最終話

「……」


 夏休みが始まってから、すでに2週間が経過した。


 外で鳴く蝉の声は一層大きくなり、もう少しでお盆がやってくる。


 すると突然ドアがノックされ、麻耶の響く。


「お兄ちゃん! まだ部屋に篭ってるの!? いい加減出てきてよ!」


 もう、何日も聞いている妹の声だったが、こちらも日を増すごとに怒りが混ざっていくのが分かった。


 そんな麻耶に悪いとは思いつつも、俺の体は起き上がりたくないと、お昼を過ぎてもまだ、背中をベッドに預けていた。


 ドアの向こうで盛大なため息が聞こえて、「お兄ちゃん、もう立ち直りなよ」と、足音が遠ざかっていく。


 その間、俺はまたコト姉のことを思い出して、目を腕で隠した。


 …分かってる。もうコト姉が戻ってこないことも、いい加減立ち直らなくちゃいけないことも。


 でも、コト姉がいなくなったのは、俺のせいなんだ……。


 はぁ、とため息を吐いて、顔の向きを変える。枕のすぐ横の一通の手紙に目を向けては、


「何が、うまく幸せになってね……だ。ふざけんな」


 小さく呟いた言葉は、生ぬるいクーラーの風に消えていった。



 

 そのメールが来たのは夏休みが始まってから3日後のこと。なんかコト姉、ライン見てくれないなぁ。なんて思っていたお昼時だった。


「お兄ちゃん! メール見て! ヤバみ!」


 リビングでテレビを眺めていると、2階から麻耶が階段を駆け降りてきて、俺にスマホを押し付けてくる。


 そんな麻耶の手からスマホを奪い取ると、画面に目を向ける。


「何だよ、そんなに慌てて……」


 そこで俺の言葉は止まった。学校から送信された、たった10行にも満たないその文章を何度も読み返した。


『深緑琴音先生は、都合により、急遽転任となりました』


 ドッと嫌な跳ね方をした心臓と、ジワリと浮かぶ脂汗。


 その間、頭に浮かぶのは大きな疑問と、あの日ごめんと言いながら涙を流したコト姉の顔。


 そしてやっと理解が追いついた脳が俺の口を動かす。


「嘘だろ……コト姉……」


 そう、息が漏れるのと同時に、体は勝手に玄関へと向かっていた。


「お兄ちゃんどこ行くの?」


「……決まってんだろ、コト姉のマンションだよ……あと、これ返す」


 靴を履き終わると、スマホを麻耶に返す。心配そうな麻耶の表情を横目に、玄関の扉を閉めた。


 その後、炎天下の中、ただひたすらコト姉の家に向かって走った。顎から垂れる汗も、匂いも気にせず。


 ただ、いつも通り玄関を開けた先に、コト姉がいて欲しかった。


 だけど。


 インターフォンを鳴らす。だが一切玄関が開くことはなかった。どんどん、扉をノックしても結果は同じ。


 もしかしたら、学校に行けば何かわかるかもしれない、そう踵を返した時だった。


「あの、もしかして海野さんですか?」


 長いマンションの廊下、階段を降りようと振り返ると、40代ぐらいの女性にそう声をかけられた。


 俺は短く「はい、そうです」とだけ返す。


「そう……あなたが」


「……あの、俺がどうかしました?」


「あ、ううん、そういうわけじゃないの。実はね、ついこの前うちを退居した女性から手紙を預かってて」


 そう鞄をに手を突っ込み、一通の手紙を取り出すと、女性は俺に差し出す。


 受け取ったその手紙には、優しい文字で『翔くんへ』と書かれていた。


「え……これ」


「うん。前のすごく美人な女性の方がね、もしここに海野翔って人が来たら渡してくださいって、頼まれたの。身長が高くてカッコいいからすぐ分かるって言ってたわ」


 それだけを言うと、女性は「それじゃ、失礼するわね」と、小さくお辞儀をして階段を降りていく。


 一方俺はその手紙をゆっくりと開いた。


 ……。


 ……。


「……っく、コト姉……」

 

