第二部

青海二刀流篇

第59話 きわと兵庫

 春は気ぜわしい。

 日を追うごとに暖かくなってくると、冬のあいだは家にこもりがちだった人びとの心も戸外へ向かいはじめるものらしい。いつき道場の家政を取り仕切る絵都えとも陽気とともに気持ちが浮き立つのを感じていた。すっかり暖かくなったし、掃除を済ませてしまおうと、座敷の仏壇と戸棚を整理していたときに、を見つけた。


『剣術すごろく』

 昔、江戸に遊学していた兄が求めてきた珍品で、マスにはさまざまな剣豪、剣客が描かれている。


 戸棚から見つけ出したを眺めているところへ、藩の剣術指南役でもある兄の兵庫が通りかかった。剣術すごろくの由来を聞いた後で、絵都はふと気になったことを訊ねてみた。


「二刀流とはどういった流儀なのでしょう。仕合しあいしたことがおありですか?」


 剣術すごろくには、二刀を操る宮本武蔵みやもとむさしが美々して描かれている。

 二刀流とは両手に大刀、小刀をもって戦う剣術の流儀だが、教授する流派は少なく、滅多に見ない。いかに藩の剣術指南役とはいえ、仕合ったことがないと絵都は思い込んでいたが……。


「ある」


 兄は拍子抜けするほどあっけなく答えた。ずっとむかしに二刀流と剣を交えたことがあるという。


「講談や読み物で知られているほど、強くはない流儀だ」


 こともなげにそういう兄の表情は、しかしいまひとつ冴えない。そんな兵庫の様子に俄然興味をかきたてられた絵都が仕合の様子を聞きたいとねだると、兄はずっとむかしの記憶をたぐり寄せるようにぽつぽつと語りはじめた。


☆☆☆


 ぶっきらぼうで愛想なし。剣は強いが、人あしらいは不味いというのが、どこへ行ってもついて回る斎兵庫の評判だった。藩校の道場でも負けたことはなかったが、評判が良いのは腕は落ちても人当たりの良い同門の橘彦右衛門たちばなひこえもんの方だった。


 ――もうちょっと愛想よくしたらどうだ。


 まだ若い。幼なじみである彦右衛門から意見めいたことを言われるのも癪に障る。兵庫の足は、次第に道場から遠ざかるようになり、藩校に通う時間は、青海原あおみがはらを見下ろす丘で昼寝をしていることが多くなっていた。


 あるとき、昼寝をしながら眺めていると、青海原で剣術の稽古をしている子どもたちがいることに気がついた。兵庫より三つ四つ年下だろうか。藩校には通えない貧しい身分の子どもたちらしい。擦り切れた着物から真っ黒な脛を見せ、木刀に似せた棒きれを振り回しているようすが兵庫には可笑しかった。


 手を打って笑いながら見ていると、笑われていることに気づいたのだろう。そのなかの一人が怒りだした。ひとが真剣に修練をしているのを笑うとは、無礼であるというのだ。


「てんで剣術になっておらん。おれはまたでも踊っているのだろうとはやしていただけだ」


 ずけずけと兵庫がそう言ったものだから、子どもはさらに憤激し「ならば、おまえのいう剣術とやらをみせてもらうおう」といって、いきなり棒きれで打ちかかってきた。意気地が強いだけでなく、気の短い子どもだったらしい。


 十歳そこそこの子どもに打ちかかられて兵庫は閉口したが、ひとつふたつと棒きれの打撃をかわすと、呼吸をはかって大きく踏み込み、子どもを投げ飛ばしてやった。背中から地面に叩きつけられた子どもは、それでもきかん気な視線を兵庫に投げつけてきた。


「どうだ」

「おれは負けたが……なら負けはせん!」

「なら、そのとやらを連れてこい。いつでも相手になってやる」


 十五歳になる兵庫は、いささか大人げなくそう言い、あの子らは二度とここにはやって来ないだろう――と駆け去っていく子どもたちの背中を見送った。しかし翌日、彼らはまた青海原に現れた。を伴って。


「なんだ女子おなごではないか」

「女で悪いか」


 兵庫が驚いたように、は女だった。年は11、12歳くらいだろうか。鼻っ柱の強そうな顔つきをしている。さいしょから立ち合うつもりできたのだろう。大小三本の木刀を提げてきていて、うち一本を兵庫に放ってよこした。


「わが家の流儀が嘲笑されたと聞いた。捨てておけん。立ち合え」


 立ち合えと言われたところで、相手は子ども、しかも女である。勝負になるとは思えない。「女に使う剣はない」兵庫が薄笑いを浮かべて突っ立っていると、はそうかと呟いて息を吐き、いきなり襲いかかってきた。


「女と侮るのは、これを見てからにしろ!」


 風の鳴る音がふたつ聞こえた。大小二本の木刀が、さっきまで兵庫が立っていた場所を切り裂いた。素早い踏み込みと、目にも止まらない斬撃。昨日子どもたちが見せた棒きれおどりとは違う見事な剣術だ。それよりなにより兵庫が驚いたのは――。


