第31話

 ムスクだろうか、車の中は甘い匂いがしていた。


「わるい、マジで助かった」


「これぐらい良いよ。まぁ確かにこっちに帰ってきて雨が降ってるなんて思わないよね」


 あはは、と小さく笑って、ウインカーを右に出す。


 江ノ島を出て、約3時間半。今日の天気予報では、関東は一日を通して曇りの予定だったが、こちらは雨がアスファルトを黒く濡らしていた。


 車の窓に張り付いた雨粒に、光が反射してちょっとしたイルミネーションみたいに見えた。


「てか、車運転する時は靴脱ぐんだ」


「あー、これね、ハイヒールだから脱いでるだけ、普通の靴は脱がないかな」


 そんな会話をしているうちに、ゆっくりとブレーキがかかる。


 車は俺の自宅の前に止まった。


「ありがと、なんて言うか今日は楽しかった」


「うん、私も」


 サイドブレーキを引くとこちらへ顔を向けて、やんわりと微笑む。


 その顔にもう一度ありがとう。と言うと、シートベルトを外して、ドアを開ける。そして、足を外に出そうとした瞬間。


「翔くん、忘れ物」


 そう俺の顔にコト姉の手が伸びてきて、近づいてきた綺麗な顔はやがて、


「ん……」


 と言う鼻息と共に、唇が重なった。


 一瞬、何が起きたのか理解ができなかった。


「じゃあね、翔くん。また明後日学校で」


 そう柔らかい感覚と、甘い香りがふわりと離れて、やっと顔に熱を帯び始める。


「……また、明後日」


 そう呟いて車から降りた。濡れたアスファルトに反射したテールランプを見送ると、唇をなぞる。


 するとそのタイミングで玄関が開いて、麻耶が顔を出した。


「おかえりーお兄ちゃん。てか何してんの? 早く入んなよ」

 

「あぁ、そうだな」


 玄関に上がって靴を脱ぐ。


「ん? なんかお兄ちゃん顔赤くない?」


 そう言われて気づく。どうやらまだ顔の火照りが取れていなかったらしい。


 日焼けだよ。そう誤魔化して、脱衣所で服を脱ぐと。今日1日のことを思い出しながら、ゆっくりと湯船に浸かるのだった。




「……」


 そっと唇をなぞる。


 21時50分。ベッドの上。


 ぼんやりと天井を見つめながら、さっきのことを思い出す。


 キス、しちゃった。


 私の好きなムスクの香りの車内。ゆったりとした音楽。


 隣に座る翔くんの横顔が、街灯に照らされるたびに、何だかドキドキした。


 もう少し一緒にいたい。だから本当は、今日は私の家に泊まらない? って、言おうとしたんだけど。何だか急にグイグイ来る女って嫌じゃないかなって、言い出せなかった。


 でも、何だかこのまま手を繋いだだけで終わりたくなくて、


「翔くん、忘れ物」


 そう口が動き出したら、体は勝手に彼とキスをしていた。


 自分でもその行動には驚いた。私って意外と大胆だったんだなって。


 でも、ここで私の方が驚いてしまったら、きっと翔くんは困ってしまうから。


「じゃあね、翔くん。また明後日学校で」


 そう、余裕のある顔をして、車を出した。


 帰り道の途中も、嬉しさと恥ずかしさで、思わずアクセルを強く踏んでしまわないか、心配だった。


 それから、家に着いてシャワーを浴びて。小さいボトルのワインを飲んだ。


 だけど、なんか変だった。


 あれから、もう40分ぐらい経ってるはずなのに、まだ顔の熱が冷めない。


 それどころか、すごいドキドキして、気がつくと頭の中に翔くんのことが浮かんできてしまい……。


「待って、さっきお風呂入ったばかりなのに……」


 パンツに冷たい感覚が帯びていた。


 それを認識した瞬間に、とっとっ。と細かく心臓は脈を打ち始める。ぼんやりとした頭は徐々にいやらしい妄想に切り替わっていって。


「はぁ……はぁ、翔くん……」


 我慢ができなくなって、手が下へ伸びる。


「……んっ」


 思わず体が跳ねた。今までにない高揚感と、とろけてしまうような快感を感じながら、体をくねらせる。


 指を動かすたびに自分から漏れる吐息と、水音を聞きながら、シーツにシミを作っていくのだった。


 指の動きを止めて、顔の前まで持ってくる。


 中指と薬指の間にねっとりとした線が引いているのを見て、


「翔くん……好きだよ」


 そう呟きながら、突然やってきた眠気に目をそっと閉じた。

 


 

 


 


 

 


 






 


 




 


 

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