兄弟剣士篇
第60話 絵都と新二郎
――わたしは夢を見ているのだな。
と分かっていながら夢を見ているということがある。その時の
――ああ、またこの夢だ。
絵都は大きな不安を抱えながらひとりの男を待っている。来ないかもしれない、いや、必ず来てくれると信じている男を持っている。絵都が待つのは、兄の営む剣術道場の高弟、
この日、絵都は胸にある決意を秘めて、板野新二郎を青海橋のたもとに呼び出していた。陽の光はだいぶん傾いてきた。約束の刻限からはもう一時(約二時間)も過ぎている。まだ新二郎は姿を現さない。
――来てくれないのだろうか。
何度目か、足元に視線を落としたそのときだった。
「絵都」
思いがけず、後ろに方から声がかけられた。特徴のある深みを帯びた声に、胸の奥がきゅっと締め付けられるような思いがした。きた。来てくれた!
「新二郎どの!」
絵都は振り向くと待ち焦がれた人、板野新二郎に駆け寄ってその手を取った――。
☆☆☆
でも、これは夢だから。
絵都は、気だるい
深手を負った
「嫌な夢、見ちゃった」
夢から醒めてもまだ胸がどきどきしていた。針を持つは手はうっすらと汗を握っている。また、この夢だ。いつまでこの気持ちに振り回されればいいのだろう。
夢と違って、十八歳のときの絵都は板野新二郎と会うことはできなかった。直後、行方のわからなくなった絵都を探していた道場の門弟に見つかり、道場へ連れ戻されたからだ。そして、新二郎もその日は、お城へ召し出され青海橋へ来ることはかなわなかった。もう十年も昔の出来事だ。
いまだにあの日のことを夢に見てしまうなんて。まだ、新二郎とのことに決着がつけられないでいるのだ。絵都はほんの少しの時間、自己嫌悪に陥った。
剣術道場の娘に生まれた絵都にとって、剣の天稟に恵まれた板野新二郎はあこがれの人だった。絵都が物心つくころには、すでに道場へ通ってきていて、周囲を驚かせる才能を示し始めていた。道場の師範代を含めて、十五歳の新二郎に敵う門人はおらず、「神童」の噂は他の道場はもちろん、当時の藩主の耳にも入るほどだった。
「絵都、絵都」
道場を覗いていると、よく声をかけて遊びに連れ出してくる子ども好きな面もあった。
「絵都も剣術をするのか」
「はい」
新二郎どののように強くなりたいと絵都が言うと、新二郎は「女は剣など持たなくていいのだ」と笑いながら相手をしてくれた。
新二郎の評価を決定づけたのは、彼が十八になった年の御前試合だった。
新二郎は、相手の一度も竹刀を一度も自分の身体に触れさせることなく、かわし続けたかと思うと、電光石火の速度で踏み込むと胴を薙ぎ払って勝利を収めた。あまりの打ち込みの激しさに、相手は昏倒し、胴(防具)が真ん中からへし折れたことが評判になった。
この御前試合で新二郎を知った城下の若い娘たちは、その端正な太刀筋と涼やかな顔立ちにざわついた。絵都にとってみれば、あこがれの人が有名になってくことがうれしい反面、自分だけが知っている新二郎が、城下の娘たちの間でもあこがれをもって語られはじめたことに、痛しかゆしといった心持ちだった。
――わたしの新二郎どのが。
それが嫉妬という感情だと気づくには、まだ絵都は幼かったのだが。
この御前試合から、藩内での新二郎の立場も変わった。藩主の目に留まり、学問修行と共に近習見習いとして出仕するよう言い渡されたのである。
そういう絵都の気持ちを知ってか知らずか、忙しい身の上になったにも関わらず、板野新二郎は相変わらず道場に姿を見せ、門人たちに稽古をつけ、ときには絵都とも竹刀を交えてくれたのである。新二郎への思いが強くなるにしたがって、絵都の太刀筋も寄り添うように際立ってくるのだった。
新二郎のことを想い続けて五年。
その間に、新二郎は漢学、蘭学、算学と学問の面でも出色の成績を収め、ますます藩主の信頼を厚くしていた。御前試合でも五年間で負けはなし。衆目の一致する青海藩最強の剣士となっていた。
その御前試合の行われた日、絵都の思いは叶えられた。
