第30話
土曜日、鈍色の空、早朝6時。コト姉とは最寄りの駅で待ち合わせをした。
前回の浅草みたいに、既に現地……と言うことは流石になかった。
「お待たせ、翔くん」
落ち着いたトーンの替えに振り向く。白色のTシャツに、ブラウン色のチュールスカートの、シンプルで綺麗な着こなしのコト姉が微笑む。
「なんか、うまく言えないけど似合ってる」
「ありがと。それじゃ、早速行こっか」
そう言って。俺の手を引くと、改札へ向かった。
コツコツとハイヒールの踵が鳴る。そうして俺たちは、いつもとは真逆の方向の電車に乗った。
行き先はコト姉しか知らない。でも、今日はどこまで行こうと、コト姉について行くと決めたんだ。
電車が揺れるたび、白い耳元で揺れるイヤリングが大人っぽいなって思った。
『鎌倉〜鎌倉〜お出口は右側です』
電車が止まり外に出ると、ムワッとした湿気が肌に絡みついた。当たり前かもしれないが、気温も随分上がったように思える。
改札を出ると、まだ、街が動き始める前の静けさが残っていた。
時刻は午前8時30分。電車を乗り継ぎ、揺られること約2時間と30分。白い壁に『鳩サブレー』と書かれたお店が目についた。
「小学生以来かなぁ」
懐かしげに、コト姉は呟く。
「そっか、コト姉の時も鎌倉だったんだ」
「うん」
俺とコト姉は高校まで同じ学校に通っていた。歳の差から同時に学校に通ったことはほとんどなかったが、同じイベントを経験をしている……らしい。
昔の自分を懐かしんでいると、コト姉の手が軽く触れる。
「まだお店が開く前だけど、ちょっと歩こうか」
「だな」
口角をぎこちなく上げて、歩き出す。
ゆっくりと小町通りを歩いて行き、途中「幸せのパンケーキ食べたいね」なんて会話をしながら歩幅を合わせた。
風に吹かれて、香る甘い香水の匂い。
いつもなら、うるさいぐらいのコト姉が静かだと、何だかやりにくい。
鶴岡八幡宮の石段を登りお参りをすると、その参道にあった屋台の金平糖を買った。
口の中でボロボロと崩れて、あっさりとした甘さが口に広がる。
鶴岡八幡宮から次に向かったのは、しばらく歩いた先にある長谷寺だった。
この時期紫陽花で有名な長谷寺には、数えきれないぐらいの紫陽花が咲いており、どこを見ても綺麗と言葉をもらしてしまうほどに、青色で彩られている。
紫陽花を堪能した後、再び小町通りに戻ってきて、2人で幸せのパンケーキ……は食べられなかった。10時を過ぎて戻ってきた時には、なんだか行列になっていて、その横にあったお店のカレーを食べた。
「おいしかったね」
「ホント、なんだか意外だった」
「それじゃあ次、行こっか」
そう、口角を上げると駅の方へと歩き出す。
駅の改札を通ろうとすると、コト姉に手を引かれ、「あれ買おうよ」と、発券機を指差す。
『江ノ島電鉄』そう書かれた発券機で江ノ島までのを買った。
木目ばりの床。少しだけ古い匂いのするクーラー。
隣に座るコト姉を横目で見る。
耳元で揺れるイヤリングと、白い横顔。吸い込まれそうな緑の瞳は、傷心してるコト姉には悪いけど、やっぱり綺麗だなって思った。
江ノ島駅を降りて、商店街を抜けるとパッと視界が開ける。
日本人が夏という単語を聞いたら、一度は思い浮かべるだろう。数多の曲や作品の舞台になり、そして何よりも、一年中デートスポットとして名高い江ノ島が橋の伸びた先に見えた。
曇ってしまっているが、やはりビーチには人が多く、駅にもそれなりの人がいた。
そんな中、俺とコト姉が向かったのは『江ノ島水族館』だった。
チケットを買って入場すると、早速色とりどりの魚たちが、分厚いアクリル板の向こうでヒレを動かしている。
「久しぶりに来たなぁ、へぇ〜ホタルイカまで」
そう呟くと、ホタルイカが展示されているガラスに張り付く。
非常にハイスペックな目を持つイカが、その視認情報を処理する脳はなく、まさに宝の持ち腐れをしている生き物らしい。
そもそも、なぜ脳よりも目が発達しているのかも謎らしく、このふわふわしてつぶらな目をしている生き物は、意外と知られてないことが多いのだ。
「よく見ると、なんか可愛いな」
「……ねぇ翔くん」
ん? 所コト姉の方へ振り向く。青い光にぼんやりと照らされたコト姉は、他の水槽へと視線を伏せていた。
左手で右手を握ると、コト姉は静かに口を開く
「私といて楽しい?」
そんな静かな言葉を発したコト姉の横を、「綺麗だね」そう呟きながら手を繋いだカップルが通り過ぎていく。
「ごめんね、私から誘っといてこんなこと……でも何だか、いつもみたいに笑えなくて、せっかく翔くんにも時間を作ってもらったのに、なんか悪いことしちゃってるかなって」
水槽に向けるコト姉の目が細くなる。愁げを帯びた表情に魚の影がかかる。
そんな表情を見ていると、胸がキュッと締め付けられるような感覚に陥った。あの、常に元気で明るいコト姉が本当に傷ついてるんだなって。
でも、いくらコト姉でも、そのセリフだけは聞き捨てならなかった。
「コト姉とだから楽しいんだろ」
そう語尾を強めると、コト姉の手を握る。
ピクリと肩を震わして、こちらに顔を向ける。さながら驚いたような表情をしていた。
