第36話 迷走コラボレーション①ー桜色セツナsideー

 今日は朝から不思議の国に迷い込んでいたのかもしれない。

 あとになってからそう思う。

 それぐらい私はこの日をずっと心待ちにしていた。


「ついに真宵アリスさんに直接会うことができる」


 VTuber桜色セツナになって良かった。

 身体の芯から歓喜に震える。


 子役の氷室さくら時代に多くの芸能人の方と出会うことができた。

 雲の上の存在である名優の方や憧れだった有名声優さんにも挨拶したこともある。

 嬉しかった。興奮した。でも違うのだ。

 そのときはこれほど胸躍ることはなかった。


 アリスさんとは電話やグループチャットではすでに話している。

 いつ連絡しても笑顔で応えてくれる。信頼関係もある。

 大事な同期の仲間。年齢も一つ違い。虹色ボイス事務所では未成年組として扱われるとても近い存在だ。

 なにより私はアリスさんに憧れを抱いている。

 初めはアリスさんに抱くこの感情をどう表すのかわからなかった。ただの羨望、好意とは異なる。遠すぎて嫉妬さえも起こらない。ライバル視もしない。答えの出せない感情だった。

 けれど最近学んだことがある。

 ズバリ当てはまる素晴らしい概念だ。


『推し』


 桜色セツナは真宵アリス推しである。

 ガチ勢と言っても過言ではない。

 事務所に頼んで、販売予定の真宵アリスグッズを集めるのは当たり前。事務所からもらったのと同じ製品でも、店頭で売っていれば買う。ネットでも探して買う。同じグッズが三つあっても笑顔になれる。

 正直言えば、店ごとに違う特典がつく限定版はやめてほしい。

 そう願いつつも集めてしまうくらい推しである。


「今日は……今日こそはアリスさんに謝る。許してもらって『ツン対応』を解除してもらわないと」


 真宵アリスのツン対応。

 それは先日のアリス劇場でのつぶやき便騒動に端を発している。

 アリスさんからすれば身内からの裏切り。許されないことだった。

 なんて裏側はない。ないはずである。実際、無視されているわけでもない。冷たくされてもいない。今もグループチャットで呼びかければ応えてくれる。

 応えてくれるのだが、返信内容が非常に困るものだった。

 なにを聞いても『ツーン』で返ってくるのだ。それだけなら機嫌を損ねている。そう勘違いしてしまうかもしれない。

 でも、そうではないと断言できた。

 問題となっているのは『ツーン』のバリエーションの豊かさなのだから。


『ツーン』『ツン』『ツン?』『……つーん』『ツン!』『ツーーーーーン!!!』『つ……ん……』『つんつん』『ツンツンツン。ツンツンツン。ツンツンツンツンツンツンツン』


