第2条 両者は表向きは仲の良い夫婦を装うこと


「ロッ!ロスヴィータ!!」


マクレーン教第一教会。職場でもある司祭の執務室に、俺は大慌てで駆け込む。これ以上なく簡潔に用件を伝えた。


「この前の魔術!解いてくれ!」

「む?あれは失敗に終わった筈だが…」


たとえ俺が天変地異の如き衝撃的な事実を知ろうとも、今日も今日とて教会は平和である。ロスヴィータは熱心に魔術の研究中で、執務机の上には山と積まれた本、そしてそれに押し潰された仕事の書類。先日片付けたばっかりなのになんて秘書の悲哀は何のその。俺の隣を、教会が保護している絶滅危惧種の妖精が呑気に飛んでいく。


「聞こえちゃいけない声が聞こえたんだ!」

「ほう」


俺の言葉を受けて、ロスヴィータの顔色が変わった。山と積まれた本の間から適当な紙切れを引っ張り出す。書き取りをするべく、裏返しにしてペンを持った。


「それはどんな?」

「ちょ、ちょっと待って。それ大事なやつだから違う紙にして」


ロスヴィータがペン先を当てているのが次の葬式のスピーチ原稿であることに気付き、慌てて取り上げる。魔術のこと以外に興味がない人物を上司にすると大変である。彼女が次に取った紙が新品のノートであることを確認した後で、俺は慌てて口を開いた。


「えっ、エーヴァルトが、俺のこと…っ!と、とにかく!早く治してくれ!」


しかし肝心の中身は口に出すのも憚られ、言葉に詰まる。とにもかくにも、あれは聞かなかったことにすればいい。記憶を消して、いつもの生活に戻る。今ならまだそれができる。間に合うのだ。


「ふむ…。いつどんな時に聞こえるんじゃ?」

「え、ええと。顔を合わせた時とか…同じ部屋にいる時とか…」


これで魔術を解く参考になるならと、思い出しながら言う。するとロスヴィータは食い気味に被せてきた。


「体調や環境によって聞こえる声に変化はあるか?」

「た、体調?体調は、えーと、普通だったかな。環境は…環境?」

「対象との距離は?壁を挟んでいても聞こえるか?一度に聞こえる声に制限はあるか?声は本人と同じものか?」

「……」


矢継ぎ早に質問をするロスヴィータの目はどことなくキラキラしている。これは知っている。モルモットを見る研究者のそれである。


「このマッドサイエンティストが…」


目の前で熱心にレポートを書き出した上司を見ながら呟く。そういえば最初からこういう女だったと思い出した。魔術狂いの聖女改め、魔術狂いの司祭はぶつぶつ呟きながら天井を仰ぐ。


「ふーむ。しかし魔術は掛けた瞬間が一番強く効果が出る筈。なぜ最初の時は駄目だったのか…。一定の時間で発動する魔術?いや、あの魔方陣にそんな計算式は微塵もなかった。しかし前例が無いわけでは…」


被害者を置いて、彼女は一人で考え込んでしまった。途中でふと何かに気付いたように、視線を俺に戻す。


「儂のはどうじゃ?今は聞こえるか?」


そう言われて耳を澄ます。が、何の音もしない。


「あ、あれ…?」


俺と彼女が黙れば、室内は静かなままだ。そう言われれば、朝家を出る時も教会に来てからも、俺は誰の心の声も聞いていない。


「もしかして、寝たら勝手に解けた…?」

「何?」

「やったー!治った!」


俺は拳を突き上げて喜ぶ。明らかに残念そうな表情を浮かべる失礼極まりないロスヴィータをよそに、俺の心を占めるのは喜びと安堵、そして何より希望であった。


(これで元の生活に戻れる!)






