第4話

四、挙句


 居間に行くと母はボール遊びをしていた。本人は楽しそうだが、誰も居ない壁に向けて喋りかけながらボールを投げ、返ってくるボールを受け取っては「うまいねー」と、はしゃぐ姿は、ある種の恐怖を与える。僕が認識している世界とズレているからだろう。恐怖は、自分の思い描く世界の外側にあるものを目の当たりにした時に発生するのだ。

 妹の姿は僕には見えない。母の行動を見ながら場所を想像するしかない。だから、僕はボール遊びが終わるのを待った。母とあれだけ離れていては、場所が良く分からない。もっと近く、抱き寄せて頭を撫でている時ならば、妹の位置が分かる。妹を、殺せる。


 罪悪感は、少しあった。生まれたばかりの自分の妹を殺すのだ。この手で首を絞め、苦しんでも離さず、母が死んだと認識するまで。本当なら、最悪の行為だ。

 だが、妹は存在しないのだ。とっくの昔に死んでいる。そして、今実際に生きている母を死に至らしめかねない。これは、言ってみれば治療だ。殺人などではない。そう自分に強く言い聞かせた。


 僕の行為は、母を守るためのものだ。だが、母には責められるだろうなと、目の前の楽しそうな表情を見て思った。いや、責められるどころではないだろう。罵詈雑言の限りを尽くし、泣きながら僕を叩き続けるだろう。なんで殺したのか、理由を言っても通じない。もしかしたら、僕を殺そうとするかもしれない。母の中では、妹を殺した最悪の人間になるのだ。


 改めて存在について考えた。妹を殺せば、少なくとも母は悲しむだろう。僕が死んで、悲しんでくれる人は居るだろうか? 現時点では母が悲しんでくれるかもしれないが、妹を殺した後では、きっと僕が死んでも悲しんでくれる人はいない。

 それを考えると、妹と僕、どちらが存在していたと言えるのか、分からない気がした。現実に生きていても価値の無い人間と、妄想でしかないが価値のある人間。存在と言うものは、有無で語られる場合と、大小で語られる場合がある。僕という存在は有るが小さい。妹という存在は無いが大きい。そういう差かも知れないと思った。


 だが、そこまで考えても決意は揺るがなかった。僕は知っている。決意の後にごちゃごちゃと考えていては、何も出来ない。決意をしたのならば、次に悩むのは行動した後だ。まず、今やるべきだと思った事をしよう。


 母が投げたボールが、壁と床の境目の辺りにぶつかり、おかしな方向に跳ねた。それを見た母は壁に近寄り、小さい子供を抱かかえるような仕草を見せた。


「どうしたの? 疲れちゃった? じゃあおねんねしましょうね」


 抱き上げた妹に、顔を近づけて喋りかけている。そのまま僕に気付く事なく居間を出て、寝室の揺り椅子に座った。妹を抱いたまま。


 時間が来た。

 居間を出てから数歩のはずの寝室がやけに遠く思えた。心と言うのは凄い。生まれてもいない人間を成長させたり、数歩の距離を何十倍にもしてみせる。だが、現実の方が大切なはずだ。僕が現実を守ってみせる。

 母を見た。右手で左肩の前辺りを撫でている。あそこに妹の頭がある。左腕は枕にしている。あそこに首がある。ありったけの想像力で、薄汚れたマタニティドレスに包まれて寝ている妹の姿を描いた。力を抜いて下に垂れた左腕はあの辺りにあるのか。安らかな寝顔をしているのだろうな。でも、もう終わりだ。


 僕は無言で胸と腕の間にある空間に両手を伸ばした。想像で描いた妹の首を強く掴み、母の腕から奪い取る。


「何するの!」


 どうやら妹を掴めたらしい。半狂乱になり裏返った母の声を無視して、床に妹を叩き付ける。さっきまで安らかだった顔はどう歪んでいるだろう。泣き喚く声すら出ないように力を込め、覆い被さるように床に押し付ける。指が首に食い込ん/やめて/で行くのを想像して、歯を食いしばって両手の作る円形を狭めてゆく。


「離しなさい! なんで! 死んじゃうじゃない! 何しているのよ! 自分の妹なのよ! やめなさい!」


 母が僕の背中を叩く。叩かれた事自体は、なぜか全く痛くなかった。それよりも悲しんでいる事が伝わってきて痛い。だが、悪魔と罵られてもお願いだから止めてと懇願されても、力を緩める事はしなかった。


「うーっ!」


 母が声にならない唸りを上げて、腕に噛み付いてきた。それでも僕は首を締め続けた。妹が死ぬま/これじゃまた繰り返し/では絶対に離さない。母はどれだけ悲しむだろう、なんて今は想像してはいけない。今挫けては、現実に生きている母の命が失われるかも知れない。そうなってから後悔したのでは遅すぎるのだ。全ての力を、僕は両手に込め/仕方ないわね/た。


 どれぐらそうして居ただろうか。腕に噛み付いていた力が抜け、母が僕から離れた。背後で立ち上がったのが気配でわかった。

 終わったの……だろうか。母の想像の中で生きていた妹が、ようやく死んだのか。消えたわけではない。これから葬式もしないといけないかも知れない。母は僕を恨み続けるだろう。それでも、母の命が守られたのだ。それが他の全てより価値のある事だと信じたかった。信じるしかなかった。そうで無ければ、僕の行動に意味は無くなってしまう。