 ……かなり感情が読める。『ツ』と『ン』だけで割とやり取りができてしまった。

 これにはリズ姉さんもミサキさんも苦笑いである。


『まるで飼い主の関心を得ようとする仔猫ね』


 とリズ姉さんの弁である。

 実は私も楽しんでしまっていた。

 アリスさんにデレはない。ずっとツンツンされているのにこっちがデレデレだった。デレデレしながらなにも問題にせずに時を過ごしてしまった。

 ツン対応が由々しき事態に発展する可能性を考慮すらしなかった。アリスさんが事務所を訪れる今日まで放置してしまったのは痛恨のミスだ。

 私たちはアリスさんの学習能力と可能性を甘く見ていた。


『ツン・ツーン・ツン・ツン・ツン、ツーン・ツン・ツン・ツン、ツーン・ツーン、ツン・ツーン・ツーン・ツン・ツーン』


 今朝アリスさんから送られてきたチャットの文面である。

 怪文だ。

 さすがに意味がわからない。

 アリスさんを出迎えるために事務所で待機していた私は朝からずっと悩んでいた。

 今日は待ち望んでいた顔合わせの日だ。


「今朝のメッセージの意味がわかりませんでした」


 こんなことは絶対に言いたくない。

 推しとの初対面で悪印象を持たれたら死にたくなる。

 メッセージの意味をアリスさんが来る前に解き明かさないといけない。

 それに私は一人ではない。心強い仲間がいる。


「リズ姉さんはわかりますか?」


「なにこれ?」


 先に事務所に来ていたリズ姉さんの助力を得るも解読不可能。

 なにかの曲かと思い、事務所の休憩室で二人して『ツン』で謎のメロディーを口ずさむ。非常に迷惑だったと思う。それほどまでに追い詰められていた。

 謎のツンでイントロクイズは懐メロにまで脱線し、ミサキさんが到着するまで続いた。

 なんとミサキさんに心当たりがあるという。


「いや……まさかね?」


「なにかヒントになるかもしれないので是非言ってください! 私では皆目見当もつかなくて」


「うーん……さすがにないだろうけど、ちょっとネットで調べさせて。私も暗記しているわけじゃないから」


 頭を傾げながらもミサキさんが半信半疑でスマホで検索し始めた。

 そして驚愕の正解が判明する。


『おはよー』


 これだけだった。

 アリスさんが送ってきた少し長いツン文面の内容がこれだけである。

 ツンのモールス信号。

 ツンが短音、ツーンが長音らしい。

 三人で脱力する。内容の短さにもモールス信号という答えにも脱力するしかない。

 だが脱力している場合ではなかった。

 ミサキさんが不安げに呟く。


「これは非常にまずいかもしれないね」


「まずいってどういうことですか?」


「……アリスちゃんがツンを極めつつある」

 

 最初はピンと来なかった。ミサキさんが真面目な顔をして変なことを言い始めた。私の中ではアリスさんはとっくにツンマスターなのだが。

 けれどミサキさんの言葉の意味が理解できると焦るしかなかった。


 とうとうアリスさんが『ツ』と『ン』だけで意味ある言語を発信したのだ。

 つまり『ツ』と『ン』だけで全てを表現する手段に、アリスさんがたどり着いていることを示唆している。


「アリスちゃんだよ。モールス信号で留まるかな?」


 さらにミサキさんは最悪の発展形を予言する。

『ツ』を一。『ン』を零。アリスさんならこの二進数に見立てた独自言語を作成しかねない。世はデジタル社会である。二進数だけで全てを表現できる現代だ。

 バーチャルな配信者がデジタルを否定することはできない。

 言語のデジタル化の流れが来ている。


 由々しき事態だ。

 今日中にアリスさんの『ツン』対応を解除しなければグループチャットが大量の『ツン』で埋め尽くされる未来が待っているかもしれない。

 暗号解読表片手にチャットに望むことになるだろう。

 使いこなせるか不安だ。

 内容が『ツン』しかないチャット。セキュリティが万全過ぎる。もしも三期生のグループチャットが流出しても問題にならないだろう。

 むしろ『ツン』しかないので、違う意味で問題になるかもしれない。


「そんな未来は絶対に避けないと!」


「……暗号化通信ってこういう意味だったっけ?」


「船舶免許を調べたときに見たことあったから、なんとかモールス信号にはたどり着けたけど。私もこれ以上複雑化されるとさすがに無理」


 焦燥に駆られた午前中。

 ツン対応を解除してもらわなければ。

 そう意気込んでいたが、昼を過ぎてもアリスさんは来なかった。

 一期生の方々も合流して「夜に全員でオフコラボするぞ」と盛り上がり、アリスさんの歓迎会も計画された。でも肝心のアリスさんが来ない。

 電話しても出ない。グループチャットで呼びかけても既読にすらならない。

 まさか事故にでも遭ったのでは。

 不安になり始めた午後三時過ぎ。アリスさんから衝撃の連絡がきた。


『富士山って……おっきいね』


 アリスさんはなぜか富士山の麓にいた。

 思わず天を仰ぐ。

 家からの外出。都内を移動するだけでどうすればそうなるのか。

 トゥーランドットの話を聞いても意味がわからない。

 カーナビゲーションシステムAliceに間違いはない。

 公式配信の開始予定時刻の午後七時前に事務所に着くそうだ。

 さすがアリスさん。色々な意味でさすがである。こちらの想像を斜め上にぶち破ってくる。

 そして予定時間通り、ついに真宵アリスさんが事務所に到着した。


 黒猫パーカーを羽織り、メイド服に身を包んだ美しい少女。

 集まった事務所に人間の多さに驚き、不安そうにあたりをうかがう。

 配信での宣言通りキョドキョドアリスさんだった。


 アバターである真宵アリスにそっくりな整った容姿。幼さを大いに残したその外見は年下にしか見えなかった。

 子役をやっていたからわかる。年上のアリスさんにとても失礼だがわかってしまう。

 アリスさんなら子役業界を席捲できる。年齢を超越した尊さがそこにあった。絶対に口にしない。たぶん本当に怒られるから。

 念願だった推しとの対面。

 グッと拳を握りしめて、心の中で渦巻く色々な衝動を抑えつける。


 登場しただけで場を支配するアリスさん。

 そのオーラに事務所を浮足立った。配慮に欠けていた。私たちも連絡ミスをしてしまっていた。

 様々な要因が重なってしまった。

 その結果を想像すらしていなかった。

 まさかアリスさんが事務所のドッキリ企画を疑っていたなんて。


 事態は誰もが想像すらしていない方向に迷走し始める。

 本当に不思議の国に迷い込んでしまったかのように。

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