赤色


 夕刻の食事を済ませたあと、俺は家を出た。

 夜遊びの趣味はない健全な息子なので、母親も気味がったのだろう。珍しく、「どこ行くの?」と行先を訊いてきた。

「大学」

「こんな夜に?」

「まあ……ちょっと」

 一瞬だけ、目元に皺を寄せたが、「車に撥ねられないようにね」と物騒な忠告だけを残して玄関から去っていった。深堀ふかぼりされてたら、たぶん答えあぐねていたはずだ。ホッと一息ついて、暗がりの世界に飛び出していった。

 まだ冬の肌寒さが残っている。白いパーカーの上にデニムジャケットを着てきて成功だった。ちょうどよい体温を持ちながら、歩いて大学へと向かう。普段の通学は自転車で通うつもりだが、なんとなく漕ぐ気に慣れなかった。まあ、散歩は好きな方だ。歩いていれば、いずれたどり着く。

 静まり返った住宅街。緑の網で囲まれた小学校のグラウンドが見え、電灯の落ちた建物を通り過ぎるとき、霊的な薄気味悪さを感じた。怖くはない。が、好んで近づきたくはない。早足になって、先へと道を進んでいった。

 地元最大のプラットホーム・中城駅の北側に差しかかる。高層ビルはほとんどないが、一軒家が多く建ち並ぶ住宅街だ。服の温かさに身を委ねながら歩いていると、ふとすれ違いざまの人影を感じた。

 俺は思わず二度見してしまった。道路の反対側、暗い夜道にひときわ目立つ赤色の人間たちが群をなしていた。年齢層は二十代前半か。複数人で徒党を組んでいることもさながら、赤い上着、赤いズボン、赤いハチマキで統一していて、さながらスポーツチームのファン集団であった。

 数秒ほど眺めていると、ふとその中の一人と目が合った――気がした。俺は咄嗟に目を地面に向ける。心の奥底でひぇぇえとけたたましく叫び、恐怖心に怯えた。襲撃と暴行のダブルストロークはまずい。咄嗟に猫背になり、祈りながら赤色集団とすれ違った。

 俺は無事だった。何事もなく、台風は過ぎ去った。

 まったくだ。自分の行いが馬鹿らしくなり、肩をすくめる。

 この街の平穏まで、もう少し時間がかかりそうだ。

 


 

 大学の正門に到着する。

 当然のように、門が閉められてあった。あたりを見渡したが、守衛らしき人はいない。俺は住居侵入罪を犯すつもりはないが、母親に外出の旨を伝えたという上、家にも戻りずらい。

 勢いよく、門の柵を横に引いた。なんの抵抗もなく開けてしまい、俺は拍子抜けする。よくよく校内を眺めれば、建物のところどころに電気が灯っていた。なるほど、まだ閉門の時間には早いというわけか、と防犯意識の薄さに助けれた。

 ムサノーは、都内大学のなかでも緑が多い。正門から左右に連なる大きな木々もその一つだが、いまは夜の暗がりにまみれて連結した黒い化け物のようだった。正面には、歴史の深さをイメージさせる本館が迎えている。

 俺は先輩からのメモを頼りに、キャンパスを闊歩していった。

 複雑さはあまりないが、未開のキャンパス奥に行き先が示されていた。道なき道を進み、建物の間を抜けること数分でたどり着く。その建物は小ぶりな集合住宅のような形をしていて、四階建ての部屋たちが横に伸びていた。入口に足を踏み入れると、自分の足音しか音が聞こえなかった。

 三階まで到着し、渡り廊下で隣の建物へ移動する。 

 入ってすぐ、右に折れた奥の部屋。暗い。廊下には、一切の電灯がない。俺はスマホのライトを使って、足元を照らす。そして扉に近付いて、面に書かれている文字を照らした。

『89の会 会室』

 ビンゴ。俺はスマホの電源を落として、手をこすり合わせた。任侠か、それとも宗教か。逃げるには、もう遅い。手のひらの汗を拭って、ドアを二、三回打ち付けた。

 小さく、静かな空間にノックの音は反響する。

 しかし、反応が来ない。ああ、まったくだ。約束をすっぽかされたのは俺のほうだったのか。馬鹿馬鹿しい、くうだらないと足を半回転しようとした。

 その瞬間、ドアノブの開く音が俺をつんのめらせた。隙間から明るい光が漏れ、人間の息吹を感じさせる。握りしめた手のひらに、強く力が入った。

 が、開かれた扉の前には、得体の知れない人間が立っていた。

 猛犬のような目つきと薄情そうな唇の薄さ。黒い上下のスーツから、ワインレッドのYシャツを覗かせる。

 そしてなにより、背中の後ろにキラリと光る刃を掲げていた。そう、まるで紫のマントを着た死神が所持する、鎌のような形状をしている。鎌ほど細くはない――どちらかといえば、斧といったほうが正しいかも知れないが――。

