第57話 激闘、三本勝負
約束の日も空模様は今ひとつだった。どうにか天気はもっていたが、空いっぱいに低く灰色の雲が垂れ込めて、いまにも雨粒が落ちてきそうだった。
湧学館の道場では、この日の稽古を早めに切り上げ、五十人になる藩の子供たちが、陽太郎と小次郎の互角稽古を見守った。
「いよいよですね」
隼人の傍でそう気を揉んでいるのは、斎道場の師範代である本間蓮太郎だ。十日間、道場で陽太郎に稽古をつけるうちに、この日の互角稽古を隼人以上に気にかけるようになっていた本間は、隼人と一緒に付いてきてしまったのである。
「大丈夫でしょうか、陽太郎は」
「平気ですよ、本間さん」
「でも、本当に面しか練習していないんですよ」
「信じましょう。陽太郎を」
道場に陽太郎と樅木小次郎が入ってきた。陽太郎は、隼人が使っていた防具に身を固め、本間が削り出した竹刀を携えている。二つ年上の小次郎より一回り小さく見える。胸をそらしてやって来る小次郎は見るからに不敵そうだ。
「樅木ですよ」
「うん?」
「あ、いや、小次郎ではなくて……。樅木新平です!」
道場の隅、陽太郎と小次郎の互角稽古を見守る教師役の若侍に混じって、壮年の侍が見えた。藩の御前試合で隼人も何度か目にしたことがある。柳井道場の高弟であり、小次郎の父親でもある樅木新平に違いない。
「息子の稽古を見に来ているんだ」
「……」
油断のない目つきをした筋骨たくましい男だった。この道場を任されている柳井翔と何やら話している。離れてはいても、只者でない気配が伝わってきた。
――青海藩最強の剣士か。
「先生!」
気を取られているあいだに、陽太郎が傍にやってきていた。互角稽古の前に声をかけてやらないと。
「陽太郎、いままで練習してきたとおりにやるんだぞ」
「はい」
「恐れることはない、強いといっても小次郎だってまだ子供だ。必ず勝てる」
「はい」
「僕は信じている。きみも自分を信じるんだ」
「はい!」
元気よく返事をして、陽太郎は道場の真ん中へ歩いていった。
「ほんとうに、素直な子ですねえ」
「はい」
陽太郎と小次郎は、道場の中央に進み出ると竹刀を構えて蹲踞の姿勢をとった。五十人以上が詰めかけた道場が静まり返える。いよいよ互角稽古がはじまるのだ。
「はじめ!」
審判役の若侍の合図に、二人の小さな剣士はぱっと立ち上がって、互いに距離をとった。樅木小次郎は敏捷な子猫のような動きである。一目見て陽太郎とは動きが違った。
――悔しいが、素早さだけなら勝負にならん。
小次郎は、前後左右に細かく動いて、陽太郎の出方を観察している。その動きからは、強者の余裕がうかがえた。竹刀の先も意思を持ったかのように動いていて、見るものを幻惑するようだ。とても、わずか十歳の少年の動きとは思われない。
しかし――。
ばしっ!
最初に打ち込んだのは、陽太郎の方だった。ふわりと踏み込んだかと思うと、腕を伸ばして小次郎の面を打った。確かに、陽太郎の竹刀は小次郎の面を捉えていた。
「面だ!」
意外な展開に、本間が小さく叫び声を上げた。しかし、驚いたのは審判役の若侍も同じだったのだろう。想定外の陽太郎の一撃だったので、一本を宣告する機を逸したのだ。そのまま稽古は流れ続けた。
「一本取ってたはずなのに……」
悔しがる本間。しかし、びっくりしたのは審判だけでなく、小次郎も同じだった。「面を取られた」と動揺し、それが隙となった。続けざまに打ち込んできた陽太郎の竹刀がふたたび小次郎の面を捉えたのである。
ばしっ!
