第2章
第16話
「…」
雨の中で、傘もささずコト姉は泣いていた。
深緑、ぬるい湿気とカタツムリ。
青い紫陽花が咲き誇る公園で、一人悲しそうに。
「…コト姉」
彼女を呼ぶ。ゆっくりと首を動かしてこちらに顔を向けると、にへらと笑う。
「あーぁ、見られちゃったかぁ」
そんな風に無理矢理作った唇の形が、苦しくて。
思わずコト姉を抱きしめた。
「…翔くん?」
「コト姉、帰ろう」
「…うん」
冷えたコト姉の手を握ると、ゆっくりと歩き出した。
二週間前。
「ん〜!今日も仕事終わった〜!」
「そっか、お疲れ様」
「仕事終わった〜!」
「いや知ってるわ、てかわざわざアピって来んな」
はぁ、とため息を吐いて鞄を持ち直す。
「んで、何の用だよコト姉」
彼女に視線を向ける。
薄手の白いブラウスに袖を通したコト姉は「えーっとね」と可愛らしく後ろで手を組む。薄茶色のロングスカートがひらりと揺れた。
「この後ちょっとお茶しない?」
「いいけど6時には帰るぞ、じゃないと麻耶にキッチン焼かれる」
「あぁー、麻耶ちゃん料理苦手だもんね…」
うん、了解!と親指を立てて見せる。
「それじゃ私、車だから先行くね」
そう言ってコト姉は廊下を歩き出した。
「って、いやここは、『翔くんも一緒に乗ってく?』って言うところじゃないのかよ」
「え、待って、その裏声私のモノマネ?ちょっと引くわぁ…」
「ちょっとどころがだいぶ引いてるだろ…でさ、外は生憎の雨なので、出来れば乗せていってほしいんですが、いかがでしょうか?」
「ん〜、正直私的にはいいんだけどねぇ、ほら、生徒と絡みすぎると注意受けるから」
と、窓の外に目を向ける。
実際、先生と生徒間での関係で注意を受ける事例もあり、その大体が『教師と生徒の恋愛』だそうだ。
法律上、定められているわけではないのだが、教師と生徒が『体の関係』になることは禁止されている。
「そっか、りょーかい」
そう息を吐いて、鞄を持ち直す。
「ごめん、無理なお願いして、コト姉も気をつけてな」
「うん、ありがと。それじゃカフェでね」
小さく手を振るとにへらと微笑む。
そんな可愛らしい笑顔を見送ると、俺も歩き出した。
もし、コト姉と俺の関係が誰かに誤解されたとして、身の潔白を証明するのは難しい。
仮に俺がその第三者視点で見たとして、『大人と思春期の高校生』が、エッチなことはしてない。と言っても信じないだろう。
だから、そうやってコト姉が積み上げてきたものを崩してしまうぐらいなら、靴と靴下の一つぐらい濡らしてやろうじゃないか。
靴に足を通して、大きく息を吐く。
さ、行きますか。
…。
「俺の傘なくなってるんですけど…」
結局制服までずぶ濡れになった俺は、コト姉に一報を入れ帰宅したのであった。
「あ、おかえりーって、ヤバお兄ちゃん、ずぶ濡れじゃん」
「おう、ただいま…傘がなくなって…っておい」
「ん?」
「お前、この傘どこにあった?」
「昇降口、一個だけ残ってたから可哀想だなぁって、だから持ってきちゃった」
てへっ♪
…お前か。
「はぁ、まあいいや、とりあえず風呂入ってくるわ」
靴を脱ぐとそのまま脱衣所へと向かう。
「あ、そうだお兄ちゃん、今」
「あ? 今なんだよ?」
と、脱衣所のドアを開ける。シャンプーのいい香りがした。
「え?」
華奢な悲鳴の後にしっとりとした黒髪が揺れる。
白くて綺麗な肌と、小ぶりな胸。
綺麗で透き通るような青い瞳がパチパチと瞬きをすると、ハッと息を吸って頭を拭いていたバスタオルを胸に押し当てた。
「お、お兄さん!?」
「うわ! すまん!」
バタン。ドアを勢いよく閉めると、「あちゃ〜」なんて息を吐きながら麻耶が頭を掻く。
「やちゃったねぇ〜事故だねぇ〜」
「…お前、あとでぶっ殺すからな」
ウッヘヘ〜イ、と気持ち悪い動きと笑いを見せるとリビングへと消えていく。
ほんと黙っていれば可愛いことは間違いないのに、どこでバグってしまったんだうちの妹は。
「とりあえず着替えるか」
と次の瞬間。
「待って」
ドアの隙間から袖を引かれる。
「…どうした?」
「…振り返ってくれないの?」
クイっと袖を引っ張られて、心臓がギュッと縮む。
シャンプーの香りと麻耶がつけたテレビを点けたのであろう。お笑い番組の笑い声がやけに聴覚に響く。
「早く服着ないと風邪ひくぞ」
「あ…」
そう葵の指を優しく外すと階段を登る。
その途中、バスタオルを胸の前でギュッと抱きしめるようにして、俯く葵の姿に俺は、「ごめんな」そう小さく呟いて部屋へと戻った。
第16話 雨とシャンプー。
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