めずらしく兄の兵庫がお城での宴席に出、今夜は戻らないと伝えきた夜のこと。板野新二郎がこっそり絵都の部屋を訪れたのである。夜更けに、戸を叩く音がするのでみると。
「絵都」
「新二郎どの」
新二郎が立っているので驚いた。もちろん、追い返すことはできるし、そうすべきだったのかもしれなかった。新二郎の気持ちを繋ぎ留めたいと思い詰めた絵都は、そっと戸を開き新二郎を部屋に招き入れたのだった。
表向きふたりの関係はなにも変わらなかった。絵都はただ、安心感と優越感に浸っていた。わたしはあの板野新二郎の想われ人であると。しかし、この頃から絵都と新二郎の周囲は、ふたりの思惑とは別の方向へ転回しはじめていた。
絵都の兄であり、板野新二郎の剣の師である斎兵庫は、新二郎に対して冷たかった。新二郎が道場で並ぶ者のない剣士だというのに流派の奥伝を授けることはせず、師範代にすら取り立てなかった。
「先生はおれが嫌いなのかもしれん」
絵都に会いにくる新二郎はそんなことを言うようになった。
兄と新二郎の関係にやきもきしている絵都の焦燥をおいて、徐々に新二郎の足は、斎道場に向かなくなっていった。それが決定的となる出来事が起こる。兄が流派の奥伝を新二郎の弟である板野喜十郎に授けたのだ。
「兄様、どうして。新二郎どのではないのですか!」
絵都が何度も言い募ると兵庫は露骨に嫌な顔をした。そして、おまえの口出しするべきことではないと前置きした上で「板野新二郎は強い、強すぎる」と言った。
「あまりに強すぎる力はむしろ新二郎の欠陥である。敗北の味を知らぬ者は、真の強者とはなり得んのだ」
弟が、流派の奥伝を受けたと漏れ聞いた新二郎は、道場に姿を見せなくなった。それは絵都にとって、新二郎との間に物理的、心理的距離ができてしまうということを意味した。
数年が経つうちに、年ごろになった絵都の縁談が持ち上がった。まだ、早いという絵都の言い分に、兄の兵庫は耳を貸さなかった。もしかすると絵都と新二郎との仲に気づいていたかもしれない。ひとつの屋根の下に住むきょうだい同士である。いかに斎兵庫がその道にうとい不調法者といってもまるで気づかないというのも不自然だった。
さらに絵都を追い詰めたのは、新二郎に江戸留学の藩命が下りるかもしれないという噂だった。新二郎の才能を高く評価する藩主が、つぎの江戸出府に新二郎を同行させるというのである。江戸と青海。新二郎と絵都は離ればなれになってしまうのだ。それはだけは嫌――。駆け落ちは、絵都から新二郎に持ち掛けた。
――青海神社の祭礼の日。未の上刻、青海橋のたもとで待っています。
いまになって思えば、なんと稚拙な約束だろうと思う。板野新二郎は困惑したに違いない。でも、そのときはまだ若かった絵都は必死だった。新二郎はあえて反対しなかったのだろう。
祭礼の日、板野新二郎は青海橋に姿を現さなかった。
青海川の水面に踊る日の光をぼんやりと眺めて立ち尽くす絵都を見つけたのは、行方のわからなくなった絵都を探しに道場からやってきた板野喜十郎だった。絵都を見つけた喜十郎は、気づかわしげに声をかけてきた。
「絵都さん」
「どうしてあなたが来るのよ」
「兄は来ません」
そんなこと言わなくったって――ばか!
こらえていた涙とともにせき止めていた気持ちがあふれてきた。
「いつも一緒だって。わたしのことを守ってくれるって」
「兄は……そんな人ではありません」
絵都が泣いても手を差し伸べてはくれなかった。
素直で、残酷な人だと思った。
☆☆☆
「絵都……さん。絵都さん」
声に俯いていた顔を上げると、陽だまりになった夜具の上で喜十郎がうっすらと目を開けていた。
かすれてか細い声が、絵都を気づかっている。
「どうしたんです……泣いてるん……ですか」
七日間も眠り続けるくらい、大けがで身動き取れないっていうのにこの人は。
いつも人のことを心配しているばかりいるのだ。
ほんとはわたし、あなたのこと嫌いなんだからね。
そして、これはうれし涙よ、ばか。
止まっていた絵都の時間が、ふたたび動きはじめた。
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