大晦日の夜に鍵を失くし、公園でそばを食べるだけの話

佐倉真理

前編

 お互いの吐く息が湯気のように立ち昇る。普段であればそんなことに注意を払ったりはしないのだが、今日に限って言えばそんなことすら気にかかるようになっていた。


「湯気を見るとさぁ、お腹空くよねぇ」


 刑部ぎょうぶ先輩の言葉は同意を求めたもの、というよりは彼女自身の感想を出力したものであった。しかも現実逃避のたぐいである。そんなことを僕に言われても何も変わらない。現状の惨めさも、何も変わらない。なのでつい、言葉に棘が混じる。


「それを言ってどうなると言うんです」

「……ああ。君はお腹空いてないんだね」

「空いてますよ。空いているうえで、それを言ってどうなるのかと言っているんです」


 僕はいら立ち紛れの言葉をたたきつけたが、彼女は意に介さなかった。雪に濡れた眼鏡をはずし、首に巻き付けたマフラーでそれを拭く。しかし毛糸では水分がふき取り切れないので、余計に曇ってしまった。「あれぇ?」と間の抜けた声を上げた。


 刑部ぎょうぶまみ先輩と僕は大学のゼミの先輩後輩であった。それだけであれば、それまで深い関係を築くこともなかったろうが、彼女と僕は同じの書店員のバイトもしていて、そういうこともあってか会話をすることが多い。


 刑部先輩はかなり抜けた人物である。

 ゼミの提出課題を忘れるなどは茶飯事。実習室を借りれば鍵の返却を忘れるし、バイトのシフトもしばしば忘れる。僕が「そういえばあれ、どうなってるんですか?」と聞いて「あー……あれねぇ。忘れてた」というやり取りは飽きるほどしてきた。なので、刑部先輩が何を言い出しても大抵のことは驚かない自信がある。


 ただ、今日に関して言えば割とやばい。

 一年最後の日、12月31日の午後。僕と先輩はシフトをいれていた。どうしても、という店長に断りきれなかったのだ。

 大晦日は普段よりも早めに店じまいをするのが恒例だったから、しょうがないかと二人して引き受けることにした。

 来年が近づくにつれ、店内から人の姿はまばらになっていく。時折、ポチ袋やカレンダーを求めて高齢のお客が訪れる以外はほとんど人出がない。有り体に言って暇だった。僕たちは暇に任せて年末に見る番組だのすきなおせちの種類、正月の予定などと言ったどうでもいいことを呑気に語り合っていた。


「……あー」


 そんな中、刑部先輩は声を上げた。くりっとした瞳が虚空を眺め、魂の抜けたような響きの声が僕の耳朶じだを揺らす。いつもの前触れである。この所作が彼女から飛び出した時、それは何かを忘却したサインに他ならない。「今度は何を失くしたんですか?」と僕が半笑いで尋ねると、彼女は「うん。鍵がない」とほにゃっとした笑顔でさらっと言ってのけた。ただ、この時点での僕はあくまで他人事であった。繰り返しになるがこの先輩が何かを失くすということは茶飯事であった。落ち着いて、年始に何か提出したりしなくてはならないことは無いか、行かねばならない場所等は無いかを確認したところ「多分無い」ということだった。


 こうなると、まぁいつもの手段であろう。「寒いですし、僕の部屋きますか?」と聞くと刑部先輩は「ごめんねぇ」と心底申し訳なさそうに同意した。彼女が酔って前後不覚になったりすると僕の部屋に泊まるのはよくあることだった。当初はドギマギしたりもしたが、何度も繰り返されると「しょうがないなー」という感情の方が強くなってくる。

 警察の遺失物届を受け付ける窓口は正月三が日までは閉じている。先輩に心当たりを尋ねると大学に忘れた可能性が高いとのことで、これもやはり三が日は休みだ。鍵を開ける業者に関しては値段を考えると最終手段である。

 となると、まぁ僕の部屋で暖を取ってもらうのが最善だろう……なんて。


 しかし。


「……あ」


 いざ僕のアパートの前まで来た段階で、今度は僕から間抜けな声が漏れ出た。


「すみません。僕も鍵を失くしました」

「あー……そっかぁ。お揃いだねぇ」


 なぜだか刑部先輩は嬉しそうに、そんなことをのたまった。

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