第32話

「おはよー、お兄さん」


 月曜日、気怠さが残る昇降口。


 広い背中に声をかけると、その人は振り向き、


「おはよ、葵」


 そう、微笑んで返した。


 海野翔、先輩。


 私を救ってくれたヒーローにして、私の好きな人。


「今日も暑いね」


「あぁ、なんつーか、数年前の夏の認識でいると死にそうなぐらい暑いわ」


 そっとお兄さんは額の汗を拭う。


 もう少しで梅雨が明けるとは言え、まだ6月。だと言うのに気温は既に軽く30℃を、超えてきている。


 今年の夏はお兄さんの言う通り、油断してると本当に死んでしまうかもしれない。私も気をつけなくちゃ。


 するとそんな時だった。


「おはよー葵ちゃん、翔くん。お話しするのは良いけど、チャイムまであと3分しかないぞー」


 と、大人びた声に、思わず肩がピクリと震えた。


 振り返ると、琴音先生と目が合って気まずくなる。


「……おはようございます、琴音先生」


「おはよう、葵ちゃん」


 一方で、気まずさはあるはずなのに、『先生』として、私に接する姿は何だか大人っぽくて、悔しかった。


「おはよ、コト姉。逆にコト姉は遅刻しなかったんだ。偉い偉い」


「えへへ。じゃなくて、こら! 翔くん!」


「やべ、退避!」


 お兄さんはロッカーから上履きを素早く取ると、階段をダッシュで駆け上がる。もう、と頬を膨らませると、私に視線を向けた。


「葵ちゃん、この前は……」


「私もいきますね、それでは」


 踵を返して歩き出す。


 後ろから、あ……という声が聞こえたけど、私は足を止めなかった。




 昼休み。いつも通り自販機でジュースを買って、教室に戻る時に琴音先生が階段を登っていくのが目に入った。手にはお弁当を持っていたから、きっと屋上で食べるつもりなのだろう。


 ふと、今日も、たこさんウインナーは入っているのだろうか。なんて気になったけど、つられて先週に記憶まで思い出して、モヤモヤした。


 そして何よりも。


「なんか、先生とお兄さん仲良かったなぁ」


 先週にはなかった変化。表情の暗い二人が、今日はすごく明るくて、うまく表現できないけど、何だか二人の間にあった壁がなくなったような。そんな感じに思った。


 ていうか。


「お兄さんって、琴音先生の前だとあんな感じなんだ……」


 何だか、すごく楽しそう。


「どーしたの? 葵ちゃん」


「ひゃっ!」


 スッと背中から伸びてきた手が、私の胸を掴む。


 思わず変な声を出してしまった……恥ずかしい。


「もぉー、麻耶ちゃん!」


 手を振り解いて、後ろへと振り返る。すると、


「なんか前よりも大きくなってる……え、うそだよね」

 

 そう呟きながら、麻耶ちゃんは自分の胸に手を当てた。人の胸揉んどいてダメージ受けないでよ……まぁ、確かに測ったら『B』から『C』になってたけど。


「よし決めた、葵ちゃん!」


 私の手を掴むと、目を覗き込んでくる。


「な、なに?」


「私、これから毎日牛乳1リットル飲む!!」


 そう宣言すると、私の手を離して走り出した。


「ちょっと牛乳買ってくるから、先教室で待ってて!」


「あ、うん」


 亜麻色の髪の毛が背中でハラハラと舞う。


「そんなに飲んでも、大きくならないんだけどなぁ」


 麻耶ちゃんの背中が見えなくなると、教室へ歩き始めた。




 放課後。


「それじゃ、また明日ね!」


「うん、また明日」


 そう手を振って別れると、麻耶ちゃんとは反対方向の道を歩き出す。


 日が長くなってせいか、まだ高い位置にある太陽が、額の汗を誘う。


 暑い。ハンカチで汗を拭うとペットボトルのキャップを開ける。


 上に傾けると、ほとんど中身が入ってなくて、なんか残念な感じがした。


「んー、自販機は近くにないし……あ、そういえば」


 帰り道、ってほどではないが、ここから近いところにカフェがあったような気がする。


 スマホで場所を調べると、ここから歩いて5分ほど。


 時間はまだ16時40分。


「行ってみようかな」


 もし良かったら、今度お兄さんを誘っていけるかもしれないし。


 スマホをしまうと、熱されたアスファルトの上を歩き出した。




「うん。美味しい」


 特製チーズケーキを一口頬張ると、程よく香るチーズと、とろりとした甘さに舌鼓をする。


 アイスコーヒーを流し込むと、さっぱりした苦さが口の中をリセットしていった。


 カフェ店内に流れるおしゃれなBGMとゆったりした雰囲気。


 頭上に回る白いシーリングファンが、コーヒーの香りをかき混ぜた。


 意外と学校の生徒も多いんだね、ここ。


 周りを見渡してみると、以外にも同じ制服を着た生徒が勉強やら、スマホをいじっている。


 学校からそんなに遠くないし、ここなら、お兄さんとゆっくりできるかな。


 そんなことを考えている、まさにその時だった。


 カランと音を立ててドアが開いて、お兄さんと琴音先生が入ってきた。


 まるで、『いつもの席』に座るように、二人で窓際のテーブルを挟む。


「今日はどうする?」 


「俺はブラックで」


「オッケー」


 慣れたように注文を済ませて、二人でカップに口をつけて、美味しいねって笑い合う。


 そんな二人が羨ましくて、なんか何かに負けてしまった感じがして。


「……帰ろ」


 半分ほど残ったチーズケーキとアイスコーヒーを食べ残しの台に流し込んで、二人にバレないよう、そっと会計を済ませ、ドアを開ける。


 瞬間、熱風に吹かれて泣きたくなった。


「あぁ、雨降んないかな」



 

第32話 The rainy season is over.



 


 




 

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