第55話 第九種接近遭遇生配信⑤-碧衣リンの生き様①-

 覚悟とは。


 不利な状況を受け入れること。

 辞書にはそう書かれている。

 だが漢字の文字通りの意味を持つ仏教用語でもある。

 本来の語源はこちらだろう。

 悟りを覚えること。

 迷いなく物事の道理を受け入れて理解すること。

 現実を受け入れて諦めることが覚悟ならば、物事の筋を通すための迷いのない決意もまた覚悟である。


「この話をするにあたり忌むべきロリコーン事件を振り返る必要があります。不快に思う方は申し訳ありません。けれどヴァニラ先輩から『別にタブーにする必要はないよ。もう吹っ切れたし。所詮前座だし』とのお言葉がありましたので。……実際に前座なんですよ。裏側で起こっていた衝撃的な大事件に比べたらロリコーン事件は」


 前提としてネット上の誹謗中傷や流言飛語は軽く扱っていい問題ではない。

 私も被害者だったからわかる。

 生活を壊し、人生さえも狂わせる深刻な社会問題だ。

 けれど解決したあとまで囚われ続ける必要はないだろう。

 ヴァニラ先輩は今も笑顔で活動を続けているのだから。


「ロリコーン事件。それは虹色ボイス二期生の黄楓ヴァニラを狙った誹謗中傷事件です。詳細は不要でしょう。ヴァニラ先輩はとても可愛らしい声をしています。それは強みでもありますがいい面ばかりではありません。常に他者から異物として扱われた幼少期。高身長となった思春期には声とのギャップから周囲の反応に傷つきます。強いコンプレックスを抱くようになりました。あまり人前で喋りたくない。そう思うほどに人格形成に影響を与えます」


 その苦労を想像するのは難くない。

 特別と差別は紙一重。

 普通とは多くの人がそうあるべきと思い込んでいるだけの幻想でしかない。

 でもその幻想を壊そうとする異物に対して排他的に攻撃されてしまう。

 他の人と違うことはそれだけで選択肢は狭めるのだ。


「それでも声優の養成所に通ったのは特殊な声が受け入れられる職業だからです。どうせ異物として扱われるならば受け入れられる世界に飛び込もう。そこで出会った声優以外の選択肢がVTuberでした」


 色々な役を演じるのも楽しい。

 けれどそれは名前のある役であって自分ではない。

 アバターという自分の分身になりきること。

 身体的にコンプレックスを持つヴァニラ先輩は強く惹かれた。

 夢の形の一つだったから。


「VTuberの世界ならば声に合った可愛らしい小柄な少女に転生できる。そんな憧れもあったと聞いてます。それなのにヴァニラ先輩の想いは最悪の形で踏みにじられました。ずっと抱えてきたコンプレックスを攻撃されたのです。それが忌むべきロリコーン事件です」


:ロリコーン事件か

:本当に吹っ切れているようでよかった

:前座?

:あれを前座と言い切る裏側で起こっていた衝撃的な騒動とは一体

:アリスの声が怖い

:感情が読み取れない無機質な声で語られると余計に……

:ネットの誹謗中傷に関してはアリスも他人事ではないから

:全然前座じゃない件について

:重い

:確かにヴァニラの過去は大変そうだよな

:すでに解決済みだけどマジで犯人許すまじ


「事件の発端は碧衣リン先輩がネット上にアップした写真でした。顔は隠してましたけど親友のヴァニラ先輩とのお出かけ写真です。そこでヴァニラ先輩の高身長が明らかになり、声とのギャップから誹謗中傷に発展しました」


 悪意に鈍かったとは思わない。

 ネットの書き込みなんて一過性のお祭りみたいなものだ。

 どんなネタでいつ爆発するのかなんて予想はできない。


「碧衣リン先輩はヴァニラ先輩の高身長をカッコいいとしか認識しない人です。声とのギャップなんて気にも留めたことがない。いい意味で無頓着。そんな人だからヴァニラ先輩の親友になれた。碧衣リン先輩は自慢の親友を紹介しただけでした。ヴァニラ先輩も写真をアップすることに承諾していました。誹謗中傷に発展するなど思いもしなかった」


