第56話 第九種接近遭遇生配信⑥-碧衣リンの生き様②-

 全てを吹き飛ばしてしまうほどの衝撃。


 深刻な問題だった。

 あんなに苦しみ続けたコンプレックス。

 引退も心を摩耗させて悩んだ末の結論だった。

 その全てが頭の隅に追いやられた。

 目の前にいる碧衣リンをどうにかしないと大変なことになる。

 それしか頭に残らなかったという。


 経緯を聞かされた私は碧衣リン先輩に暴走の神髄を見た気がした。


「急遽行われた虹色ボイス事務所との会談。説得されるのは碧衣リン先輩です。ヴァニラ先輩が事務所側で碧衣リン先輩を説得です。昨日まで引退すると言っていたはずなのに。当時はまだロリコーン事件の最中でした。勢力図からおかしい。事務所もあまりの急展開に大混乱です」


 人間関係はとても流動的でややこしい。

 昨日の敵が今日の友。

 虹色ボイス事務所も予想だにしない事態だった。


「混乱している事務所は『二人って恋愛関係なの?』と確認します。当然ですね。一番重要なことです。二人の回答はノーでした。次に『碧衣リンは黄楓ヴァニラに恋愛感情があるか?』を尋ねました。それもノーです。最後に『ならなぜ婚姻届を?』と質問したら碧衣リン先輩はこう返したといいます」


『責任を取るため。結婚に恋愛感情はいるの?』


「……深いです。ヴァニラ先輩も事務所も二句が告げなくなりました。責任を取る。一生をかけて養う。結婚をそのための手段としか考えてません。同時にとても碧衣リン先輩らしいと思ってしまったのだとか。冗談でもなにかの思い違いなどでもありません。短い問答で本気だと悟らされたのです。碧衣リン先輩はいつでもマジの人です。パないです」


:ヴァニラの引退阻止の裏側

:……さすが我らの碧衣リンだな

:親友に対して初手婚姻届

:俺たちは忘れていたのかもしれない虹色ボイスで一番ヤバい奴が誰かを

:最近大人しいと思っていたら超ド級の事件起こしたあとか

:碧衣リンに大人しいときあったか?

:リスナーの脳内で常識と現実が殴り合ってこそ碧衣リン

:そりゃあヴァニラも引退撤回して事務所に救難信号送るわ

:引退はどうでもよくないんだけど気持ちわかる

:しかも恋愛関係も恋愛感情もない

:結婚に恋愛感情が必要かなんて個人の価値観の問題だと再認識させられた

:覚悟の決まり方や責任の取り方がカッコよすぎて惚れそう

:本当に半端がない


「ヴァニラ先輩に引退して一生養われ続ける覚悟はなかった。なので引退はできません。事務所に引退撤回の旨を伝えて、事務所も断る理由がないので快く了承。でもこれで一件落着とは行きません」


『……ヴァニラが引退しないならよかった。ならあとは私が配信で全ての責任を取る』


「なにをする気だ! と事務所もヴァニラ先輩も止めます。事務所が全部責任を持つし、訴訟の関連もあるから動かないでくれ。最終的に長い長い説得が成功しました。まだロリコーン事件の最中。『碧衣リンが黄楓ヴァニラにプロポーズした』などのスキャンダルが流れたら混乱を招くだけです。各方面仕事にも影響が出ます。そのような理由からなにを言うか予想できない碧衣リン先輩はしばらく配信休止です。進んでいたソーシャルなアイドルゲームの仕事に集中するようにと厳命されました」


:草

:引退阻止を狙っていたなら凄いけど絶対狙ってないだろうな

:碧衣リンはただ責任を取ろうとしただけ

:当時は碧衣リンが錯乱して引退宣言しかねないから配信停止させられたと噂があったけど

:間違ってはいない

:でも錯乱はしてないんだな

:ただの平常運転だから

:碧衣リンが黄楓ヴァニラにプロポーズしたとか流れたらかなり混乱しただろうな

:どうして碧衣リン配信休止になったか納得した

:虹色ボイス事務所の判断が的確すぎて笑える


「碧衣リン先輩を抑えることに成功した虹色ボイス事務所は訴訟に注力します。あの碧衣リン先輩と比べれば訴訟が楽だったとか。ヴァニラ先輩も引退は撤回。だからといって配信再開という気にもなれません。ただ碧衣リン先輩の衝撃が凄すぎてコンプレックスも深刻に考えられなくなったようです。婚姻届が頭をよぎり、悩むのがバカらしくなるそうで」


 これこそが黄楓ヴァニラ先輩の引退阻止の真相だ。

 悩んでいたのは本当だった。幼少のころからのコンプレックスだったのだ。深刻ではないわけがない。

 でもその悩みさえ上回る衝撃的な問題が発生した。

 その問題を解決するために悩みさえ忘れて奔走。すると当初悩んでいたことが小さく見えるようになっていた。


「この話を聞いた翠仙キツネ先輩はお腹を抱えて大笑いです。そしてすぐに動き出しました」


『あぁ……楽しい奴らやな。こんな仲間と二度と巡り合われへん』


「心の底からそう思ったそうです。だから紅カレン先輩を引き連れて活動休止中のヴァニラ先輩宅を強襲しました。人間関係にドライだと思われていたキツネ先輩の行動にヴァニラ先輩は驚きます。でも受け入れました。二期生の仲間が自分のために動いてくれたのですから」


