第3話

三、第三


 二年前に死んだ妹が、生まれた。

 夢を見ているように非現実的でも、母にとってそれは現実だ。母が妹の存在を認めて、妹を生活の中心にして生きている以上、僕の現実もそこに求心力を持っていた。


 二年間も腹の中に居座り続けた妹は、しかし生まれてからはすぐに成長した。もちろん僕には見えもしないし、触れられもしない。声も聞こえない。それでも母の言動から、妹はすでにおぼつかなくだが歩く事ができ、言葉も話すと分かった。体全体で笑うような、明るい子供だそうだ。

 妹が生まれてからも、僕は妹が存在しない事を母に認めさせようと努力した。だが腹の中に居る時よりも、目の前にいる確かな存在として、さらに妹の存在を確信している母には通じなかった。不思議そうな顔をして「ここに居るじゃない」と頭を撫でる動きをするだけだ。

 さらに主張を続けると、母は急に真面目な顔になった。


 「あのね、妹が出来たらお母さんを取られたような気分になるのは分かるわ。お兄ちゃんってそういうものだもの。私のお兄ちゃんも悔しかったらしいわ。でもね、まだこの子は小さいんだし、我慢してくれなきゃ。お兄ちゃんだもの。ね?」


 諭すように、そう言われた。ある意味では間違った言葉ではなかった。僕はその日から何も言えなくなった。


 生活自体は楽になったとも言える。母が自分で家事をするようになったのだ。でもそうして自分で動くようになって、母はさらに現実から遠ざかっていった。存在しない妹が見えるだけでなく、本当は存在しているものが見えなくなっていったのだ。


 例えばミルクを妹に飲ませる時。パントマイムのように何も無い空間を抱きかかえ、哺乳瓶を口に近づける。そこには何も無いのだから、当然ミルクはポタポタ床を白く濡らす。そのミルクを拭き取るのは僕の役目だ。母には、床に落ちたミルクが見えない。妹が飲んだミルクは、そこに存在するはずが無いからだ。

 逆に、妹がこけてヒザを擦り剥いた時には、カーペットに血の跡が残る。もちろんそんなものは存在しないけれど、母には見えている。しかもそれは、一時的な話では無い。何週間も後になって、あの時の血の跡が残ってるわね、痛かったね、と妹に話し掛けていた。

 夢と現実の違いは連続性の有無だ。連続していく夢は、現実と変わらない。母の現実は、どんどん真実から離れていった。つまり僕の現実から離れていった。


 この歪みを持ち続けたまま、ずっと生活してゆけるのだろうか。これから少しずつ、歪みは大きくなってゆく。今は小さな歪みでも、数年後には、世界を完全に違うものに作り変えてしまうだろう。そうなったら、母はまともに生きてゆけるか?


 家事をしたり、妹と遊んだりしながら、母はよく小さな傷を作った。妹が動かしたはずのものにぶつけたのだ。妹が台所に戻したはずのコップに思い切りヒジを付き、ダラダラと血を流す事もあった。それでも、その傷に気付くのすら、だいぶ後になってからだ。「あら、どこで切ったのかしら」そう言いながら傷の治療をする。


 妹が何か動かしたと知るたびに、僕はその物を実際にある場所に動かす演技をして、母の現実を繕った。母の現実が少しでも真実に近づくように。

 でも所詮ツギハギのようなもので、細かいズレは存在し続ける。母の姿から妹の動きを想像するしかない僕には、無理のある作業だ。母が怪我をした後に、妹が物を動かしたと気付く事がほとんどだった。


 せめて、人形かなにかを妹だと思い込んでくれれば、僕の目にも妹の位置が掴めるのに。そんな事を思った。だが実際には妹は何も無い空間を歩き回り、空気の揺れも無く喋る。母にしか聞こえない声と、母にしか見えない笑顔。僕の演技で繕い続ける事は不可能だった。


 やはり、妹はずっと前に死んだのだと母に分からせるべきだ。でもどうやって? どれだけ主張しても、母はもう耳を貸さないだろう。どうやったら妹から母を守れる? 考えても考えても、答えはなかなか出なかった。


 傷だらけの母を見ながら、なぜ普通は10ヵ月で生まれるだんて言ってしまったのだろうと後悔した。もしあの言葉を言わなければ、妹はまだ腹の中に居たかもしれない。そうすれば、いくら妊娠期の辛さはあっても、ここまで怪我をする事は無かっただろう。