〈今の生活まさに夢、心に降るぜ愛の雨、ひたすら可愛い俺の嫁〉


「最悪だ…」


結果として、残念ながら魔術は解けてはいなかった。とんだ愛のヒップホッパーと化したエーヴァルトに向かって、俺は吠える。


「なんで寝室に居るんだよ!」

「は?」


(なんで一番聞きたくないこいつのだけ聴こえるんだ…)


結局、ロスヴィータを初め、教会では誰の声も聴こえなかった。だから大喜びで帰ってきたと言うのに。


「急になんです?」


そして聞こえる本心とは違って、エーヴァルトは実に冷静沈着だ。俺の言葉に顔を上げ、椅子に座ったまま呆れた様子で口を開く。


「さすがに毎夜寝室が別では不仲の噂が立つから三日に一度は同じ部屋で寝るべきだと、貴女が言い出したんでしょう」

「グッ…」


冷静に返され言葉に詰まる。今も彼は真面目に仕事の資料を見ている。普段の言動からしても、あんなご機嫌なラップを刻むとは思えない。ロスヴィータは人の心を読める魔術だと言っていたが、本当にこんなことを考えているのかとか、疑惑は残る。


〈貴女の油断しきった間抜けな寝顔を見るのが俺の唯一の楽しみなんですが?〉


前言撤回。こんな性悪な本音は間違いなくエーヴァルトだ。


「ぐぐぐ…」


俺は呻き声をあげながら考える。二人で寝室で過ごすと言っても、ただ同じ空間に存在しているだけだ。会話も最低限、お互い好きなように過ごして、時間になったら広いベッドの端と端で寝るだけ。


(よし!こいつのことは無視だ無視!)


俺は決めた。エーヴァルトの書類の隣に酒瓶をドカッと置き、高らかに宣言する。


「酔っぱらってそのまま寝てやる!」

「どうぞお好きに」


俺は椅子に腰掛け、グラスへ酒を注ぐ。幸い、エーヴァルトも仕事に夢中だ。楽しく晩酌してこいつのことは忘れてしまおう。


「……」

「……」


室内を沈黙が支配する。聴こえるのは書類を捲る音とグラスを机に置く音、しかし俺の耳に平穏は訪れない。


〈かわいい〉


静かな部屋いっぱいに、エーヴァルトの心の声が響き渡る。


〈かわいいかわいいかわいいかわいい〉

「うるせえ」


思わず口を挟んでしまった。エーヴァルトは真剣に書類に目を通していると思いきや、視界の隅に映った俺に意識を全力で集中させているらしい。いや器用か。俺の突然の暴言に、彼は全く意味が分からないとでも言うように肩を竦める。


「何ですか藪から棒に。何も言ってませんよ、俺」

「え。いや、その…存在がうざくて」

「は!?」


適当なことを言って誤魔化す。何せ奴のこのとんでもない本音が俺に筒抜けだと知られた日には、どうなるかわからない。


(そう、何されるか…ん?)


グラスを呷ろうとした手が止まる。そう、俺は気付いてしまった。


(俺、こいつと一夜明かすの…?)


しかも同じ部屋で、同じベッドでだ。


(めっちゃ嫌だ…!!)


これまでは知らなかったから平気だったのだ。エーヴァルトはまあ潔癖の気がある程度には清潔感にまみれた男だし、寝相だって棺桶の中のミイラぐらい微動だにしない。これまで布団に住むノミ以下の存在だったから、そして何より相手も俺のことをその程度の認識しかしていないと思っていたから、俺は奴の隣でグースカ呑気に大口開けて寝ていられたのだ。


(そうじゃなかった今、同じベッドで寝るのはマズイ…!身の危険を感じる…!)


それに気付いた瞬間、俺は慌てて立ち上がる。ベッドから枕を抱え、エーヴァルトから守るように掲げた。


「俺、今日から一生お前と別の部屋で寝る!てか家も別にする!お前は頭皮と髪が別になれ!」

「なりません」


さりげなく悪口を挟むがぴしゃりと否定される。彼は視線を上げずに、俺に聞こえるように呟いた。


「侍従が貴女のご両親に俺達の様子を報告しているのは、貴女もご存知だと思っていましたが」

「う…」


その台詞に、出て行こうとした足が止まる。そう。これが、毎日ではないとは言え、わざわざ同じ寝室で過ごそうと俺が提案した理由であった。


この新居から屋敷中の家具、お手伝いさんに至るまで、俺の両親からお祝いと称して半ば強制的に与えられたものだ。そして過保護な両親は、送り込んだお手伝いさんに定期的に俺達の様子を報告させているらしい。


「夫婦仲が悪いと思われても知りませんよ。ドラモンド卿とそのご婦人がどう出るか」


そう、俺の両親の望みは一つ、一人娘の幸せだ。寝室を完全に別にするほど夫婦仲が悪いと聞いたが最後、二人は当然俺を離婚させ家に戻すだろう。そして娘にバツが付いたぐらいで、そう簡単に結婚を諦める両親だったらこんな苦労はしていない。


(また見合い漬けの毎日に…!)