 簡潔にまとめられた手紙には、さよならを言えなくてごめん、と言うことと、行き先は教えられないこと、決して俺のせいじゃないから、責めないでほしいこと。


 そして。


『うまく、幸せになってね翔くん』


 そう、終えられた手紙の上に涙がこぼれる。


 そうして、俺の好きだった人は、2度も俺の前から消えたのだった。




「……」


 今日もまた、一日をベッドの上で過ごした。


 麻耶が作ってくれる料理も、喉を通す時と、通らない時が交互にやってくるようになった。


 そして、今日はその喉が通らなかった日。


 真っ暗な部屋の中、窓の外の街灯がやけに眩しく見えた。


 部屋の外の足音は、俺の部屋のドアの前に来ると再び遠ざかっていく。きっと麻耶が夕食を下げてくれてのだろう。


 もう、申し訳ないとか情けないとか、そんな感情は一切なかった。


 音も匂いも、何も感じなくなった。


 世界から色がなくなった。


 もう、生きたくなかった。


 だけど、不思議と眠気と言うものはしっかりやって来るもので、俺の瞼は徐々に下がり始める。


 もうこのまま目が覚めることなく、朝を迎える頃には死んでいたらいいのに。


 そう思いながら、そっと目を閉じた。


 

 夢を見た。


 桜が咲く公園を、コト姉と手を繋いで歩く夢。


 彼女がそっと笑えば、俺とコト姉の顔の間を桜の花びらが、ひらりと落ちて。


 サラサラした彼女の手に、きゅっと力が入って、心臓が小さく跳ねる。


 心地よくて、まるで楽園にいるかのように心が軽い。


 この先もずっと、こうやって隣を歩いて行きたい。そう思いながら、桜並木を歩いた。


 ……。


 その後は、コト姉の住むマンションに行って、二人で一緒にご飯を作って食べた。料理上手な彼女には勝てなかってけど、ずっと「美味しいよ」と笑ってくれた。


 ……。


 二人で、ベッドの上でキスをした。


 大胆に口の中で動く舌を押し返すように、俺も彼女の口に舌を入れた。


 絡めあって、愛し合って。


 あぁ……幸せだな。


 そう、思った。そして、体を重ねた。


 しっとりした肌と、硬くなった胸の突起物を優しく撫でる。


 愛おしい、ずっとこのまま触っていたい、見ていたい。


「ねぇ、翔くん」


「ん? もしかして痛かった?」


「うんん、そうじゃなくて」


 ふふっと、赤く蒸気した頬を持ち上げる。


 どこか、涙が浮かんでいるようにも見えたその瞳が、俺を捉えて離さない。


「私の名前、呼んでみて?」


「え、コト姉」


「そうじゃなくて……」


 ゆっくりと彼女の顔が近づき、俺の口を塞ぐ。


 再び、彼女の顔が離れると、口を開いた。


「ちゃんと、琴音って呼んでみて?」

 