 母は泣いているだろうか。振り向くのは怖かった。母が悲しむのは、自分が悲しむより辛い。だが母が死んだら、僕は生きてゆけない。

 今は、罵られるかも知れない。恨まれ疎まれ憎まれるだろう。それでも仕方が無い。僕が母の事を思って、母のためだけに妹を殺したのだと分かってくれる日がきっと来る。その日を信じよう。今は、どんなに悲しくても、どんな仕打ちを受けても耐えよう。そう覚悟を決めて、僕は後ろを振り向いた。


 母は無表情で立ち尽くしていた。

 怒りも悲しみも憎しみも、何も見て取れない。一欠けらの感情すら浮かんでいない、完全な無表情。誰も居ない自分の部屋で、時間を持て余している時のような。


「あーあ、また失敗だわ」


 母が独り言のように言った。いや、違う。独り言を言った。また? またって何だ?/分かってるくせに。/母は何を言ってるんだ?


「自分の想像なのに、何でこんなにうまく育たないんだろう」


 母が何を言っているのか僕は全く分から/あー、もうやめよう。こんな茶番。今回も失敗だったんだから。最初から最後まで私の滑稽な一人芝居。二人の子供を想像で作り上げて、本当に居るみたいに思い込んで、幸せな家庭を築こうなんて、馬鹿げた空想。私は昔か/母は昔から空想癖が強かった。そうだ、知っている。僕は母だから。母が想像で作り上げた存在だから。妹と同じように、僕も。


 母は子供の頃から、夢を現実に起こった事と勘違いするような事があった。だから、強く思い込めば自分も騙して、空想を現実だと思い込んで、幸せを得られると思った。あの日、あの男が/あの日、あの男が……私の実の兄が、大きくなった腹を潰した時から、私は子供を作れなくなった。

 いくら実の兄に無理矢理犯されて出来た子供でも、どんな障害を持って生まれて来たとしても、絶対に守るつもりだったのに。私は絶望したけれど、すぐに思いついた。現実が厳しくても、空想に逃げ込めばいい。どうせ存在なんて、不確かなものだ。それならば、本当に目で見えるほどに思い込んで、手で触れられるほどに信じ込んで、子供を育てようと思った。


 だが自分の想像でも、全て思い通りになるわけではなかった。一人の人間の生活の全てを想像しようとすれば、膨大な情報を思い描かないといけない。毎日積み重ねて行く内に、少しずつ理想とズレてゆく。

 特に、兄は妹を苦しめるものだと言う意識があったのだろう。いくら優しい子を想像しても、長男は妹に/僕は妹に嫉妬してしまうように育った。だから母は身篭ったまま、妹を産む想像に進める事が出来ないで二年も待ったりした。どうにか産んでみても、僕は妹を殺し/お兄ちゃんはアタシを殺してしまった。ママを嬲ったあの男のイメージはそれぐらいママに焼き付いていたんだと思う。


 だったら、最初に産むのは女の子にしようと思ったりもしてた。でも、あの時実際に身篭っていた子は男の子だった。だからママは、どうしても一番最初にお兄ちゃんを産みたかった。

 ママはこんな事を何回も繰り/私は何回もこんな事を繰り返してきた。気付けば年を取り、体も枯れ木のように細ってしまった。いつも想像は不幸に終わってしまう。結局、現実だろうが空想だろうが存在していようがいまいが、一緒。私は幸せにはなれないのだろうか。/いや、そんな事無いよ、母さん。/そんな事無いよ、ママ。/一から僕らを育てようとするから、ちょっとずつズレて行って失敗するんだ。最初から幸せな家庭が出来たところを想像して見ればいい。毎日が連続している必要だってない。幸せな瞬間を細切れにしてばら撒こう。母さんが存在を信じれば、それは存在している事だ。

 結局誰だって、自分の中の世界しか分からない。目に見えている物が『本当に存在するか』なんて、どうせ分からない。考える必要すらないよ。それなら、自分が幸せだと思い込めればそれは幸せ。他人の目から見れば、薄汚れた部屋の中で一人芝居を続ける哀れな老人でも、本人が思い込めればそれは幸せ。結局、そういう物なんだから。/そうだよママ。/そうよね。


 何度目だろう。私はリセットボタンを押した。


 母が「行ってらっしゃい」と、右手を僕に振る。伸ばした左手の先を、可愛らしい妹がしっかりと握っている。


「ほら、お兄ちゃんに行ってらっしゃいって」

「お兄ちゃん、行ってらっしゃーい」

「うん、行ってくるよ」


 僕はそう言いながら、妹の頭を撫でてやる。妹は少しくすぐったそうに、でも満面の笑顔を浮かべた。体全体で笑うような、気持ちのいい笑顔だ。


「じゃあ母さん、行ってくるよ」

「うん、気をつけてね」


 母さんも笑顔を浮かべて、僕を見送ってくれる。父親が居なくても、親子三人で幸せに暮らしてゆく、理想的な家庭。さっき出来たばっかりの幸せ。僕は音も無く滑らかに開くドアを開け、学校へ向かう。

 ほら完成。これでハッピーエンドだ。



「……本当に?」


(了)

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小説「独り連歌」 あめしき @amesiki

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