「二刀流?」


 は右手に小刀、左手に大刀を持って打ちかかってきたのである。同時に二刀を操る二刀流剣術は、教授法に取り入れる流派が少なく非常に珍しい。


「驚くのはまだ早い!」


 の言葉どおり驚くのはまだ早かった。彼女に導かれた二本の木刀は、変幻自在の動きを見せて兵庫に襲いかかってきたのである。


 二刀流というものは、右手の小刀で相手を牽制しつつその斬撃を防ぎ、隙をみて左手の大刀で斬りつけるという攻防一体の剣術である。しかし、いま兵庫の敵が見せる技は攻撃一辺倒。小刀と大刀が交互に繰り出され反撃の糸口が掴めないほどなのだ。二刀を用いれば、攻撃力は一刀の二倍となることは子供でもわかる理屈。それにしても凄まじく攻撃的な流派だった。


 ――これは難物だ。


 兵庫の背中を冷たい汗が伝った。いまは防いでいられるが、このままではいずれじり貧となって打ち込まれる。しかし、こちらから打ち込もうにもこの手数。手加減していては勝てない。


 ――女子おなごといえど打つ!


 ぐっと腰を落とすと足元を固め、逆に兵庫から打ちかかった。の表情が変わった。目にも止まらない速さで繰り出す二刀の打撃が、ことごとく兵庫の木刀によって打ち落とされるのだ。信じられない速さ、しかも兵庫の木刀はさらに速度を増していく。一刀の速さが、二刀の手数を上回った。


「あっ」


 その瞬間、バンと大きな音を立てて兵庫が手にした木刀が裂けて割れ、の持っていた両刀は弾き飛ばされた。裂けてのようになった木刀を手にした兵庫が笑って言った。


「引き分けかな」

「……」


 は真っ青な顔をして唇を噛んでいた。引き分けなどではない。真剣ならば兵庫の勝ちだ。鋼鉄の刀は裂けない。


 覚えていろよと、勇ましい捨て台詞を残して青海原を駆け去っていったと子どもたちの一党は、驚いたことに次の日も昼寝をしている兵庫の前に現れた。もう一度勝負しろというのである。


「なんの、返り討ちだ」


 その日はすぐに勝負がついた。兵庫が難なくの木刀を打ち落としたのである。次の日も同じだった。その次の日も。二刀流の太刀筋を見極めた兵庫は、もうの敵ではなくなっていたのである。勝ち気なは涙を浮かべて悔しがったが、技量の差はどうにもならないと悟ったのか。涙を拭いて今度は妙なことを言いはじめた。


「お前の妻になる」

「なに?」


 だれに対しても不敵な兵庫もこの言い分には目を剥いた。は言う、二刀流の道統を継ぐ家の娘に生まれ、こんな辱めを受けたことは初めてである。自分より強い男がいるなど耐えられない。それならいっそ――


「わたしはお前の妻になる」


というのだ。


 これには、さすがの兵庫も困り果てた。青海原で昼寝していると、毎日のように押しかけては言い寄ってくるのである。しかもこのの攻撃は、剣術では防げないのだ。


 ――これはたまらん。


「小鬼のような女子おなごは願い下げじゃ」

「なにを! 見ておれ!」


 昼寝場所にが押しかけるようになった途端、兵庫は真面目に藩校へ通うようになり、両親や幼なじみの橘彦右衛門を喜ばせたのだった。


☆☆☆


「その女の子って、もしかして?」

「妻の貴和きわだ」

「やっぱり」


 先年、兵庫の妻は病を得て亡くなり、先ほどまで絵都がはたきを掛けていた仏壇に位牌となって収まっている。幼い頃に母を亡くした絵都にとっては、実の姉のような義姉だった。


「兄上とお義姉さまのなれ初めを聞くのは、はじめてです。でも、お義姉さまが剣術を能くする方とは、今の今まで知りませんでした」

「お前の生まれるずっと前のことだ。あのとき以来、貴和が刀を握ったことはない」


 あの後も、何度か貴和が兵庫に会いたがることがあり、いい加減閉口していたが、兵庫の父母も貴和の父母も縁組に乗り気になってしまい――。


「わしも断りきれなくなったのよ」


 そうかしら。それだけではないはずだ。剣術はおろか、絵都は義姉が声を荒げたところさえ見たことがない。穏やかでとても美しい人だった。


「そうだったのですか」


 とてもいい話を聞いた。あとでこっそり甥の隼人に話して聞かせよう。父母のなれ初めを聞かされる隼人の驚く顔が、目に浮かぶようだ。絵都は、いまから道場へ稽古に出るという兵庫を指をついて見送った。


 ――こんな朴念仁のどこが良かったのか。


 緩んだ風が中庭に向かって大きく開かれた座敷のなかを通っていった。夫婦のことはたとえきょうだいであっても分からない。偏屈者の兄と子どもの頃はお転婆だった義姉のことを考えると思わず、くすくすと声を立てて笑い出しそうになる春の午後だった。

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