「面あり!」
審判の手が高々と上がり、陽太郎の一本を宣告した。互角稽古を見守っていた五十人の観客がどよめいた。樅木小次郎が先に一本取られるなど、想像だにしていなかったのだ。
「やった。とりましたよ、隼人さん! 陽太郎が!」
「ええ」
小次郎は十歳にしては驚くほど虚実の使い分けがうまい。打つと見せかけて打たず、打たないと見せかけて打つのである。同年輩の子供たちは翻弄されてしまう。
「陽太郎にはただ、間合いに入ったら打ち込めとだけ教えています。だから見せかけの動きに騙されずに打てたのです」
「はあ、それで打ち込めたのですか」
――でも、それは最初の一本だけでしょう。
隼人の予想どおり、三本勝負の二本目は、一本目のようにうまくはいかなかった。陽太郎の奇襲に懲りた小次郎は慎重になり、距離を取りはじめたのである。面打ちしか習っていない陽太郎の攻撃は単調で、じっくりと構えられるとその動きは容易に予測できてしまう。陽太郎の打ち込みが何度も空を切った。
そして、何度目かの空振りののち、陽太郎が大きく踏み込んで面を打ちにいったところ、小次郎の身体がすっと沈んだかと思うと、次の瞬間――。
パァン!
「胴あり!」
小次郎の見事な抜き胴が決まった。
一本目とは打って変わって、道場が歓声に包まれた。これで一対一の五分に戻った。
「測ったように胴を打たれました。面ばかり打っているのだから当然です」
お互いに一本ずつ取った。三本勝負は、次の一本で勝負が決まる。
「勝負!」
審判の合図ではじまった三本目は、なかなか決着がつかなかった。陽太郎も小次郎もお互いに警戒してなかなか踏み込めないでいるのである。陽太郎は不用意に打ち込んで、抜き技や返し技を食らうのを警戒しており、小次郎は予測できない陽太郎の無心の一撃を警戒していた。
「でも、陽太郎の動きが良くなってないですか」
本間の言うとおりだった。互角稽古がはじまって、まだわずかな時間しかたっていないはずだが、はじまる前と今とでは、陽太郎の動きがまるで違った。高い能力を持つ小次郎の動きに触発されるように、陽太郎の動きもだんだんと良くなってきているのだ。
「やあ!」
虚をついて打ち込んだ陽太郎の竹刀が、小次郎の右小手をかすめた。ついには習っていない小手打ちを繰り出すようになってきた。
「陽太郎が小手打ちをしてますよ!」
「はい」
強敵と互角稽古をするなかで、陽太郎がひとつ上の段階へと成長をはじめたのだ。面打ちに加えて、小手打ちができるようになれば、攻め手の選択肢が増える。守る側としては守りにくくなるわけで、実力差はぐっと縮まった。
それをもっとも感じているのは、陽太郎と相対している小次郎であるのに違いない。動きに余裕がなくなってきた。まだ相当の実力差はあるはずなのに、追い詰められたかのような焦りをその顔に浮かべていた。
小手、そして面と陽太郎の連続技を体を反らして避ける。しかし、陽太郎はさらに連続して面を繰り出した。
「やあ!」
ばしっ!
陽太郎の竹刀が、小次郎の面金を打った。浅い。一本には不十分だ。審判の手は上がらなかった。だが、続けざまに連続技を食らった小次郎は、気持ちの上で追い詰められていた。だから、次の技が出たのだ――。
陽太郎が竹刀を振りかぶり、さらに面を打ち込もうと踏み込んだ、その瞬間だった。
がっ!
鈍い音がして、陽太郎の小さな体が弾き飛ばされるように後方へ飛び、背中から道場の床に叩きつけられた。その手から竹刀が離れ、道場の壁際にまでころころと転がっていった。
何が起こったのか、隼人の見ている側からでは陽太郎の背中が邪魔をして見ることができなかった。しかし、これは――。
審判の手が上がった。
「突きあり!」
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