第5条 絶対、絶対、絶~ッ対に好きにならないこと!!
「はあ…」
夜。俺の寝室には、部屋の主の盛大なため息が落ちる。風呂に入ったまではいいが、何のやる気もなくベッドの縁に腰掛ける。
俺の頭を占めるのはもちろん、坂城からの粋で最高な申し出のことである。その時の情景を思い起こしながら、もう一度ため息を吐く。
「はあ…。寝るか…」
幸いにも今日はエーヴァルトと寝る日じゃない。出番のない例の置物は入り口近くの棚の上に鎮座している。奴とは俺の実家で坂城に引き剥がされ別れたきり。こんな一触即発の状態でノコノコ会うほど俺も馬鹿じゃないのだ。
(あいつとは当面距離を置いて…)
「ずいぶん遅かったですね」
「わー!!」
誰もいないはずの室内に、突然声が響いた。口から飛び出そうになる心臓を、俺は慌てて元の位置に戻す。
「え、エーヴァルト!何して…」
「教えてください」
締め切っていたクローゼットの中から、エーヴァルトは何てことないように出てくる。実家を出る時に紛れ込んだ俺の父さんの股引きを頭に貼り付けながら、真剣な表情で口を開いた。
「俺と離婚してあの男と結婚するんですか」
「……!」
その一言に、坂城との会話を聞いていたのかと理解する。誘拐された妻を心配して、一応追いかけてきてはいたのだろう。そこで例のプロポーズを聞いたと。
「そ、それは…」
言い淀みエーヴァルトの顔を見つめ直したところで、ふと疑惑は落ちる。
「お、お前…。もしかして、酔ってるのか?」
据わった瞳に僅かに紅潮した頬。よく見れば空の酒瓶を片手に掴んでいる。エーヴァルトが酒を飲むところを見たことがなかったが、この様子じゃそれなりに弱いらしい。そして同時に、彼は酔うと感情が昂るタイプでもあった。
「あんな脳ミソも筋肉でてきているような男の何が良いんですか!」
「ふ、普通に悪口…」
それを否定する言葉が出てこないのはご愛嬌だ。エーヴァルトはふんと鼻を鳴らして続ける。
「まあそりゃあそうですよね!自信過剰で好きもまともに言わないこんな男より、ああいう素直で優しい男と結婚したいですよね!」
「分かってんじゃねーか…」
一転して自虐的な泣き言を叫ぶ不審者を前に、俺はそろそろと後退りする。不審者を前にした者の行動はただ一つ。逃げなければとその一点に尽きる。
(よし!今だ!)
十分な距離を取ったところで、俺は踵を返してドアを開けんと手を伸ばす。
「好きです…」
俺が取っ手を掴むより先に、小さな声が室内に落ちた。振り向けば、奴の顔は真っ赤。それに対して、俺の顔色は真っ青である。
「お、おま、」
「こんなこと言えるわけないじゃないですか!」
エーヴァルトが顔を上げた。まるで決壊したダムのように、酔っぱらいの口からは本音がだだ漏れる。
「絶対に拒否されるのが目に見えているのに、好きだと伝えられると思います!?俺はいつだって貴女と一緒に居たいし、同じ空気を吸いたいし貴女と一緒の棺桶に入って死にたいのに!」
「き、キモ…。一人で死んで」
「ほら!そういうことですよ!」
あまり刺激しないようにしていたのに、素直な感想が口をついて出てしまった。エーヴァルトは端正だと評判の顔立ちを欲望で歪ませ、更なる愛憎を口にする。
「挙げ句の果てに、俺の一世一代のプロポーズに対する返事が『いいなそれ!』って…!」
「そ、それはごめん…」
(その辺は少し悪かったような…ん?)
