第19話

「…そっか」


 小さく彼女の口から息が漏れて、儚げな青い視線が逸れる。


 深夜12時。沈黙の部屋では時計の針の音だけが妙に響いていた。

 

「じゃあさ…」


 華奢な声に鼓膜が反応する。


 上がる視線と長いまつ毛。


 俺を見つめるマリンブルー。


 もう、逃げも隠れもできない。


 「なんで私とシてくれたの?」


 テーブルの上に白い手を置くと、怪訝そうに顎を引く。


「私とシてくれたって事は、少なくともがあったんだよね?それともさ…」


 吐息多めの口調、チラリと視線を動かしては、「本当は、誰でもよかったの?」そう、小さく口を開く。


 そんなセリフに俺は、どんな顔をすればいいのか分からなくなって、バツの悪い顔をしていたと思う。


 でも、俺がどれだけクズでも卑怯者でも、は違う。


「ねぇ…私はそれでも翔先輩が」



「嬉しかった」



 今にも消え入りそうな声を、掻き消す。


 「えっ…」青い瞳を見開いて、驚く彼女に俺は続けた。


「初めて葵からしてくれた時、なんていうか凄く嬉しかった。中学の頃とか覚えてるか?俺さ、結構楽しみにしてたんだ昼休み、何だかんだで、ずっとお前を待ってた」


 上手く言葉を飾ろうとか、何かいいことを言おうとか、もうそういう考えなんてガラスのかけら程もなかった。


 今はただ、思いのありったけをぶつける。


 それでいいと思った。


「優しくて、可愛くて、時々見せる子供っぽい笑い方をするところとか、全部好きだった、だから、卑怯かもしれないけど、嬉しかったんだ。葵が俺のことを好きでいてくれるのも、そういうことをしてくれたのも…だから、誰でもよかった訳じゃない、葵だったから」


 そして、何よりも。


葵を傷つけた」


 本当に、悪かった。


 そう頭を下げる。


 …。


 これでいい。


 葵が俺を責めて、少しでも心に余裕が生まれるのであれば、俺はそれでいい。


 頭がオーバーヒートを起こしたみたいに熱くて、目頭がじんわりと熱くなる。


 …悪いのは、俺だ。


「翔先輩は…」


 小さな嗚咽と、鼻声混じりの吐息。


 ゆっくりと顔をあげると、彼女は涙をポロポロと流していた。


「やっぱり優しい…ね」


「葵…」


 彼女の頭にそっと手を伸ばす。サラサラと手触りのいい感触と共に、麻耶と同じ髪の匂いがした。


「私がキスしたいって言えば、キスしてくれる事も、抱きしめて欲しいって言えば抱きしめてくれる事も、私が迫ったら、翔先輩がシてくれる事も全部わかってた。何よりもそれで、翔先輩が困ってるのも全部分かってた」


 目元をぐりぐりと擦り、俺の手を両手で握る。


「でも、それでも…どんな手を使ってでも、翔先輩に振り向いてもらいたくて、翔先輩のことが好きで…」


 だからね。そう優しく息を吐くと、ゆっくり俺の手を机に置く。


 葵の手の感覚が儚げに消えていった。



「翔先輩は悪くないよ」



 そう、優しくはにかむ。


 俺の手にポタポタと、温かい感覚が伝わる。


「…ごめん、本当にごめんな…」


 白い手が俺の頬に伸びる。目元を親指でなぞりながら。


「なんで翔先輩が泣くんですか?」


 そう小首を傾げた葵もまた、泣いていた。


 二人分の嗚咽と、テーブルに増えていく涙の跡。


「俺がもっと強ければ…葵が傷つかなかったのに…」


「ううん、そんなことないよ、私幸せだっただから、次はそれを先生に分けてあげてよ」


 葵が立ち上がって、俺の頭を抱きしめる。こんなにも感情が出ているのにも関わらず、心臓の鼓動はゆっくりとしていて、俺なんかよりもずっと大人びているなって思った。


「もう私は十分幸せな気持ちを味わったから、翔先輩は翔先輩の初恋をしっかり叶えてください…」


 それが私の、一番の幸せです。


 そんな優しい声に、思わず涙腺が緩みかけたけど、歯をグッと食いしばって、ありがとう。そう、葵の背中に腕を回す。


「ありがとう、葵」


「…それは私のセリフですよ」


 そう耳元で囁く。


 柔らかい感覚と、ゆったりとした鼓動。


 右肩がじんわりと温かくなって、俺は葵の頭をゆっくり撫でた。





 第19話  それでもずっと、好きだよ。





 

 

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