 男は斧を肩にかけ直すと、猛犬の目つきで俺を睨みつけた。

「……誰だ」

 ダメだ。殺される。この時、俺はそう確信した。


               


 死が近い。周の病室がフィードバックされる。俺も、その隣に冷たくなって寝てしまうことになるのか――。

 鎌を持った男は、この世のものとは思えないほど、鋭い眼光をしている。遺言の代わりとばかりに、唾を飲み込んで動きの鈍い喉を鳴らした。

「広津留です。倉知先輩から聞かされてここに来たんですが、どうやら俺の勘違いだったみたいですね。すみません帰りま――」

「おい、待てや」

 足が固まる。だよな、そう簡単に逃げられるようなら、ヤーさん方は善良な市民として迎え入れられるはずだよな、と。

 男は腰を曲げて、俺に顔を近づけた。この距離で分かったが、宝石のような綺麗な目ん玉を持っていた。

「オレは聞かされてねえぞ。てめえのことなんざ」

「……そういわれましても」

「んだと、おらぁ!」

 どすの利いた声が、鼓膜に突き刺さる。迫力があるなんて感想を呑気にいえるものじゃない。逃げろ、と本能が呼んでいる。戦闘よりも逃亡だろうが。

 そのとき、「ん?」と男の表情に変化があった。何かに気付くようなものだ。

 次の瞬間、男は中から出てきた別の人間に絞められていた。ほんの一瞬だった。手に持つ斧をうまく避けながら、別の人間――こちらも若い男――は、腕で首元をぎゅうぎゅうと締め付けていた。明らかに、人並み以上の武道を極めている人の技術と動作だった。

「やぁ、ごめんねー」

 締め付けているほうの男が、顔を見せた。

「この人、ちょっと思い込みが激しくてね。広津留君でしょ? 話は聞いてるよ」

 彼は柔和な笑みを浮かべていった。優男にふさわしい綺麗な顔立ちをしているが、いま繰り広げられている強烈な関節技の主とは思えない。見た目とやってることの振れ幅が大きすぎだ。鎌の男は顔を真っ赤にしていた。

 俺は声も出せなかった。果たしてこの場で「ありがとうございます。助かりました」と感謝の意を伝えるべきなのか。それがTPOに適していると断言できるのか、俺には判断しかねた。ただ小さく会釈をするだけで、「ぎぎぎ」と唸る声と擦れ合う音の横を通り過ぎた。

 小さめな部屋の中は、会社のようなデスクとパソコンが並んでいる。建物の端ということもあり、窓が長方形の部屋の二辺にわたって取り付けられていた。壁の脇には戸棚が並び、ファイルに閉じられた資料が並んでいる。

 デスクの一つにパソコンを叩いている倉知先輩がいた。

 目を合わせてきた。無言のまま二、三秒見つめ合ってしまう。

「よお。君が、例の?」

 例のです、と脇から現れてきたのは、大きな男性だった。長身と筋肉質で、肩幅も広い。フライトジャケットとカーゴパンツという組み合わせは、なんともラフな格好である。

 男が二ッと笑う。縦に長い顔と、肉厚な皮膚。前髪が天井に伸ばされ、大きな額があらわになっていた。

「初めまして、広津留拓といいます」

「おれは神川かみかわ。普段は大学の職員だけど、いちおうここのリーダーもやってる。よろしくな」

 大人が統率しているのかと疑問符を打ったが、そういえばアルバイトも兼ねているんだったなと思い出した。

 差し出された手を握り返す。大きくて、温かい手だった。

「んで、そこの暴れん坊が二年の白岡しらおか。締め付けているのが、清瀬きよせ。中城警察署の巡査部長だ」

 白岡が睨みを利かし、清瀬は笑顔で手を振った。生徒はともかく、警察官がこの場にいるのか。確かに清瀬は、上下ブルーのスーツに赤茶色のネクタイをしていて、この中で最もフォーマルな服装だった。

「ほら、清瀬。そこらへんにしてやれ。窒息死するぞ」

 神川の言葉に、ようやく首から腕を解いた。解放された白岡は、この室内にある酸素をすべて肺に入れるかのごとく、深呼吸をめいいっぱいに繰り返した。足がふらついているが、斧を杖代わりにしてなんとか立ち上がっている姿は、勇猛な戦士を彷彿とさせていた。