「コト姉に何があったかなんて知らない、けど、それとこれとは話が別で、俺はコト姉といられるのが楽しいと思ってる……だからさ」
手を引いて歩き出す。ひんやりとしていて、サラサラしていて。ずっと握っていたくなるような手だなって思った。
コト姉の方へ顔を向ける。
「後は、コト姉が楽しむだけだよ」
にこりと、コト姉に向かって微笑む。
いつもコト姉が、そうしてくれていたように。
「そっか、ごめんね翔くん」
「謝られるの好きじゃないんだけどな」
「じゃあ、ありがと。翔くん」
いつもの声のトーンに戻って、ギュッと華奢な手に力が入る。
刹那、自分からコト姉の手を握ってしまったことに気づくと、何だか急に緊張した。
「すごく綺麗だったね」
ついさっき、俺たちの横を通り過ぎていったカップルが言っていたことを、コト姉が言う。
江ノ島水族館を出て、その横に位置する『白灯台』へと向かっていた。
江ノ島へ続く弁天橋の隣に伸びる、小さな灯台『白灯台』。そこへと続く木目ばりの遊歩道を渡る。
時刻は夕方5時半。左手には江ノ島、右手には富士山が眺められたが、薄い雲がかかっており、ぼんやりとした茜色の雲を背後に、シルエットになっている。
押し返す波がコンクリートの当たって、弾けた。
「今日はありがとうね」
手すりに寄りかかりながら、海の方を見つめる。
サラリと髪の毛が揺れた。
「俺も楽しかったよ、浅草以来だな、こういうの」
「だね。なんか私も、久しぶりに楽しかったかも」
ふふっと心地良さそうに鼻を鳴らして、こちらに顔を向ける。
そんな昔と変わらない笑顔に、思わずどきりとした。
「そうだね……翔くんには話そうか」
そう呟くと、コト姉はバッグから白いスマホを取り出して、画面を見つめる。
真っ暗な画面に映ったその顔は、憂げな表情をしていた。
「それ、この前の」
「そう、彼の……いや、だった、ものかな」
意味深な感じで口を開くと、海の方へと視線を向けて、そのまま続ける。
「彼……陸くんとの連絡用にって渡されたスマホだった。でもこんな物を貰った時点で、もう全部終わってたんだきっと。でもね、それでも昔の彼は優しかったから、もしかしたらって思ってたんだけど、昨日見ちゃったんだ、他の女性とキスしてるところ」
キュッとスマホを握る手に力が入る。その悲しそうな背中を今すぐにでも抱きしめてあげたい、そう思った。
「私だけが縋ってた。いろんな人を傷つけて、自分のことばかり考えて……。でもさ、何でか分からないんだけど、捨てられないんだ……これ」
なんか、馬鹿みたいだね私。空元気な声で海へと言葉を投げる。ざぶんと日時は大きな波が、足場を小さく揺らす。
きっと、今のコト姉にはそうやって、取り繕った元気を出すことが、一番の自分を守る術なのだろう。
震える手を見ていたら、もう居ても立っても居られなくなった。
コト姉の手を引き、自分の方へと引き寄せる。
華奢な体を抱き締めると、香水の甘い香りがふわりと舞った
「翔……くん?」
「俺じゃ、ダメかな?」
その言葉にコト姉の方が小さく震える。
「ありがと、嬉しいけど」
そう、小さく鼻から息を抜いて、離れようとするコト姉を、さらにぎゅっと抱きしめた。
「本気でそう思ってる。ずっとコト姉が好きだった。5年前公園で、コト姉の質問に答えられなかったこと、今でも後悔してるんだ。だから……」
小さく息を吸って、
「今度ははっきり言う。コト姉好きだ、愛してる」
言い切った。5年越しの後悔と本音を。
心臓が早くて、何だか頬に熱を帯び始める。
その間、波の音だけしか聞こえなかった。
「……そっか」
コト姉が小さく呟くと、俺からそっと離れる。
そして、白いスマホを操作すると耳に当てる。
しばらくすると。
「あ、もしもし陸くん」
何を思ってか、コト姉は電話を始めた。それから少しだけやり取りをすると、「伝えたいことがあるんだけどさ」と、声のトーンを落とす。電話越しに男性の声で『ん? 何でも言ってみ?』なんて声が聞こえた。
「私たちさ、もう会うのやめよう」
そう切り出すと、コト姉は俺の方を見て、にこりと笑う。刹那、雲の切れ目から光が差し込んで、オレンジ色の光が綺麗な顔を照らす。
きっと、電話の向こう側では、『なんで? 急にどうしたの?』なんて言われているのだろう。
そして、大きく息を吸って、
「佐藤陸のバカヤロォォー!」
そうスマホに向かって叫ぶと、思いっきり振りかぶって海の方へとぶん投げる。
遠くの方で水飛沫をあげて、スマホが沈んでいった。
「あはは! なんかスッキリしたぁー!」
無邪気に笑う。昔みたいに。
「それじゃあ、帰ろっか翔くん♪」
そう綺麗な手を伸ばす。
綺麗な笑顔と、どこまでも引き込まれそうな緑色の瞳。
「あぁ、帰るか。じゃないと麻耶にキッチン焼かれそうだし」
「あはは、ほんと仲良いね2人は」
「うるせえ」
そう笑いあって、手を繋いで2人で歩く。
「あと、コト姉これ」
そう言ってハンカチを渡す。
きっと自分でも気がついていなかったのだろう。目尻から筋を引く涙が、夕陽に照らされて、オレンジ色に光っていた。
第30話 さよなら、2回目の初恋。
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