第58話「勝ったのは、きみだ」

 突き――だ。追い詰められた小次郎がその牙を剥いた。竹刀の先端で陽太郎の喉元を貫いたのだ。危険な技だ。倒れたまま動かない陽太郎を見守る道場にはどよめきも歓声もなく、静寂に包まれた。


「陽太郎!」


 隼人と本間が倒れた陽太郎に駆け寄った。ふたりが抱き起こすと陽太郎はなにが起こったのか分からず、面の中で目を白黒させていた。慌てて防具を外すと、陽太郎は大きく息を吐き出した。よかった、無事だ。


「まて。この勝負に異議がある」


 一礼して道場から出て行こうとする小次郎を制して、ひとりの男が進みでてきた。たったいま、勝負に勝った小次郎の父である樅木新平もみきしんぺいだった。


「審判、年少者が学ぶ湧学館道場で『突き』は禁じ技とするという規則のはず。この勝負、引き分け――いや、小次郎のだ」


 樅木の意外すぎる異議申し立てに、柳井翔やないかけるが噛み付いた。


「しかし、現に審判は小次郎の勝利を宣告しました。取り消すというのでは、湧学館道場の権威が――」

「権威?」


 翔の反論に、樅木は顔色を変えた。


「規則を守れぬような者が、軽々しく権威などという言葉を口にするな! 昨今、事あるごとにその言葉を振りかざす武士がいるようだが、自らを守らずして、町人、百姓に決まりを守れという道理がどこにある。湧学館とは、藩士の子弟に何を教育する場なのか!」

「樅木どの、この道場の指導はわたしが父から……」


 しかし、樅木はそれ以上の反論を翔にゆるさなかった。


「くどい! そもそも二歳も年少の子供に互角稽古を強いた挙句、反則技で勝利をさらうなど、卑怯にもほどがある。小次郎は連れて帰る。しばらく湧学館にも通わせぬゆえ、教授方にはよろしくお伝えくだされ!」


 御免――と言い捨て、樅木新平は小次郎の手掴むと、有無を言わさず道場を出てゆく。

 柳井道場の高弟であり青海藩きっての剣客と恐れられている樅木の怒りを静めようと、彼を追って柳井道場の門人たちが駆け出していった。ひとり道場に残された柳井翔は、樅木から罵られた屈辱に顔を赤くして立ち尽くすのだった。


 その様子を脇に見ながら、隼人と本間は、陽太郎を連れて道場を出た。倒れた時に床で頭を打っているかもしれない、まだふらついている陽太郎を医者に見せ、逆川の屋敷まで送り届けなければならないだろう。


「すみません、先生」

「謝ることはない。樅木さんの言ったとおり、勝ったのは、きみだ」


 帰りぎわ陽太郎と隼人は、そう言って笑み交わした。


☆☆☆


 陽太郎と小次郎の互角稽古から数日が過ぎた。

 この間、隼人は湧学館の道場に顔を出していない。陽太郎の互角稽古は済んだのだし、あの勝負には何ひとつ後ろ暗いところはなかったはずだが、湧学館へ足が向かなかった。


 そんなつもりはなかったが、最後にああして樅木新平が怒り出してしまったことで、結果的に柳井翔に恥をかかせることになってしまったからだ。


 なるほど樅木の言ったことは正論に違いないが、互角稽古の申し出を受けて立ったのは隼人である。結果はああいうことになったが、子供たちに互角稽古を強いた責任は自分にもある。それは翔も十分承知していることだろうし、そういう状況でなに食わぬ顔をして道場に顔を出す――そうした種類の度胸を隼人は持ち合わせていなかった。


 ――困ったな。


 朝、勤めに出ると言って屋敷を出ると、湧学館へは向かわず、反対の青海川の堤を上りしばらく歩く。川は大きく蛇行して川幅が広げる。水の澱んだ淵が見えてくると堤を下りて、竹刀袋に入れてきた釣竿を取り出す。昼過ぎまで釣り糸を垂れるのだ。ここには大きな鮒が棲んでいると父が話していた。もっとも、通い出してから数日、一度も竿に当たりはないのだが。


 ――どうでもいいことだ。


 風は凪いで、空には隼人の心のうちを表しているかのような雲が低く垂れこめている。暑くなる日も多くなって、この季節にはやぶ蚊が飛ぶため、彼のほかに川で釣りをする武士の姿はない。一刻ほどもそうしていただろうか。そろそろ仕舞いはじめようと腰を上げたそのとき川面に人影が差し、堤の上から声をかけられた。だれだろう、こんな姿を見られたくはなかったのだが……。