 キツネ先輩も自分が仲間のためになにかできないか悩んでいた。

 なにが仲間のためになるのかわからないから動けなかった。

 そんなときに碧衣リン先輩の婚姻届騒動だ。

 どう行動すればいいのか悩むことがバカらしくなったらしい。


「カレン先輩がいるのです。行われるのはもちろん呑み会です。碧衣リン先輩も交えて何度も二期生で呑み会が行われました。最初はぎこちなく。次第にバカバカしく。ついにヴァニラ先輩が溜まりに溜まった愚痴を吐き出すまでに打ち解けていきます。その言動が面白くてキツネ先輩は今の立ち位置を選んだと言ってました。ヴァニラ先輩をまとめ役に留めておくのは勿体ないと。こうして現在の虹色ボイス二期生の形が出来上がりました」


 ヴァニラ先輩復帰の前日譚はこれにて終わり。

 事件の裏に大事件あり。

 語られなければ勿体ない。

 でも自分たちで語るのは気恥ずかしい。

 だから後輩の虹色ボイス三期生の私に役目が与えられたのだろう。


「ヴァニラ先輩の復帰が私の収益化配信のおかげとの噂もありましたが違います。碧衣リン先輩の覚悟がヴァニラ先輩の引退を止めました。キツネ先輩が動いたから二期生の歯車が噛み合い回り始めました。私の配信がなくても復帰をしていたでしょう。ただ復帰のきっかけになれたのであれば光栄です。微力ながら役目を与えられた幸運に感謝します」


 配信ではわからないだろうが少しだけ頭を下げる。


:碧衣リンの婚姻届でコンプレックスも吹っ切れたのな

:雨降って地固まる……さすがゲリラ豪雨を呼ぶ雨女演歌歌手

:普通ゲリラ豪雨で地固まらんのよ

:地固まるというより全てを洗い流した感じ

:そしてやっぱりキツネだな

:キツネにも影響を与えた碧衣リンの奇行

:そりゃあこんな仲間とは巡り合えん

:率先してお酒やツマミを用意する呑みニケーションの達人紅カレン

:酒の席でヴァニラはお笑い枠転向かw

:話を聞くとアリスの収益化配信がなくても復帰はしていたかもな

:でもインパクトを考えれば二期生が再始動する最高のきっかけだったよな


「さて! 二期生の先輩方の宿題もほぼ終わり。この婚姻届様の供養も面白おかしく終わったと思います。人と人の戸籍を結んで家族にする。そんな本来の役割とは違うかもしれません。でも人と人の絆を繋いで強くする役目は果たしました」


 なんと立派な婚姻届様だろう。

 今までも多くの決意と覚悟を受け止めて、縁を結んできた婚姻届様だ。

 イレギュラーな仕事もきちんとこなしてくれている。


「私がこの婚姻届様をヴァニラ先輩から託されたのも縁があるからです。私がVTuberになろうと決心したのは活動休止中のヴァニラ先輩に復帰を願う応援メッセージを見たからでした。つまりヴァニラ先輩が即引退していれば私はネット社会に失望感を抱いたまま。今も引きこもっていただけかもしれません。つまり真宵アリスの誕生もこの婚姻届様のおかげなのです!」


 果たしてそうなのだろうか。

 自分で言っていて疑問に思わなくもない。

 でもヴァニラ先輩からそう言われて受け渡された。

 ならばそれを事実とする。


「騒動を起こした責任を取るために婚姻届を記載して同性に渡した碧衣リン先輩。同性の同僚から本気の覚悟で婚姻届を渡された黄楓ヴァニラ先輩。もらい事故のような経緯で他人の名前が記載された婚姻届を受け取ってしまった私。全員人生初の婚姻届でした。もちろん見るのも初めてです。人生の転機に用いられる夢の詰まった重要な書類だと思います。こんなに飛び交うことはよくあることなのでしょうか? 引きこもりで人生経験の浅い私には判断がつきません」


:役割違い過ぎるだろ

:役目は果たせたwww

:アリスの誕生の裏に婚姻届あり

:つまり真宵アリスは碧衣リンと黄楓ヴァニラの子供だった?

:やめいwww

:貰い事故w

:あるわけねーよwww

:ない

:VTuber業界では初じゃね?

:まるでVTuber業界以外ならあるような書き方だな


「婚姻届様の偉業を称えたところで処分します。碧衣リン先輩の本名や本籍が記載されているうえに捺印までされている非常にデンジャーな婚姻届様です。処分しか選択肢にありません。もう十分に役目は終えたでしょう」


 シュレッダーの電源を入れる。

 バケツサイズの家庭用シュレッダーだ。

 機密書類を処分するには心もとないのでこのあとベランダで安全を期して燃やそう。


「今から婚姻届様をシュレッダーにかけます。では皆様十秒間の黙祷をお願いします。黙祷」


 ――ジィーーーーーーーー


 婚姻届が裁断される音が配信に響く。

 私も静かに祈りをささげた。

 持って帰って色々記載されている内容を含め婚姻届について調べたのが悪かった。

 必要事項がちゃんと書かれていて他人の手に渡ると悪用されかねない危険物。

 流出すればいつの間にか碧衣リン先輩が誰かの人妻になっていた可能性もあった。

 一応身に覚えがなければ申請を出して無効にできる。バツイチなどにならず婚姻自体なかったことにできるらしいのだが。

 でも怖いので早く処分したかった。

 ようやくである。


「さて黙祷終わりです。これにて婚姻届様の供養と処分も完了です。二期生の先輩方から出された宿題もすべて終わりました。本日は疲れました」


:……黙祷

:その婚姻届を言い値で買いたかった

:やめいwww

:静かに黙祷しろ

:ヴァニラの引退を防ぎ二期生の絆を結んだ婚姻届様の最期だぞ

:すまん欲望が漏れた

:まあこういう奴がいるからアリスも配信で処分したんだろ

:黙祷終了

:たぶん生配信中に記載捺印された婚姻届をシュレッダーにかけて黙祷したのもVTuber業界も初だと思う

:アリスお疲れ様

:おつかれー



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