 さきほどの混乱から冷静になって眺めると、あの斧は西洋の戦斧せんぷだ。確か名前は、ハルバード。俺も男の子の端くれで、武器には多少目ざといところがある。

 しかし現代社会に、さもなくばすぐ隣には法治国家に忠誠を尽くすべき執行官がいるというのに。いや、隣に警察官が張っているからこそ銃刀法は成立しないのか。たぶん。

「揃ったわね」

 宣言して、倉知先輩が座席から起立する。待て。まず、訊かなければいけない。

「先輩」

「なに?」

「いいかげん教えてもらいたいです。ここはなにを目的として活動しているのかと」

 少々、冷静さを失いかけていた。口が滑るように動く。

「そうね。焦らしても意味はないし」

 無表情を保ったまま言葉を繋げた。

「89の会は、一種の採掘サークルよ」

 息を呑んだ。先輩は続ける。

「ただし、主として治安維持を目的としている。公的機関――ムサノーの本部と中城警察署からの要請という建前で。いうならば、『極秘公的採掘サークル』よ」 

「極秘……ですか」

「ええ。表立って活動報告をしているわけじゃない。基本的に身内以外は89の会の存在すら知らないはずだわ」

 ん、おかしい。俺は、スルーしようとしたところに、頭を働かす。

「それじゃ、なんで『採掘サークル』なんていう名を付けるんですか。普通に『警備サークル』とかでもいいじゃないですか」

 すると先輩は、ふっと息を漏らした。「愚問だ」とでもいいそうな表情からようやく俺は気付く。まさか、と。

「決まってるじゃない」

 倉知先輩は、鋭く目線を向ける。

「『三億円』の在処ありかが判明したら、私たちも奪いに行く。それだけの話よ」

 なるほど。俺はとんでもない場所に来てしまったようだ。

 笑いが漏れてしまう。呆れの吐息が、曲げた口の間から吐き出された。

「広津留君は、主に作戦計画と事務作業をやってもらう。要するに、頭を使ってもらう仕事ね」

 雑用でしょ、とはさすがにいえない。

「それで、お金がもらえるなら」

「ええ。ちゃんと給料は発生するわ。ただ、89の会は君を入れて六人しかメンバーがいない。緊急時には、戦ってもらうことになるだろうけど」

「戦うって……えっと」

「んまあ、喧嘩の類だ」

 神川が横から入ってきた。大きな手のひらを、俺の肩に乗せる。

「そんな気負う必要はないからさ。おれらが中心となって戦うんだし。まあ、できれば戦闘員になってほしいっていうだけで」

「はぁ……そうですか」

 なんともいいようもない不安を感じる。ここ中城市は、いまやゴールドラッシュ参加者の大舞台である。得体の知れないヤクザ集団、学生サークル、無法者、前科持ち。はたまた公権力を靡かせる人まで。それは三億円――現在の紙幣価値でいえば、20億から30億にまで上るといわれる「金塊」が呼び寄せている。

 同じ目的を持つ者同士が相まみえるとき、血と肉がぶつかり合う戦闘は必然だ。

「中城市は広い」

 先輩は細い腕を組む。「いつどこで、誰が三億円を掘り当てるのか。札束発見から三年経って、終息気味な雰囲気も出ているけど、いまだ多くの採掘者集団が張り付いているのが現状よ。89の会会員として、いかなる情報も察知し、怪しげな集団に目を見張ること。そして、すぐに伝達をすること。覚えておきなさい」

 はい、と小さく返事をする。真面目な口調で説教されてしまった。先輩って、もう少しフランクな人だと思っていたけど。俺の勘違いだったようだ。

 あ。「怪しげな集団」ということで、思い出した。いや、あれは本当にただのサッカーチームかなんかじゃないのか? まあ、早急に連絡すべしと教えられたばっかりだし。

「そういえば、駅前で赤い集団を見ましたよ」

 何気なくついた俺のセリフ。

 さっと全員の目の色が変わった。

 え? と俺はすぐに自分のセリフを反芻はんすうした。変なことはいっていないはずだ。駅前で、赤い、集団、見た。なんだっていうんだ。清瀬が一目散に近くのパソコンに飛びつく。まさか、89の会で禁句とされている単語を発言してしまったのだろうか。

「おい」

 白岡が、つかつかとにじり寄ってきた。

「それはいつだぁ!」

「……さほど時間は経っていません。二十分ほど前」

 ドキドキしながら答えると、「チッ」と舌を一回打った。

「あー、いるね」

 清瀬が声を上げた。「ネットでも目撃情報が多数。中城駅周辺。写真あり。『朱禮塵しゅらいじん』の可能性大。現在も市内移動中」

「どうするんだよ、倉知」 

 白岡の問いに、先輩は「そうね」と顎に手を当てて考える。

「神川さん。『朱禮塵』を取り逃がすと、また厄介です。いますぐにでも動員して、検挙するべきだと思います」

「そうだな。武器の準備は」

「三分あれば」

「よし! 決行だ。すぐにとっちめるぞ」

 神川の掛け声に、みな総じてせかせかと動き出す。え、と俺は固まった。どうすればいいのか? 皆は揃って、会室から飛び出している。さては、俺も帰っていいのでは。

「あ、広津留君」

 部屋を出ようとした先輩が、俺を呼ぶ。

「付いてきなさい」

 嘘だろ。

「俺に死ね、というんですか」

「馬鹿なこといってないで」

 冷たい口調で、突っぱねる。

「それとも、簡単に死ぬほど君はヤワな人間だったっけ?」

 ああ、この先輩は。どうして、俺を危険な崖まで背中を押し続けるのか。意味不明だ。

 前髪を雑に掴んで、不平不満の思考を誤魔化した。




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