 どうする事も出来ないまま、僕は母が現実から離れてゆき、傷を増やしていく姿を見ていた。


「ただいま」


 学校から帰ってくる瞬間には、不安が付きまとう。留守の間に母が大怪我を負っていない保障は無い。ドアを開けた瞬間に、玄関で倒れている姿を目にするかも知れない。

だがその日、実際にそんな事は起こらなかった。僕の声がいつも通りに不快な金属音でかき消される。母の姿は見当たらなかった。

 常に寝室で揺り椅子に座っていた妊娠期とは違い、妹が生まれてからはよくある事だった。台所を掃除している事もあれば、居間で妹と遊んでいる時もあった。ボールを壁に向かって投げ、跳ね返ってくるのを妹が投げたと言う事にして、ボール遊びをしていたのだ。「上手に投げられましたねー」そう言いながら見せる幸せそうな顔が、僕を居たたまれない気持ちにさせた。


 今日もボール遊びだろうかと思って居間を覗いて見たが、冬にはコタツになる古い木製の食卓の上に、鮮やかなピンク色をしたゴムボールが置いてあるだけで、そこには誰も居なかった。妹が居たとしても僕には見えないが、妹はいつも母にくっついているようだ。ここには居ないだろう。


「母さん」


 もし居たとしても返事があるとは限らない。それでも呼びかけてみた。やはり返事は無かった。この時になって、ようやく不安を覚えた。大人である母が隠れられるような広い家じゃない。寝室と居間しか部屋は無い。後は台所と風呂とトイレだけだ。

 僕は思いついく限りの場所を探して回る。だが台所にも風呂にもトイレにも、母はどこにも居なかった。こんな事は今までに無かった。妹が生まれてからも、家の中のどこかには居たはずだ。


 見えない妹の手を引いて外を歩く母を想像した。家の中では小さな傷を作る程度だったが、外ではどうなる? 見えない妹を避けて通る車など無い。轢かれそうになった妹を助けるために、車道に飛び出す母の姿が容易に想像できた。

 焦りながら靴に足を突っ込み、家を飛び出そうとした瞬間だった。


「そっちに行ったら駄目よ!」


 小さな叫び声が部屋の奥の方向から聞こえてきた。何かに遮られているような、こもった声。ベランダからだ。

 僕は靴を投げ出し、長い事使っていなかったベランダへ急いだ。寝室のカーテンを引きちぎるように開いた瞬間、ベランダから半身を乗り出している母の姿が目に飛び込んできた。つま先はすでに地面から離れていて、少しバランスを崩せば転落しそうな体勢だった。僕は急いで窓を開ける。


「母さん!」

「お兄ちゃん、いいところに来てくれたわ! この子が落ちそうなの! 一緒に引っ張って!」


 僕もベランダから体を乗り出す。母が何も無い空間に手を伸ばし、必死で引っ張っているのが分かった。腕が小刻みに震えている。あの手の先を、必死に掴んでいる妹が見えているのだろう。

 僕は母の手が伸びている方に手を伸ばそうとした。身長の低い僕はなんとか手すりの外側にヒジから先が出せる程度だったが、母の中ではそれで妹に届いた事になっているらしい。絶対離しちゃ駄目よ、と言われた。


 母の動きに合わせて、何かを掴んだような形にした手を、ゆっくりベランダの方に引き寄せた。母も地面に足をつき、手をベランダの内側に戻す。


「良かった……」


 母は、泣いているのか笑っているのか分からない顔で、安堵の言葉を呟いた。何もない空間を強く抱き寄せ、頬を擦り合わせて良かったねと繰り返した。

 娘の無事を喜ぶ母親の姿が、これほどまでに絶望的に映る状況はあるだろうか。そこには誰も居ないのに。もう二年前に死んだのに。なんでそれを分かってくれないんだ。


「もう、危ないトコ行っちゃ駄目でしょ。お家の中で遊びましょうね」


 そう言うと、僕の事など忘れたように、母は妹を抱えて部屋の中に戻っていった。久しぶりに動かした窓が、少し軋みながら閉まった。しばらくすると、ゴムボールが壁を打つ音が、リズムよく聞こえてきた。


 コンクリートで出来た灰色のベランダに裸足で立ち尽くし、僕は考えた。やはり、妹が存在していない事を分からせなければならない。この部屋は五階だ。もう少し帰ってくるのが遅かったら、母は転落して死んでいたかもしれない。今回は助かったが、もし同じ事が僕の居ない時に起こったら。母は、二年も前に死んだ妹のために命を投げ出す事になる。そんな事は絶対にさせない。


 強い意志と妹に対する怒りの中で、僕は思いついた。

 そうだ。妹が居なくなれば、母が危険に晒される事も無いのだ。「二年前に腹の中で死んだ」と言う事自体を認識させなくても、ただ、居なくなったと認識できればいい。妹が動かしたものを元の場所に動かす演技をした時、母は実際に動いたと認識してくれる。それと同じ事だ。母の現実を真実に近づけるように、演技をすればいい。


 僕は決意した。妹を殺そう。


(つづく)

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