小説「独り連歌」

あめしき

第1話

 母が「行ってらっしゃい」と、右手を僕に振る。左手では、もう大きくなる事のない自らの腹を、愛でるように撫でている。そこにはかつて、僕の妹が生きていた。今はもう居ない。


「ほら、心臓の音が少し早くなってる。お兄ちゃん行ってらっしゃいって言っているんだわ」


 その音は、母の心臓の音だ。


「だんだん音がしっかりしてきてる。きっともうすぐ産まれるわね」


 二年前から、その言葉を繰り返している。


「あなたももうすぐお兄ちゃんになるのよ、嬉しい?」


 もう、兄になる事は出来ない。


「そうだわ、この子の名前考えて……」

「行ってきます」


 妹が腹の中で死んでから二年近く経つ。母は未だに薄汚れたマタニティドレスを着て、妄想だけを腹に宿している。




一、発句


 小学四年生の僕に『出産休暇』は取れない。ましてや、『出産を控える母の面倒を見る休暇』も無い。もしあったとしても、二年間は取れないだろう。トツキトウカという言葉があるように、人間の子供は十ヵ月ぐらいで母親のお腹から生まれてくるらしい。


「ただいま」


 ところどころ塗装が剥がれている茶色のドアが、耳障りな金属音を立てて、僕の小さなタダイマをかき消す。だけど確かに、僕は今日もこの古びた公団住宅の一室に帰ってきた。ノブから手を離しても、背中に金属独特の冷たさを感じる。

 妹の幻に取り付かれた母と暮らすのは、正直、苦痛だ。お母さんは赤ちゃんが居て大変なんだから、お手伝いしてね。お兄ちゃんになるんだからね。そんな言葉で、僕はこの二年間、家事のほとんどを任されてる。この年で生活に疲れたと言える人は、僕の他に何人居るだろう。居たらぜひ、話がしてみたい。僕の話を聞いて欲しい。だが、今のところそんな人には会った事が無かった。


 家事なんかより、もっと苦痛な事もある。母が存在しない妹ばかりを見ている事だ。僕が食事を作っても、自分の腹に向けて、お兄ちゃんがご飯を作ってくれたよ、良かったねー、そんな事を喋りかける。その目は仏の半眼微笑にも似て、うっすら細く開き、見えない妹だけを見つめる。僕を見てくれはしない。本当の寂しさは独りでなく、大切な誰かと居る時に感じるのだと知った。

 それでも僕はこの家に帰ってくる。行ってきますで出て行って、そのまま帰って来ない事だって出来るはずなのに、毎日帰ってくる。それはきっと、ここが僕の家だからなのだろう。家は、ただの建造物ではない。存在があるべき場所、居場所だ。ジグソーパズルのラストピースのように、ぴったりとそこに僕が調和する感覚。他の場所では感じない。僕と言うピースがハマる余地は無い。だから僕と言うピースがズレもなくハマるこの場所に帰ってくる。


 台所と一体になっている細い廊下を抜け、二つの部屋の内、正面にある部屋に入る。寝室として使っている部屋で、昼間は陽の光が一番良く差し込んで来て温かい。母は妹が健康に生まれてくるためにと、たいていこの部屋にいる。ゆっくりと前後に動く揺り椅子に腰掛け、胎教に良いと言う音楽を聞き、温かい光で日向ぼっこ。それが母の生活だった。

 今日もいつものように、母は椅子に揺られていた。少し眠そうな安らかな顔で、マタニティドレスに包まれた自分の腹を撫でている。母のマタニティドレスはずっと前、薄いピンク色をしていて、温かそうなニットの生地で母を包んでいた。


 妹が死んだ時に、妊娠が何ヶ月だったのかは忘れた。だが、死んでからは二年近く経つ。その間ずっと着られていたマタニティドレスは薄汚れ、全体が醤油をこぼした染みのような色になっている。生地もその厚みを失い、特に母の細く乾いた手が撫で続けた腹の部分は、傍目から見ても明らかに擦り切れていた。


「あら、帰って来てたの?」

「うん、ただいま」


 母が僕に気付き、一瞬だけ顔を上げる。だがすぐにその視線は妹の方に戻された。

 残酷だと思った。すでに諦め切っていたはずのものなのに、一瞬だけ与えられて希望を抱かせて、それからまた奪い取る。一瞬も与えられなければ奪われる苦しみは感じないのに。


