第10話

「ね、あのさ…」


「ん?」


 委員会で残った放課後。


 以前よりもだいぶ日が伸びてきたのだろう。俺と美咲だけの教室は山吹色が窓から差し込んでいた。


「あー、なんていうか、委員会関係ないんだけど」


「うん」


「…もしかして今日、香水つけてる?」


 低身長から覗き込むような視線に思わずゾクリとする。


 無論、俺は香水なんてつけてきていない。


 でも、そんな俺から香水の匂いがするってことは、理由なんて…。



『…ねぇ、気持ちよかった?』



「翔?」


「…あ、悪いぼーっとしてた、なんだっけ? 目玉焼きにかけるならと醤油とソース、どっちが美味いかって話だっけ? 俺はソースだな」


「そんな話してないし…てか、話逸らすな」


 まぁ、私もソースだけど。と呆れたようにため息を吐き出すと、『体育委員会』と書かれた水色のファイルを持って席を立つ。

 

「…ま、そうだよね…」


「ん?」


「ううん。翔にそんな美意識あるわけないよなーって」


「え、なにそれ悪口?」


「あぁー安心したぁー!」


 ぐぅーって両腕を天井に伸ばし、ん〜っと唸り声を上げる。


 …てか。


「安心した?」


「さ、帰ろ。あ、最後の戸締まりよろしく〜」


 ばいば〜い♪と、俺の質問には一切答えることなく、教室を後にする美咲。


 1人になった部屋で、『安心した』という言葉の意味を考えながら、自分のシャツに鼻を押し当てる。


「確かに…ちょっと甘い」


 ほんのりと、葵の匂いがした。

 

 



「ただいま」


「んーおかえりー」


 玄関のドアを開けて靴を脱ぐ。


 大きく息を吸い込むと、とある違和感に気がついた。


「肉じゃが?」


 そう呟きながら、リビングに入ると、「御名答!」と言う声が返ってきた。


 揺れるココア色の髪の毛に、思わず目を見開く。


「コト姉…」


「うん、おかえりなさい。翔くん」


 にこりと微笑む。


 長い髪の毛を後ろで一つにまとめたエプロン姿に、思わず『似合ってる』、なんて感想を言いかけて、「おう、ただいま…」と煮え切らない返事を返した。


 つーか、最近も同じようなことがあったような気がするんだが。


「もうすぐできるから、ちょい待ちでね♪」


 なんて、あざとくウインクをして見せる。


 一瞬、心臓が大きく高鳴って、視線をそらした。


「うん。ありがと」


 それに対して、やんわりと微笑んで鍋に視線を移すコト姉。


 そして俺は、ソファーに座っている麻耶に目を向ける。


「…んで、やっぱりお前は何もしないのな」


「ん〜やっぱりマヤは評論家でありたいなぁ〜って」


「そっか、それじゃ今日の朝のホットケーキは何点ぐらいなんだ?」


「んー、難しいねぇ〜、まぁ強いて言うなら…」


「強いて言わなくても0点だ。バカ妹が」


 そんな、会話にコト姉がくすりと笑う。


「相変わらず2人とも仲良いね」


 テーブルの上の大皿。白い湯気の肉じゃが。


「ご飯できたよ」


「はーい!」


 麻耶が勢いよく立ち上がり、席に着く。


 はぁ、とため息を吐き出すと、コト姉と目が合った。


 深くどこまでも深い緑が、やんわりと微笑む。


「ほら、翔くんも」


 エプロンを外して、席に着く。


 隣をポンポンと叩く白い手が繊細で、すごく綺麗だなって思った。


「え〜良いなぁー。マヤもコト姉の隣がいい〜」


「ふふ、麻耶ちゃんはまた今度ね」


 そんな、やんわりと微笑むコト姉の横顔にどきりとしながら、横に座る。


 3人分のいただきますと、弾む会話。


 缶ビールの開閉音。


 美味しそうな見た目の料理と、ちょっぴりしょっぱい味付けのあとに、ビールを流し込むコト姉は本当に大人になったんだなって思うと、本当に手の届かない存在になったんだなって、寂しくなった。


