第45話


 ガコンっ! と大きな音を立ててボールが床に跳ねる。


 数秒の静寂と突如響き渡る、試合の終わりを告げる笛。


 瞬間わぁっと、体育館全体が湧き上がる。


 きっと、体育祭のフィナーレとしては完璧だったのだろう。ダンクシュートの後のピィーと響き渡る笛は、まるで某バスケマンガのそれだった。


 だけど……。


「お兄さん……」


 拍手喝采。歓喜の嵐に包まれる中1人だけ、ぎこちない笑みを浮かべる人物がいた。


 転がるボールと同じゴール下で、スコアボードの方へ向いたまま、手をぎゅっと握る。


 29——57。


 きっと、これが逆だったのなら、お兄さんは笑ったのだろう。みんなが各々喜びを表現する中、1人だけぽつんと、歯を食いしばったお兄さんは、誰の目にも止まっていなかった。



 

「それじゃあ写真撮るよー!」


 そう麻耶ちゃんがスマホをタップすると、私の隣に走ってくる。


 体育祭が終わった後、友達5人と並んで写真を撮っていた。


 麻耶ちゃんと私が属するクラスは特に活躍もなく、感動することも特になかったから、とにかく青春の1ページを意地でも残したかったのだとか。


 スタンドにセットされたスマホがぴかりと光る。


「オッケー、それじゃ確認って、うわぁ……ゲロえも!」

 

 なにそのギャル語……。なんてツッコミを入れかけたが、麻耶ちゃんがこちらに向けたスマホの画面を見て、言葉を飲む。


 夕焼け色に染まる校舎をバックにとった写真は、まるで風景画のような暖かさと、エモさがあった。


「綺麗……」


 私がそう言葉を溢すと、麻耶ちゃんが、「これみんなに送るね!」とグループの方に貼り付ける。


 私もスマホを開くと、送られてきたその画像をもう一度タップした。


 本当に綺麗だった。夕陽色に染まる校舎と、体操着姿の女子が5人満面の笑顔で写っている。なんていうか、この全てがもう帰ってこない青春の1ページという感覚と儚さが、この先、この写真を見たときに心を温かくしてくれるのだろう。


 ふふっと鼻を鳴らし、スマホを閉じようとした時だった。


 手を滑らせ、スマホを地面に落としてしまった。


 麻耶ちゃんが慌てて私のスマホを拾い直すと、「良かった、画面生きてるよ」と、私にスマホを差し出す。


「ありがとう」


 そう、言って受け取ったスマホの画面を見た瞬間、私はハッと息を呑んだ。


 偶然か、それとも何かの間違いか。


 写真に写る校舎の屋上、その人影のところが大きくズームになっており、その2人はキスをしているようだった。


 そしてその2人は……。


「お兄さん……と、琴音先生……」


 見間違えることのないお兄さんの背中と、風に揺られる琴音先生の髪の毛。


 まるで、ドラマのように照らされたキスシーン。


 瞬間、胸をキュッと締め付けられるような感覚が走って、一瞬呼吸を忘れる。


 いろんな感情がぐるぐると頭を行き来した。泣きたいとか、これでいいんだよね? とか、なんで琴音先生なんだろう。とか……。


「大丈夫? 葵ちゃん?」


 私の中の何かが、壊れそうな一歩手前。


 ふと、そんな時。思い出したのは、


 —— 奪っちゃいましょうよ。葵さん。


 そんな、秋葉さんの言葉だった。


「葵ちゃん!」


「……え?」


 大きな声がして、そちらへ顔を向ける。心配そうな顔をした麻耶ちゃんが私に、タオルを差し出した。


「葵ちゃん大丈夫? とりあえず汗拭きな?」


「あ、うん。ありがと」


 そう、彼女からタオルを受け取り顔に押し当てる。ふわりと香る柔軟剤の匂いが、お兄さんと同じ匂いがして、頭がくらっとする。


 私の記憶の引き出しには、ほとんどお兄さんとの記憶しか入っていなかった。


 だからと言って、別に家族が嫌いだったとか、いじめが辛くてとか、そういうことじゃない。その全てが、お兄さんで上書きされている。ただそれだけ。


 声も、匂いも、手の大きさも、ベッドの上では可愛いことも。


 私を助けてくれたあの日から全部、お兄さんの全てが好きで、仕方がない。



 お兄さんが欲しくて仕方がない。


 

 顔からタオルを離すと麻耶ちゃんと目が合う。彼女は私の肩をポンと叩くと、


「とりあえず、保健室行こうか。私もついてくから」

 

 そう、私の背中に手を当てて、ゆっくりと歩き出す。


 だけど私は、


「あ……ごめん麻耶ちゃん、忘れ物しちゃった」


 そう言って、彼女の足を止める。


「ん? 忘れ物? 私とってこようか?」


 麻耶ちゃんのその表情から、純粋に心配してくれているのだろう。だけど、ごめんね、麻耶ちゃん。


「ううん、大丈夫。ちょっと遅くなりそうだから、先に帰ってて」


 そう、言って、私は一人で歩いていく。


 後ろから、「あ、でも……」と小さくなる麻耶ちゃんの声を聞いて、嘘をついてしまった事が心苦しかった。




第45話    後戻りできない

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