「……あぁ。そう言うことか。ことね……琴音」


「うん。翔くん」


「琴音、愛してる」


 そう、言った瞬間だった。




「——はっ!」


 目が覚めた。


 青白い天井と、寒いくらいに効きすぎているクーラー。


 どくどくと重苦しいテンポで血液を流す心臓は、無情にもここが現実であることを認識させた。


 ……だけど。そんな俺にやってきたのは、落胆の気持ちや、寂しさなんかではなく。下半身への違和感だった。


 なんか重いっていうか、人肌を感じる。


 最初は金縛りの類かなとは思ったのだが、普通に体は動くし……。


 それじゃあ、これは……。


 生唾を飲み込み、意を決して視線を下げる。すると、


「……あ、起きちゃった? おはよう……いや、こんばんわ。お兄さん♪」


 下着姿の葵が俺の腰にまたがってた。


 訳がわからず、「は?」と素っ頓狂な声をあげる。


 すると、薄暗い中で儚く光る、青い瞳を細めては、


「ふふっ。もしかして夢って思ってるでしょ? 現実だよ……んっ」


 そう華奢な声で言うと、彼女の口が俺の口を塞ぐ。


 唇を割って入ってきた葵の舌が、ヌルヌルと口の中を動き回って、お互いの唾液を絡めていく。


 そして、吐息と一緒に口が離れると、葵の顔が離れていく。薄い唇からは、白い糸のような物が引いていた。


「ほらね? 現実でしょ?」


「いや……てか、なんで葵がここにいるんだよ」


「あれ、聞いてないの? 今日麻耶ちゃんとお泊まり会するって、約束してたんだぁ。だから、今日はお兄さんと一緒にいられるね♪」


 嬉しい。と俺の胸元に頭をぐりぐりと押しつける。そんな葵の髪の毛からは、甘い香りが漂っていた。


 だけど、すぐにコト姉のことを思い出して、はぁ、とため息をつく。


 そっと葵の肩に手を添えると、ゆっくり彼女を押した。


「……ごめん、どいてくれ」


 しかし。


「……やだ」


 そう小さく呟いた瞬間、俺の手を払い除け、無理矢理唇を押しつける。


 荒っぽい吐息と、粘ついた唾液が脳を少しずつバグらせていく。


「んっ……はぅ……んっ、お兄さん……」


 甘い匂いと、少し汗ばんだ柔らかい感触。喘ぎのような吐息の合間に、魔性的な声で俺を呼ぶ。


 そんなねっとりとした甘い快感に俺は、どんどんおかしくなっていくのが分かった。


 あれだけ頭から離れなかったコト姉のことが、今だけは考えられなかった。


 初めて、コト姉としたキスや、気づいたら夜が開けていたベッドの上でのこと。一緒に行った、浅草や海での楽しいと言う気持ちや、ふとした時に思っていた、

『やっぱりこの人のこと、好きだな』って感覚も全部。思い出せなかった。


 やがて、押し返そうとしていた手から力が抜ける。


 ただ、目の前の快感に身を任せてみたくなった。


「はぁ……はぁ……ふふっ、お兄さんかわいそう。こんなに痩せちゃって……そんなに、琴音先生のこと、好きだったんだね」


「……」


 ……あぁ、そうだったっけ。好きだったな、コト姉のこと。


「ねぇ、お兄さん」


 すると突然、葵が身につけていた下着を脱ぎ始めた。いつだったか、脱衣所で見てしまった時よりも、その身体は魔性的に映る。


「私で忘れさせてあげる。その辛い気持ちも、琴音先生と過ごした幸せな時間も。全部、私が上書きするぐらいお兄さんを幸せにしてあげる」


 そう言って、ゆっくりと顔を近づけては、


「……ごめんね。汚くたって、醜くたっていい……壊れそうなぐらいあなたが好きなの。だからさ、私としちゃお? セックス」


 そう、甘い吐息を吐いて、キスをする。


 どくどくと跳ねる心臓と、とっくの昔に出来上がってしまっている俺のもの。


 そして。


「……忘れさせてくれ……葵」


「うん。忘れさせてあげる……んっ」


 小さな水音と共に、生暖かい感覚に包まれる。


 幸福感と、快感。


 ベッドのスプリングが跳ねるたびに、お互いの吐息が混ざり合う。


 そして、その度に、コト姉が薄くなっていく。


 ……あれ、なんだろう、涙が……。


「んっ、んっ……お兄、さん……いいよ?」


 一度、生暖かい感覚が消えると、葵が添い寝をするように横になる。そっと俺の頬の涙を華奢な指先で掬うと。


「琴音先生の名前呼びながら、琴音先生にしてみたかったこと、全部しちゃおっか。大丈夫、私なら全部受け止めてあげるから、ほら」


 そう優しくキスをすると、葵の足が腰に巻きつく。


「あ、あぁ……コト姉……コト姉!」


「うん。大好きだよ、翔くん」


 白いシーツの上に広がる綺麗な黒髪と、少しずつ広がっていくシミ。


 目の前の妹の友達に、コト姉を重ねて、体を動かした。


「コト姉……コト姉」


「うん……気持ちいいよ、お兄さん」


 魔性的な声が、さらに意識を深い所へ引っ張っていく。


 軋むベッドの上、お互いの匂いと体液を感じる。


 刹那、セピア色に色褪せた、コト姉の写真が、ひらりと床に落ちた。

 




最終話  妹の友達とセックスした。

 


 


 



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