「くぅ〜!! このためだけに生きてる!」


「コト姉人生やっす」


「ふふーん、まだまだ子供の翔くんじゃあ分からないよ♪…って麻耶ちゃんはダメ!」


 そう言って、麻耶の手からするりと缶ビールを抜き取る。


「え〜、マヤも大人!!」


「も〜、じゃあはい、麻耶ちゃんの分ね」


 と、取り出したビール瓶に一瞬、「え?」っと思ったが、よくラベルを見ると『子供のビール』と書かれていた。小さい頃、よく俺もお父さんに買ってもらってたなぁ…それ。


 てか、まだ売ってたんだ。


「わぁ〜!!マヤも大人!!」


「うんうん、大人だね〜」


 その様子を、ニヤニヤとコト姉は見守るのでした。


 …。


 うちの妹が馬鹿すぎる。





「ご馳走様、コト姉」


「うん…。だけど…」


「まぁ、なんとなく言いたい事はわかるよ…」


 そう言い合って、ソファに顔を向ける。


「ぐへ、へへへへ〜お兄ちゃんどーて〜」


「ぶっ◯す。」


「ふふふっ」


「笑うなコト姉」


「…でも、まさか子供のビールで酔っちゃうなんて思わなかった」


 そう呟いて、瓶を手に取るコト姉。アルコール入ってないよね…。とラベルを回した。


「とりあえず運ぶか」


 よいしょと、麻耶をお姫様抱っこで持ち上げる。


 だらりと垂れる亜麻色の髪の毛と白くて華奢な腕。


 数年ぶりに持ち上げた妹の体は、思った以上に軽くて、しっかりと飯食ってんのか?って心配になった。


「ごめんコト姉、皿とかの洗い物任せていい?」


「うん。翔くんは麻耶ちゃんを運んであげて」


「えへへ〜お姫様抱っこ〜」


 はぁ、とため息を吐いて、階段を上る。本当に呑気だな、こいつは…。


「ほら、着いたぞ麻耶」


「ん〜抱っこ〜」


「…いい加減にしろ」


 と、麻耶をベッドに投げる。無言で跳ねる妹はなんだかシュールで面白かった。


「まぁ、ゆっくり寝ろよ」


 部屋の電気を消して、ドアを開ける。


 するとその瞬間。


「ねぇ、お兄ちゃん」


 はっきりとした麻耶の声に振り返る。


 仰向けの体制のまま顔だけこちらに向ける麻耶と目があった。


「なんだよ、酔ってないじゃん」


「…あのさ、最近葵ちゃんと何かあった?」


 その質問に、息を詰まらせるような感覚を覚えて、「いや…なんもねえよ」なんて苦し紛れに答える。


 ふーん。と生返事をすると、寝返りを打って、布団をかぶってしまった。


「そっか…」


「おう、それじゃおやすみ」


 …。


「葵ちゃんさ、明るく振る舞ってるけどさ、すごく繊細な子だから。なんて言うか大切にしてあげて」


 葵ちゃん、お兄ちゃんにベタ惚れだから。


 そう、落ちるように声がフェードアウトしていく麻耶。その後少しすると、寝息が聞こえてきて、ドアをゆっくり閉めた。


 廊下の電球を見上げてため息を吐き出す。


「…わかってるっつーの」


 葵が繊細なのも、俺のことが好きなのも。


 だから、あんなに笑顔を作るのが上手くて。でもそも分、素に戻った時の反動もでかい。


 でも、葵がそうなったのも、俺に責任があって。


 葵が傷つくことをわかっていても、セックスを否定できなかったんだ。


 それを拒んでしまうことで、葵をもっと傷つけてしまうのではないだろうか?


 そんなマインドが結果的に葵を傷つけている。


 それを分かりながらも、そうできなかった俺が悪いんだ。


「…どうすれば良かったんだろうな」


 もう一度ため息を吐き出して階段を降りる。


 その途中、昼休みの葵の表情を思い出して、なんだか苦しくなった。


 



 第10話    察しの良い妹は嫌いだ。



 



 


 


 


 

 


 

 

 


 

 


 


 

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