「お兄ちゃんが帰ってきましたよー、ほら、おかえりおかえりー」

「じゃあ、とりあえず掃除するから一回立って。すぐ終わるから」

「ありがとね、お母さんは赤ちゃんがいて大変だから、任せるね」


 いつも通りの会話。学校から帰ってきた僕は、まず寝室を掃除する。その間、母は揺り椅子を玄関から見て左手にある居間に移し、終わるのを待っている。


「今日は学校でどんな事があったの?」


 母の声が居間の方から届いた。それは待っていたスタートの合図。僕は掃除をする手を止めずに、今日の出来事を思い出しながら母に語る。今日は休み時間に何をして遊んだとか、皆が分からなかった算数の答えを僕だけ分かっただとか。

 母は毎日必ず、学校であった事を尋ねる。僕はそれに答える。でも、会話はそこまでだ。ただただ、僕は報告するように今日あった事を喋るだけ。話した内容に、母は何も言わない。ふーん、とすら反応は返って来ない。

 確かに僕だって、学校であった事なんかに興味は無い。こうして母に尋ねられて話している時に、ようやく、ああ、そういう事もあったなと思い出すような感覚だ。もしこうして喋らなければ、すぐに記憶の隅に消えてゆくだろう。それぐらい、どうでもいい事なのだ。

 自分にそう言い聞かせて、反応が無いのも仕方が無いと納得する。じゃあなぜ毎日聞いてくるんだと言う疑問は、心の奥に押し込めた。


 寝室の掃除が終わったと告げると、母は無言で元の場所に戻った。僕もそれ以上何も言わずに部屋を出てゆき、台所や風呂の掃除を始める。毎日掃除していても、台所や風呂は綺麗にならない。次の日に掃除をする時は、その前に掃除した時より汚れている気がしてくる。石積みをしている気分だ。だがそれは、掃除だけの事ではない。


 変化無く繰り返す日常は、時計の針を歪ませる。茶色の扉が発する不快な音。それとともに始まる家での生活は、変化する兆しさえ見せず、時間が重ねられた事を忘れてしまいそうになるのだ。母が、二年も妊娠している事を不思議に思わないのも、それが原因かも知れない。

 だが実際に、妹が死んでからも、時間は二年分降り積もった。僕は二つ年を重ね、もうすぐ十歳になる。変化の無い日常は今後も淡々と繰り返し、限りない時間だけが積もってゆくのだろう。僕はそう思っていた。

変化は、突然訪れた。


「お兄ちゃん、こっち来て」


 母が揺り椅子の上から僕を呼んだ。掃除を終えて洗濯に取り掛かろうとしていた僕は、その『音』を聞き逃しそうになった。普段ならば掃除をしている間に聞こえてくるのは、木々のざわめきや洗濯機の回る音のように、聞くに値しない音だけだ。このタイミングで母が話し掛けてくるなど、起こりえない事だった。

 だが、今確かにその声は僕を呼び、視線を向けると母の目は僕を見ていた。

 お兄ちゃんと呼ばれた事から、妹の話だと分かった。それでも、母が話し掛けてくれる事が嬉しくて、小走りで母に近寄った。


「お兄ちゃん、お腹触って見て。あなたの妹よ。この頃、一段とよく動くようになったの。本当に、生きてるんだなぁって、そう思えるの」


 母は嬉しそうな顔で、本当に幸せそうな顔で、少しも膨らんでいない腹を撫でている。それは僕にとっても嬉しい事で、例え存在しない妹に母が囚われ続けていたとしても、こうして時折でも幸せそうに僕に話し掛けてくれるなら、このままずっと続いても良いかも知れないと思った。


「うん、触ってみる。ここらへん?」


 母に尋ねながら、僕は擦り切れたニットの上から、腹を優しく触った。この幸せな時間を続けるために、演技をしようと思っていた。ホントだ、動いてるね。そう言おうとしていた。だけど手を触れた瞬間、僕は何も言えなくなってしまった。


 皮肉なものだ。このままでも良いかも知れないと思った瞬間、歪んだ時計の針が、その動きを止めていないのだと知った。正確な時を刻んでいなくても、それはゆっくりと動いていた。

 妊娠期間が二年に及ぶ事など絶対に無くて、母の腹は少しも膨らんでいなくて、妹は確実に死んでいて。それは確かで。なのに、母の腹に触れた手に、心臓の鼓動はしっかりと聞こえた。内側から元気良く蹴る動きも、もうすぐ産まれてくると言う強い意志も伝わってきた。


 死んだはずの存在しない妹は、ゆっくりとだが、母の腹の中で成長を続けていた。


(続く)

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