結婚しろとも、仕事を辞めろとも、男を愛せとも言われない。ちょっとムカつく奴とたまに顔を合わせるだけで良い、自由で楽しい生活。惜しい。今のこの生活を手放すのはとても惜しい。


「……」


しばし頭の中で考えた後、俺は静かに枕を戻す。エーヴァルトにびしりと忠告した。


「いいか!絶対に手ぇ出すなよ!」

「出しませんよ。貴女に手を出すほど困っていません」


彼はこちらを見もせずにしれっと答える。が、相変わらず奴の心の中は大惨事だ。


〈うわ…。何があったかは知りませんが、急に警戒心を剥き出しにされるのもまたグッときますね…〉


「…どうしよ。死ぬほど信用ならない…」

「は?心外ですね」


思わず本音を漏らすと、エーヴァルトがやっと顔を上げた。憤慨した様子で口を開く。


「大体、これまで触れたことすらないのに、何故急にそう言う思考になったのか謎です」


まあ確かにそうだ。フリとは言え、俺達は新婚夫婦。これまでいくらでもチャンスはあった筈なのにエーヴァルトが少しも手を出してこなかった実績は確か。理性的で我慢強い男であることは間違いないらしい。


(意外と信用できる男なのかも…)


「……」


(枕元に置いとこ…)


とりあえず、室内を漁りなるべく硬くて握りやすそうな置物を手に取る。両親が結婚の記念にと作った、ハート形の台座の上で俺とエーヴァルトが抱き合ってるクソ要らないやつ。


「いざと言う時はこれで殴って殺す…」

「だから何もしません」






「……」

「……」


消灯時刻。広いベッドの両脇に横たわるのは、俺とエーヴァルト。この態勢もこの沈黙もいつも通りの筈なのに、今日の俺だけはいつも通りじゃなかった。


(いつもなら速攻寝るのに…!)


寝付きの良さ選手権世界大会があれば、俺は間違いなく優勝候補として名前が挙がる自信がある。しかし、エーヴァルトの本心を知ってしまった以上、これまでと同じようにとはいかない。頭いっぱいに鳴り響くのは警報。ほんの少しでも触れてきたが最後奴の脳天をかち割ってやろうと、俺は不快な置物をお守りのように握る。


〈…アルマ〉


「!」


時間が止まったかと錯覚する程静かな室内に、突然例の声が響いた。同時に衣擦れの音がして、俺はびくりと震える。


〈今日も、こっちを向いてはくれないんですね…〉


ふうと息を吐く音が聞こえた。


〈最初は素っ気ない反応がただただ新鮮で。貴女と会うことが日々の楽しみになって。そしてたとえどんな手段でも、他の男にだけは渡したくないと思ってしまった〉


奴の腕がこちらに向かってシーツを滑る音がして、再度震える。布団の中で置物を握り直す。しかし、伸ばされた手は途中で止まった。


〈たとえ触れられなくても、この想いが届かなくても良い〉


事実、エーヴァルトはそれ以上近付いても、触れてもこない。ただ秘められた本音が、静かな部屋に落ちる。


〈俺は、ただ、貴女の傍に〉


「…おい」


声を掻き消すように、俺はごそりと音を立てて動く。エーヴァルトを睨み付けた。


「こっち見て、寝んな」


すると彼は珍しく少し驚いた様子で、小さく頷いた。


「…はい」


それを確認し、もう一度エーヴァルトに背を向ける。


〈今の顔、かっっっわ…!!〉


例の声を背後に聞きながら、俺は無言で布団を引っ張る。たぶん、いや間違いなく。酒のせいで熱い顔を覆った。

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