「探したぞ。斎隼人どの」


 がっちりとした逞しい身体、鋭い目つきと隙のない身のこなし。人影は、先日、陽太郎が互角稽古をした樅木小次郎の父親、樅木新平だったのである。


「樅木さん……」

「湧学館におらぬということだったので、斎の道場も訪ねたのだが姿がない、もしやと思ってほうぼう探したのだが……。釣れているかね」

「いえ……ボウズなので、そろそろ引きあげようかと」


 樅木は堤を下りてきて、隼人の傍に腰を下ろした。


「しばらく、いいかな」


 年長の樅木にそう促されては無下にはできない。隼人は上げかけた腰を下ろした。


「先日は無作法なことで失礼した」

「いえ」

「あまりに翔どのと小次郎の仕打ちがひどいものだから頭に血が上ってしまったのだ。隼人どのの立場も考えず怒り出してしまって、申し訳なかった」


 樅木は気づいていたのだ。それでわざわざここまで隼人を探しにきてくれたのだろうか。


「あのあと小次郎には厳しく言い聞かせた。今度だけは寛恕かんじょしてやっていただきたい」

「そんな、小次郎は……悪くありません。一所懸命にやった結果でしょうから」

「そう言っていただけると救われる」

 

 そう言うと樅木の表情がふっと緩んだ。青海藩無敵の剣士というのは怖い人物かと思っていたが、意外に優しい表情をする男なのだ。


「あの日は、小次郎が逆川陽太郎と互角稽古をすると妻から聞いて、はじめて道場へ顔を出したのだ」

「はあ」

「じつは妻は、斎道場の絵都どのとは同士でな。子どもの頃からとても仲がいい。『いまは長崎にいて青海にはおらぬから、陽太郎の様子を見てきてほしい』と言われてな。絵都どのは逆川に残してきた子供たちを気にかけており、ことあるごと様子を見るよう妻に言づてしているようなのだ」

「そうだったのですか」


 隼人にとっては初耳である。婚家から離縁されて戻ってきた絵都が、残してきた子供たちを気にするようなそぶりを見せたことはない。少なくとも、隼人や兵庫、斎道場の人たちの前では一度もなかった。


「うむ、その胸のうちを話せるのはまき――妻の名だ――ただひとりだったと、妻から聞いた」

「まったく――存じませんでした」

「あの日の稽古ではじめて見たが、逆川陽太郎はよい子だな。小次郎の奇手に打ち込まれてしまったが、素直で剣をつかう。さすが絵都どのの子だ、血は争えんな」


 どこかで聞いたような言葉だと思ったら、道場の師範代である本間蓮太郎がまるで同じようなことを言っていたか。


「樅木さんは、姉――叔母のことをご存じなのですか」

「じつは妻と同様、わしも絵都どのとは幼なじみ同士でな。子どもの頃は一緒になって竹刀を振っていたものだ」


 樅木新平は、そういって照れ臭そうに頬を掻いている。


「絵都どのの竹刀さばきは抜群で、子供のうちはついに打ち負かすことができなかった――いや、大人になって剣を交わすことがなくなっただけで、結局一度も絵都どのに打ち勝ったことはないのだ。わしが無敵の剣士などと言われているのも、藩の御前試合に女性にょしょうが出場することが適わないからさ」


 そう言って樅木は屈託なく笑った。そして――


「隼人どの。重ねてのことになるが、先日の互角稽古は二重に申し訳ないことだった。反則の突き技については小次郎にきつく言い渡した。わしの不始末については、湧学館道場の責任者である柳井先生と息子の翔どのに詫びを入れてきた。あとは、隼人どのにわしの短気を謝罪するだけだ。――申し訳なかった、貴殿が気に病むことではない。樅木新平が請け合う。以前のとおり、湧学館の道場で子供たちを、小次郎や陽太郎を指導してほしい。」


 深々と頭を下げるのだった。隼人は言葉もなく、どうしていいかもよく分からなかった。ただ、ほっとしていた。小次郎の父親、樅木新平がいい人で。


 明日からは道場に出て陽太郎や小次郎を指導していいのかな。できるなら、そうするのが至極当然だ。それはとても楽しいことに違いない。


 ――早く、陽太郎たちの顔を見たい。


 と、気づかぬうちに手を離してしまっていた釣り竿の先で、仕掛けのがとぷんと音を立てて淀んだ川の水に呑まれた。父のいう大きな鮒がやっと餌に喰い付いたのかもしれなかった。慌てて樅木新平と魚に引かれて川岸を逃げてゆく釣り竿を追う。


 声を上げて竿を追うふたりの影がさす青海川の水面に、夏を告げる湿った風が渡ってきた――。


[忘れられた者篇 終]【真・青海剣客伝 第一部完】

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