第2話

二、脇句


 母の妄想が、僕の頭すら侵し始めたのだと思った。存在もしない妹を生活の中心において愛で続ける母を、一瞬でも肯定してしまったから。その瞬間、妹は母の腹から抜け出して、僕の頭にも居場所を作ってしまったのだ。


 あの日から、妹は日に日に「大きく」なっていった。母の腹が大きくなっているわけではない。妊娠をしていない母は、以前と同じように枯れ木のように痩せた体をしている。それでもその腹に触れて見ると、くたびれたニットの下で、妹と言う存在は大きくなっていった。昨日より今日。今日より明日。成長していた。


「これは妄想だ。妹は死んだんだ。二年前に死んだんだ。腹の中で死んだんだ」


 呪文のように繰り返す。だが感染した妄想は、決して頭から離れてくれなかった。触れた手に伝わる鼓動は、力強さを増していった。

 今までのように、母が学校へ行く僕を見送ってくれる。今までのように「心臓の動きが少し早くなってる」と言い、妹の挨拶だと笑った。二年間続いてきた変わらぬ日常。僕も変わらず、母の言葉には答えずに茶色いドアを開ける。いつもの耳障りな金属音に混ざって、妹の名前を考えるように言う声が聞こえた。


 今まで通りに振る舞いながら、僕は今までには無かった感覚に心を囚われていた。母の言葉を否定しきれない。妹の心臓の音が聞こえると言う言葉を「その音は母の心臓の音だ」と断ずる事が出来ない。


「ただいま」の言葉で家に帰ってくると、寝室から順に掃除を始める。母は学校での出来事を尋ねる事に加えて、自分の腹を僕に触らせるようになった。「お兄ちゃん、お腹触って見て」と、本当に幸せそうな顔で僕を呼ぶ。手で触ってみたり、耳を押し当ててみた。確かにそこに、妹の存在を感じる。


 聞こえるはずのない鼓動を感じながら、もしかしたら、おかしいのは僕ではないかと疑いすらした。実は母はまだ妊娠したばかりで、妹が死んだと言う僕の記憶こそが間違っているのではないか。実際、とっくに大人である母と、妹が死んだ時七歳だったはずの僕のどちらを信じるかと言われれば、母が正しいと考える方が妥当だろう。

 だが僕は、妹が死んだ日の事を覚えている。ずっと遠い記憶のように思えても、二年前の出来事だ。男が膨らんだ母の腹を容赦なく蹴りつける姿は、この目に鮮明に焼き付いている。


 あの男は確か、母と一緒に暮らしていた。勝手に家に転がり込んできて、無理矢理、母の稼ぐ金で生きていたのだと思う。

 僕に対しては完全に無関心だった。暴力を振るわれた覚えは無い。何かを言われた事さえ無かったように思う。同じ家で暮らしていたはずなのに、一切の接触が無かった。それでも男の事を考えると激しい憎悪の念を覚えるのは、母にとって最悪だったからだろう。

 短気から来る暴力は、まだ優しい方だった。男は自分の嗜虐心を満たすためだけに母を嬲った。タバコの火を押し付け、出来た黄土色の水脹れを押し潰した。顔を壁に擦りつけ、首を絞め、声も出なくなった母を犯した。そして、身篭った母の腹を潰した。


 僕はあの時、どうしていたのだろうか。覚えていない。母を助けようとした記憶も無い。たぶん、呆然と見ていたのだろう。絶対的な暴力の前で、完全な無力に何が出来る。男は無抵抗な母に対しても一切の容赦をしなかった。幸せそうな顔で、腹の中に生きていた小さな命を殺した。


 忘れたいと思っても、忘れられるわけもない。あの日、妹は確かに死んだ。妊娠期間が二年に及ぼうとしている事よりも、腹が全く大きくなっていない事よりも、この記憶が妹の死を僕に教えてくれていた。

 それなのに、実際には母の腹に触れるとそこにある命を感じるのだ。妹が生きている事が伝わってくる。やはり僕の頭もおかしくなってしまったのだろう。

 プラトンだったかデカルトだったか忘れたが、どこかの哲学者が昔、こんな言葉を言ったそうだ。


「我思う故に我あり」


 そう言った時の哲学者は、何か「確かなもの」にすがりつきたかったのではないだろうか。僕にとっての赤は、他人にとっての赤と同じかどうか分からない。目の前に見える物も、本当に存在するのか分からない。今目の前にある現実は夢かも知れない。

 その考えは絶望だっただろう。もし全てが虚構ならば、考える意味すら失われる。だが、哲学者は一つだけ確かなものを見つけた。そして手を伸ばした。全てが不確かだと考えている自分は、確かに存在すると思った。だからその言葉を呟いたのだ。