 二人の友情は今も健在だ。

 ヴァニラ先輩は本当に碧衣リン先輩のせいだとは思っていない。

 慣れ親しんではいけない境遇だが、人生を連れ添ってきたコンプレックス。

 高身長なのにロリータボイスというギャップ。

 いずれバレると思っていた。

 ヴァニラ先輩は悪い意味で覚悟を決めてしまっていたのだ。

 誰かのせいにすることを考えたことがなかった。

『やっぱり私は受け入れられないんだ』

 頭に浮かんでいたのはそんな諦めだった。


「声質や身長などの身体的特徴を貶し『デカ女に夢中になるロリコンども』など各所で粘着してリスナーも貶める集団的な犯行。その誹謗中傷は先天的な容姿を差別するものであり、商業的にも度が過ぎた営業妨害だった。虹色ボイス事務所も迅速に行動してました。すぐに弁護士を通じて警察に訴えたのです」


 それだけ事態を重く見ていた。

 ネット世界の動きは早い。

 面白がる人が多ければ一日二日で取り返しのつかないことになる。


「それでも遅かった。ヴァニラ先輩はその時にはすでに引退の覚悟を決めていた。いいえ事件が起こる前から決めていたのでしょう。幼い頃からのコンプレックス。身バレして笑い者にされるならばVTuberを辞めてしまおうと」


 だから虹色ボイス事務所もヴァニラ先輩の説得には悲観的だった。

 無理に引退を引き留めても心を壊すだけかもしれない。

 守れなかった責任として事務職でもいいからと、雇用の継続と生活の保障は考えていたという。

 けれど奇跡が起こった。

 碧衣リン先輩のあまりに衝撃的な行動を奇跡を言っていいのかわからないが。

 それでもヴァニラ先輩に引退を撤回させたのは事実である。


「そんな悲壮な覚悟を決めてしまっていたヴァニラ先輩を止めたのは碧衣リン先輩でした。碧衣リン先輩もまた追い詰められていたのです。発端は自分だったから。騒動の責任を感じていました。重い責任を感じていたのです。だから道理を通そうとしました。ヴァニラ先輩を上回る覚悟で責任を取ろうとしたのです」


:碧衣リンがアップした写真が発端だったな

:普通に仲良さそうで親友のヴァニラと言い切っていたからな

:当時はリンが余計なことしたからとか意味不明な叩きもあった

:悪いの誹謗中傷した連中なのにな

:さすがに袋叩きにあってリン叩きはコメント消して逃亡したけどな

:虹色ボイス事務所の法的な動きはほんと早かった

:引退の決意はしちゃっていたか

:ヴァニラ引退を止めたのも碧衣リン

:碧衣リンも情緒不安定で引退宣言するという噂があったよな

:虹色ボイス事務所が碧衣リンを配信休止処分にしたぐらいだし

:アリスの語り口は真に迫っているのに碧衣リンの名前だけで身構えてしまう

:俺もまともな展開が予想できない

:残念という概念の擬人化だからな


「碧衣リン先輩はヴァニラ先輩を止めようとはしていませんでした。どういう経緯があろうと引退を決めたのはヴァニラ先輩です。その発端となった碧衣リン先輩は止める権利すらないと思っていたらしいです。ただ純粋に責任を取ろうとしました。ヴァニラ先輩の引退の責任を。ヴァニラ先輩の人生を台無しにした責任を。その責任を取るために一枚の紙を携えてヴァニラ先輩の家に訪れます。そして土下座しました」


