ掴むと、タバコの先に火を灯した。

 一気に煙を吸い込み、消えている天井のシーリングに向けて一気にふうっと吐き出した。もやもやとした煙が一直線に天井に向かって伸び、ゆらゆらと消えていく様を見ていると、思い出したかのように、再び酔いが回って来た。

「警察・・・」

 明らかな不法侵入であるこの女を警察に突き出そうか。そんな風に思ったが、僕はなぜかその選択肢を捨てた。それがなぜかは自分でもよくわからなかった。華奢な女ということもあったし、何かを期待していた部分もあったと思う。殺されたら殺されたで困る人生でもない。

「寝るか」

 発泡酒とタバコを交互に口に運ぶ。酔いが一気に強まる。短くなったタバコを空いたばかりの缶の中に放り込んで、ジュッと、火の消える音を確認すると、僕は念のために女の両手首を結わえていたネクタイを改めてしっかりと結び直した。起きちゃうかなあなんて考えたけど、やはり女が目を覚ますことはなかった。そしてテレビを消してから寝室へと向かった。あわよくば今抱えている問題の全てが夢であったらと願いながら。

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