俺は申し訳ない気持ちになって、はたと気付く。反論せんと口を開けた。
「いや、知らなかったんだからしょうがねーだろ!お前こそそれっぽいこと並べて俺を騙しやがって!て言うか契約違反だぞ!」
「いいえ!禁止されているのは『好きになる』こと!ならば俺は当てはまりません!何故ならとっくのとうに大好きでしたから!」
「へ、屁理屈にも程がある!」
どや顔でクソみたいな論理を振りかざしながら、エーヴァルトはどんどんこちらに迫ってくる。
「ちょ、来ないで」
「さあ教えてください!」
慌てて取っ手を捻るが、奴が扉をバンと押さえる方が早かった。
「あの男が好きなんですか!?貴女は幸せなんですか!」
「ち、近、」
ガードしようと掲げた左手は、あっさり掴まれる。エーヴァルトはぐいっと顔を近付けてきた。
「俺と離婚して!あの男と結婚するんですか!?」
「うわー!」
俺の悲鳴と共に、ゴッと鈍い音がした。続いてエーヴァルトは白目を剥いて、静かに床に倒れ込む。
「……」
俺は片手に例のクソ要らない置物を握りながら、肩で息をする。
「死んだか…?」
慎重に距離を取りつつ、奴を足でつつく。
「うう…」
生きてた。もう一度起き上がるようなら今度は止めを刺してやろうと凶器を握り直す。しかしエーヴァルトが体を起こすことはなかった。
〈…それでも〉
代わりに聞こえてきたのは心の声。いくら隠そうとも何度も伝わってきた奴の本音。
〈貴女が幸せになるのなら、俺は。それでも〉
声は静かな室内に落ちる。
「…お前本当、馬鹿だな」
もう何だか力が抜けて、ベッドの縁に腰を下ろす。今日だけで何度目になるか分からないため息を吐いた。
朝日が射し込む屋敷の中庭。小さな水呑場は、愛くるしい子鳥達で賑わっている。
「アルマ!」
そんな素晴らしき朝を迎える庭に、俺を呼ぶ声が響いた。
「え、エーヴァルト」
顔を上げると、家の中からエーヴァルトがこちらに向かってくるところであった。あのままの状態で一晩中放置したので、彼の頬には床の跡がついている。しかし奴の見栄は一級品。焦りなどおくびにも出さない。優雅に髪を上げて、微笑む。
「昨夜はふざけすぎましゅたね」
噛んだ。しかしエーヴァルトは負けない。咳払いを一つして立て直す。
「俺としたことが、酒に溺れあんな心にもないことを口走ってしまうとは…。残念ですがあれは全て口から出たでまかせ。期待させたとしたら本当に申し訳ないですね」
「あ、ああ、そう…」
だいぶ無茶だと思うが、一連の事案を彼は冗談で押し通すつもりらしい。平静を装ってはいるものの、耳は真っ赤、よく見ると指先は僅かに震えている。昨夜の醜態を俺の記憶から消し去らんと、ぐいぐい迫ってくる。
「本当に分かりました?貴女は、俺にとって何の思い入れもない関係で…」
「わ、分かったから。もうそれ以上言わなくていいからハウス。今取り込み中なんだよ」
俺の言葉を受けて、そこでやっとエーヴァルトが中庭のベンチに腰掛ける小さな影に気付いた。相手を認識し頭を下げる。
「おや。これは司祭様。ご挨拶が遅れて申し訳ない」
「久しぶりじゃの。式以来か、ラトリッジ卿」
そこに居たのはロスヴィータであった。彼女は魔方陣の図面を片手に、朝からわざわざ俺の家に訪れた要件を説明する。
「アルマにかけてしまった魔術の解析が終わっての。急ぎ解きに来たのじゃ」
「…なんですって?」
「すまなかったの。しかしもう解法も謎も全てが解決したぞい」
一連の事実を知って、エーヴァルトの顔色が変わった。困惑した様子で俺を見る。
「貴女、魔術をかけられていたんですか?」
「……」
無言を肯定と見なしたのだろう。エーヴァルトの眉間に皺が寄った。
「何故言わなかったんです?愛情など何ら挟まない偽装結婚だとは言え、貴女に何かあれば俺の責任にもなり得ます。いえ貴女に愛情など微塵も無いのですがね?」
「段々うざくなってきた…」
繰り返される、別にアンタのことなんて何とも思ってないんだからね!の死ぬほどありがたくないVer.に俺の口からは本音が漏れる。そして俺達の剣呑な雰囲気をロスヴィータは露程に気にしない。ほのぼのと続ける。
「体に害はないから安心せい。お主らの結婚が偽装であることは聞いておる。然して使いどころの無い魔術だったろうて」
笑いながら、これ以上ないほど軽く口を開く。
「自分に恋愛感情を抱く人間の心が筒抜けに聞こえてしまう魔術など」
その瞬間。まるで時が止まったと錯覚するような静寂が訪れた。しかしロスヴィータが気付くことはない。新しい発見を前に、意気揚々と本を取り出す。
「これはおそらく、マクレーン聖書果実の章ヤマモモの回で、アデライン・マクレーンが不仲の夫婦の苦悩を解決せんと開発した魔術で…」
完全にスイッチの入った彼女はそのまま云々と語る。穏やかな日差しが差し込む中庭を、鳥がぴちぴちと声をあげて飛んでいく。
「…は?」
しばらくして、エーヴァルトは呆然と声を発した。やがてゆっくり、俺を振り返る。
「…え?」
完全に思考を停止させた奴をよそに、俺は昨夜からのため息の正体を憂う。
『新。俺と結婚しないか?』
坂城の提案は、千載一遇の、それはもう大変にありがたい申し出だった。俺が思わず口にした通り、めちゃめちゃ最高の思い付き。
そんな貴重な申し出を、何故か俺は辞退した。理由は自分でも分からないし、分かりたくないと思っている。
「聖書によれば、その夫婦は一転して誰もが羨む熱々夫婦になってのお。大量の子宝にも恵まれ、めでたしめでたしじゃ!」
そう、今この時真っ赤に茹で上がった奴の様子が可愛く見えてしまったことなど、墓場まで持っていくに相応しい事実なのである。
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