 とても綺麗な土下座だったという。

 ヴァニラ先輩は何度も『怒っていないから』と言ったが決して頭を上げなかった。

 意外だが碧衣リン先輩は名家のお嬢様らしい。

 礼儀作法はしっかりしている。

 所作が美しいのはそのためだ。

 家との関係は良好。

 兄弟が多く末っ子の女の子という自由の身。

 おっとりした家でVTuberとして独り立ちしていることで応援もされている。

 演歌デビューにおじいちゃんは大喜び。

 今もおじいちゃんはソーシャルなアイドルモノの音ゲーに重課金しておばあちゃんに怒られているのだとか。

 そんなおっとりした名家だが、礼儀作法と責任の取り方は本気だった。


「長い土下座を終えて碧衣リン先輩は懐から一枚の紙を取り出しました。すでに内容が記述された書類です。結果として不要になったので私が処分を任されたこの紙です。この紙を出されたときヴァニラ先輩の頭の中から引退と言う選択肢が消えました。真っ白になったとも言えます。碧衣リン先輩の覚悟がヴァニラ先輩の覚悟を上回ったのです」


 改めて紙を見るととても綺麗な文字で必要事項が記載されている。

 本気度がひしひしと伝わってくる。

 これを出されたらヴァニラ先輩が引退を撤回するのも当然かもしれない。


「その紙の名は『婚姻届』です」


:えっ???????

:ホワイ???

:え? なんで?

:二人はそういう関係だった?

:キマシタワー?

:あまりの衝撃で建築不可

:いや……でも……ん?


 コメント欄が困惑している。

 私も困惑した。

 当時のヴァニラ先輩も困惑した。

 虹色ボイス事務所も困惑した。

 でも碧衣リン先輩はガチだ。


「本名と本籍が記載されて捺印もあります。碧衣リン先輩のご実家のご家族の承諾をもらったのでしょう。証人欄に捺印もあります。これに付属して戸籍謄本もあったらしいです。全部本物です。これ流出したら本当にダメなので早く処分したいです。処分に困るものですが一刻も早く処分するべきだと思います。碧衣リン先輩の覚悟の決まり方に私まで泣きそうです」


 どうしてこれを受け取ってしまったのだろう。

 ヴァニラ先輩も碧衣リン先輩に返そうとしたらしい。

 けれど引退撤回しても騒動を起こした責任だからとまさかの受け取り拒否。

 どう使おうとヴァニラ先輩の自由と言われてしまって処分に困った。

 その悩みは婚姻届と一緒に復帰後も手元に残った。

 もう配信者らしく面白おかしく婚姻届を供養するしかない。

 よし第三者の私に託そうと決めたらしい。

 はた迷惑だ。


「まず現在のところは日本で同性婚は認められていません。あと二人の間にはラブはありません。大親友ですからラブを超越したライクはあるかもしれないです。戦友と評してもいいですね。百合営業とか生易しいものではないです。百合もないですし同性愛もありません。もちろん関係を強要するつもりも皆無。断られる前提です。碧衣リン先輩にあったのはヴァニラ先輩に生涯尽くす覚悟です。そのための法的な契約を目に見える形で用意したと」


 もう結婚しろよ。

 末永く爆発しろ。

 キマシタワー。

 そんなネットスラングさえ生ぬるく感じるほどの覚悟だ。


「ヴァニラ先輩を引退に追い込んだ。その人生を台無しにした。だから責任を取るのは当然だ。それが碧衣リン先輩の道理でした。ならば婚姻関係を結び資産などを共有する契約しよう。碧衣リン先輩の結婚観はかなりシビアで古風です。……戦国武将の姫君かなにかでしょうか?」


:覚悟ガン決まりかよ

:実家の家族も承認したのか

:相手が同性とは思っていなかったのでは?

:かっけー(呆然)

:責任から逃げる男もいるのに

:百合じゃなくて一生養う契約結婚の覚悟

:確かにシビアかもしれない

:むしろ戦国武将そのものでは?

:……とうとう残念という概念さえ超越したか


「婚姻届を渡された頭真っ白のヴァニラ先輩に追い打ちがかかります。次の配信でこの決意が本物だと公言すると脅され……いえ表明されて慌てました。急ぎ虹色ボイス事務所に連絡です」


『私一人ではリンちゃんを止められない! 事務所の皆も手伝って! 手遅れにならないうちに! 引退宣言撤回するから! 私の引退なんてどうでもいいから! とにかくリンちゃんを止めて!』


「こうしてヴァニラ先輩の引退は阻止されました」


 たぶん今の私はとても遠い目をしていると思う。


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