 母の腹を擦りながら、妹に問い掛けてみる。お前は存在するのか? そもそも存在とは何だ? 母にその存在を認められ、僕にその存在を感じさせ、そして妹が存在を自覚するのなら、それが例え妄想であろうと、妹は存在していると言えるのではないか。


「どうしたの、怖い顔して。お兄ちゃん怖いねー」


 僕はよほど真剣な顔で考え込んでいたのだろう。母が、冬に温かいココアを飲んでいる時のような顔で、僕と妹に話し掛けてきた。右手でいつものように自分の腹を撫で、そして、左手で僕の頭を撫でてくれた。いつも妹に対してするように、愛しそうに。


「お兄ちゃんになるの、嬉しくない?」

「ううん、そんな事無い」


 泣き顔は見せたくない。抱き付くように顔を母の腹にうずめた。生地が荒れたニットに顔を押し付ける。それでも母は頭を撫で続けてくれた。これが幸せだと思った。


 妹は、母の中から出てくる前に殺された。やはり、それは確かだと思う。でも、その存在を認めてしまう事に何か不都合はあるだろうか。実際にそこに感じられる、僕の妹。生まれる事もなく殺された不憫な命。なぜ、無理矢理消し去る必要があるのだ。

 それに何より、妹がいる事で、母が幸せそうな顔をする。妹と一緒に、僕の頭を撫でてくれる。僕が幸せに思って、母が幸せに思って。それなら…。


 本当に、僕はいつも甘い。ほんの一瞬の幸せな光に目を眩ませて、何も見なくなってしまう。前に母の中にある妹の存在を許しかけた時、その隙をついて妹は僕の頭に入り込んできた。今度の僕は、自分の中に妹が存在する事さえ許そうとした。それが僕らの幸せになると思ってしまった。妹が成長している事を忘れて。


 母が突然僕を突き飛ばして立ち上がった。蒼白な顔で何かを堪えるように眉間に皺を寄せ、そのまま台所に走っていく。背中越しに嗚咽と、さっき掃除したばかりのシンクを、吐瀉物が不規則に打つ音が聞こえる。すぐに分かった。『つわり』だ。


 口から出る物が無くなっても、母は涙目で、黄色い吐瀉物が水溜りを作るシンクを見つめるように俯いていた。さっきまで嗚咽を繰り返していただけに、呼吸が荒い。

 確か、つわりは比較的、妊娠初期の症状だったはずだ。母はそのつわりに辿り着くまでに、二年の歳月を費やした。つわりが終わるまで、どれだけの期間苦しむ事になるのだろう。

 妊娠の症状が普通と同じように出るなら、安定期に入るまでは精神的にも不安定になる。今までのようにただ幸せそうな顔をしていられるはずもない。そんな苦しみを与えてる原因は、取り除くべきだ。


 使命感にも似た感情が湧きあがってきた。同時に、妹がこのまま育ち続けると言う事が、僕は怖かった。存在しない者を認めようとした自分が許せなかった。そんな事があっていいわけないじゃないか。妹の存在は絶対に拒絶しなければと思った。


「母さん」


 僕が呼びかけると、母は汚れた口周りを拭いながら顔を上げた。まだ涙目のままで、ぼんやりと僕に視線を向ける。

 全てを伝えよう。そう思った。そうする事で妹を母の中から追い出そうとした。


「母さんは、もう2年も妊娠しているんだ。そんな事ありえない。人間の子供は、10ヵ月ぐらいで生まれてくるんだ。妹は、もう」


 さすがにそこで言葉を止めた。今まで腹の中で育っていると思っていた娘がすでに死んでいると言われたら、母はどんな気持ちになるだろうか。そう考えたからだ。それが、いけなかったのだろうか。いや、たぶん結果は同じだっただろう。


「そう、普通は10ヵ月で生まれるものなのね……」


 前向きである事は、時に罪深い。

 僕の言葉を反芻するように呟いた後、母はこう言った。


「それならこの子も、もうすぐ生まれるわね」




 次の日の朝、僕は学校へと向かうため、茶色いドアの前に立った。母はいつも通り右手を振る。だが左手は自分の腹でなく、幼い子供と手を繋ぐように自分の左側に伸ばしていた。


「ほら、お兄ちゃんに行ってらっしゃいをしましょうね」


 何も無い空間に向かって喋りかける。まるで、そこに誰か居るように。妹が、そこにいるように。


『行ってらっしゃい』


 幼い女の子の、たどたどしい声が聞こえたような気がした。


(つづく)

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